「日が照りながら雨のふる…」(9月20日)

 汽車に乗って
 あいるらんどのやうな田舎へ行かう
 ひとびとが祭の日傘をくるくるまはし
 日が照りながら雨のふる
 あいるらんどのやうな田舎へ行かう
  …                 丸山薫「汽車に乗って」

 ハード・スケジュールゆえ、朝食は小さなおかき(エールフランス機内で「オ
センベイ」という名で出てきたものだ)。三たび郵便局に寄ってからN1(国
道)に出ようとするが、これが大変だ。一方通行に翻弄されて市外へ出られな
い。しかも、天気がいいからと聖パトリック大聖堂やパーネル像(オコンネル通
りの北端)の写真を撮ったりしていたので、結局一時間もかかった。
 ドロヘダに行くならN2の方が近いのに、と夫は早くもあせり気味。某書物に
よれば、N1沿いの途中の町に古い円塔がある(らしい)から見たい、と私。そ
の町はソーズとラスク、どちらも地図上ではN1線上の点にすぎない。車窓から
次々とよぎる標示板をにらんでいると、「Swords」が現れた。行く手を見はるか
し、小さな集落らしい所に塔を認める。他に高い建物が見えないのだから、あれ
に違いない。
 高橋哲雄『アイルランド歴史紀行』中の参考地図に、円塔マークが記されてあ
った、ソーズの塔は、坂道を上りつめたところの小さな教会にあった。低い門柱
の間の柵は閉まっていたが、仰ぎ見たところ、素朴なローソク形でビスケット色
のやわらかそうな印象の塔だった。上の方に窓穴があり、カラスが群れている。
誰もいない、静かな村の朝。
 すっかりいい気分になって、次の「Lusk」でも助手席から伸び上がって目をこ
らした。あるある、今度も町に一つだけ塔が見える。行ってみると、やはり小高
いところに立つ教会。この塔は大きくて、ローソク四つを四角くつなげたような
立派なものだ。門があいていたので近くまで行った。案内板がある。「ラスクの
円塔 5世紀に聖Cuillinが建てた教会。9世紀に二度、ヴァイキングの侵入に追
われて村人が逃げ込んだが、彼らは虐殺された」。もう一つのプレートには、
「中に入りたい人は、ミセス○○(忘れた)が鍵を持っています」。管理人のお
ばさんを訪ねる時間はないので、車に戻って先を急いだ。
        ◎        ◎        ◎
 N1を北進するうちに何だか曇ってきた。ドロヘダは雨。ここを過ぎて少しの
所にモナスターボイス修道院跡があるはずだが、…見つからない。緑の丘が驟雨
に曇っているばかりだ。左手に曲がってコロンという集落まで行ってしまい、そ
こから標識を頼りに行き直す。やっと見つけた時は、暗くなるほどひどい降りの
真っ最中だった。遠足か見学か生徒の一団が20人ばかり、私たちと入れ替わりに
去って行った。すると辺りは森閑と静まり返って雨音、風音ばかりが迫る。
 5世紀に建てられ、後にやはりヴァイキングに占領されたモナスターボイスの
円塔は、くろぐろと堅固に立っている。が、天辺は欠けこぼたれ、廃墟と墓地を
見下ろした姿はわびしげだ。ケルト特有の組紐や動物模様の彫刻で有名なミュレ
イダハ・クロス(高十字架)や、他の二つのクロスも、降りしきる雨に邪魔され
てゆっくり見るどころではない。私はあちこち駆け回ったり円塔下の階段を上っ
たりして服は濡れ、傘は裏返り、もつれ髪が顔にかかって、放浪のケルト人もか
くやというような有り様である。ようやく車に逃げ帰って暖房で暖まった。
        ◎        ◎        ◎
 モナスターボイスの近くにメリフォント修道院跡がある。雨はやんでき、道に
も案内板があって、今度はスムーズに見つけることができた。門の跡らしい崩れ
たアーチの向こうが駐車場、その向こうに一大廃墟が広がっている。中に入るに
は料金を取っていたが、手前の駐車場の低い石垣ごしに、礎石や崩れ残った石壁
などが見下ろせた。教会建築にあかるくないので詳しいことは分からない。12世
紀に建てられたシトー派修道院の総本山だということだが、木造建築と違って石
の文化は、うち捨てられ壊されても、廃墟となってその滅びの姿を長くとどめ続
ける。風雨にさらされ、あちこち欠けた石また石を、ふちどる芝の緑が鮮やか
だ。
        ◎        ◎        ◎
 メリフォントは短時間で切り上げて、ボイン川の支流(マトック川)沿いに走
り、ニューグレンジ古墳へ急ぐ。ボインの岸辺にはとうとう立てずじまいだっ
た。ニューグレンジはさすがに一級の観光地と見え、駐車場にも何台も車が止ま
り、見学の人が次々と坂を上って古墳のふもとへ歩いてゆく。
 すっかりお昼を回ったので、古墳に隣接する牧場の一角の店に入った。「牧場
見学もどうぞ」などと看板を出していて、ちゃっかり遺跡に便乗しているらし
い。店の戸口のところに、先ほどの雨のせいだろう、ずぶぬれのみすぼらしい犬
が一匹、哀れっぽい格好で寝そべっている。
 熱いスープとサンドイッチで空腹を満たし、外へ出た。雨は上がり、濡れた犬
は飼い主らしい農家のおじさんの後を追って走って行く。私が上着を置き忘れて
走り戻ったりバタバタしていると、運良くその間に天気が回復し、古墳に入る順
番を待つ頃には日が照り始めた。なだらかな丘の連なる地平から地平へ、雲が流
されてゆく。濡れた牧草は太陽の光に輝くばかりのみずみずしさである。
 古墳案内役の女性が、入り口にある有名な線刻した石を前に、長々と説明をし
てくれる(見学者たちはみんな熱心に聞き入っている。日本の観光地のようにガ
イドを無視しておしゃべりしたりする人はいない)。それによると、横長の石の
向かって左半分に描かれた三つの渦巻きは、ニューグレンジ、ドウズ、ノウズの
三つの古墳をさし、右の小さな渦巻きや四角い記号は当時の建物を、下方の余白
をうめるような波形の曲線はボイン川の流れを表す、という説があるそうだ。な
るほど、石の平らな面いっぱいに描かれた意味ありげな線刻は、デ・ダナーンの
鍜冶神ダグダや、彼の息子、妖精王アンガスが住んだという、ブルーナ・ボーニ
ャ(ボインの丘)一帯の魔法に満ちた土地の地図に、いかにもふさわしい。ガイ
ドさんは別の解釈もいくつか紹介した。たとえば三つの渦巻きは現在・過去・未
来を示す、とか何とか(全部は聞き取れなかった)。
 説明が終わって、羨道を通って古墳内部に入ることになった。人一人やっと通
れるかなという隙間を一列になって進む。どんづまりは石室、周囲の石積みの壁
は高い天井に向かって次第にすぼまっている。こういった造りについて説明があ
るが、よく聞き取れない(他の見学者たちは冗談に笑ったり、楽しそうなのに、
こういう時ニッポン人は惨めである)。懐中電灯で照らされた壁石にも、不思議
な線刻。

 There is a place on the east        とある東の地に
 Mysterious ring, a magical ring of stones  神秘的な魔法の石の輪がある
 The druids lived here once they said    昔ドルイド僧が住んだという
 Forgotten is the race that no-one knows   その民は忘れられ誰も知らぬ
              ,
  Rum de rum 'rud a deirim o (くり返し)  (ゲール語? 不明)

 The circled tomb of a different age     異なる時代の環状墓
 Secret lines carved on ancient stone    古えの石に秘密の線が刻まれ
 Heroic kings laid down to rest       英雄王が横たわり安らいだ
 Forgotten is the race that no-one knows   その民は忘れられ誰も知らぬ

 Waiting for the sun on a winter's day    冬のある日、太陽の光線が
 And a beam of light shines across the floor 床にさしこむのを待っている
 Mysterious ring, a magical ring       神秘の輪、魔法の輪
 But forgotten is the race that no-one knows けれどその民は忘れられ誰も
              ,         知らない
  Rum de rum 'rud a deirim o (くり返し)

                   “NEWGRANGE” by Clannad (民族音楽のロック・バンド)

 ガイドさんが「冬至の日の朝陽がのぼるとき、羨道入り口上のルーフ・ボック
スという穴から差し込んで、石室の奥を照らす」という、あの神秘的な話をした
後、実際にやってみましょうと言って明かりを消した。大地の胎内に入ったみた
いに真っ暗だ。隣の人の顔も見えなくなるこの瞬間、太古の昔にタイムスリップ
するような感覚に遊ぶことができる。一呼吸おいてから、古墳外のもう一人のガ
イドさんと連携してライトで冬至の太陽が再現される。なるほど、あんなに狭く
曲がりくねった羨道だと思ったのに、ライトの光が石積みをおぼろな褐色に照ら
しながら、一番奥のくぼみまで届く。その光の頼りなさが、狭い石室にすしづめ
にされた私たちにとっては、外界との唯一のきずなという感じだ。
 石室を出た後、古墳をぐるりと回ってみると、他にも線刻の大石や遺跡めいた
石があった。たそがれ時など、妖精か亡霊が出そうな雰囲気になるのだろうが、
午後はどんどん過ぎてゆくし、次はタラの丘が私たちを待っている。
        ◎        ◎        ◎
 タラの丘は手持ちの地図に載っていないので心配だったが、案内板があってす
ぐに見つかった。だがまたもや天気が怪しくなり、誰もいない丘裾の坂道を、上
の方に見える教会と木立ち目指し登ってゆくと、強い風に乗ってばらばら雨が落
ちてくる。
 教会の低い石垣の向こうに広がる緑の丘が、テアムハイル(タラ)の中心的な
遺跡群だった(教会の手前も遺跡なのだが、見る暇がなかった)。ここには建物
は何も残っていない。盛り上がった丘の一つに古墳が口を開け、また、リア・フ
ァール(運命の石、島のケルトの四つの神器の一つ)と伝えられる先の丸い立石
がぬっと立つだけだ。
 丘といっても、説明書にはラース(囲い地)とあるので、「塚」といった方が
正しいのかもしれない。草地は溝や堀のようなでこぼこがきつくて歩きにくく、
いかにも古い遺跡を踏みしめている感じがする(ただし足を取られそうになるの
はそのせいばかりではない。そこかしこの羊のフンが夫をうんざりさせた)。草
の中にあるのは、各遺構の名前を記した細い小さな看板のみ。風が雨を運び、ラ
ースのすぐ横の草地で数頭の羊がおとなしく歩き回っている。
 「でも、ここからの眺めはすごいねえ。周りじゅうが見渡せるねえ」。デ・ダ
ナーンの諸侯たちが宴を張るこの丘へ、あの地平の辺りから一人の少年が近づい
てくる。その髪はきらめく金色、まるで太陽そのもののよう。少年はテアムハイ
ルのふもとに来ると、次々と自分の技芸を申し立てて入城してくる。諸芸の達人
の太陽神、長腕のルーグの登場だ。そんな神話を思い起こしながら、うねる丘
陵と雲との360度パノラマを楽しんでいる私を尻目に、夫は車に戻ろうとしてい
る。晴れていたらここでお弁当でも食べて、と思っていた当初の予定より、ずい
ぶん遅れているからだ。
 だが私は、やがてこの丘の大地となっていにしえの遺構を埋めていくであろう
羊のフンをものともせず、ラースからラースへと駆け回り、過ぎてゆく時間を惜
しんだ。すると風は灰緑の地平線の彼方から吹ききたって雨をさらい、太陽がキ
ラリとタラを照らした。英雄ルーグの金髪のきらめき。デ・ダナーンの、そして
歴代のハイ・キング(王の中の王)たちの、つわものどもがゆめのあと、今は昔
日の宴の楽の音も消え果てて、伸びた草を羊たちが食んでいる。

 The harp that once through Tara's halls, 昔、タラの広間に響いた竪琴は
 The soul of music shed,          楽の音の魂を溢れさせていた。
 Now hangs as mute on Tara's walls,    今はタラの壁に架けられたまま
 As if that soul were fled.        まるであの魂が逃げ去ってしま
                      ったよう。
 So sleeps the pride of former days,    そうして昔日の誇りはまどろみ
 So glory's thrill is o'er:        栄光のおののきはもはやない。
 And hearts that once beat high for praise,喝采に高鳴った胸も
 Now feel that pulse no more.       今はもう脈打ちが感じられない。

      “THE HARP THAT ONCE THROUGH TARA'S HALLS”  by Thomas Moore

 丘を去る前に、教会の中の小さな窓口へ行って見た。係の優しげなお姉さんと
カタコトで話をし、遺跡の航空写真の絵葉書をわざわざ捜し出してもらって一揃
い買い求め、あわてて車へ。待ち兼ねていた夫はすぐさま出発、国道をびゅんび
ゅん突っ走ってゆく。
 丘の上でちょっと不思議に思いつつ、後になってやっぱり、と気づいたことだ
が、色んな本の写真にある聖パトリックの彫像が、見当たらなかった。絵葉書の
航空写真も、よく見るとはっきり聖者の立像が写っているのに、どうしたわけだ
ろう。さっきのお姉さんに訊いて来ればよかった…
        ◆        ◆        ◆
 走る走る。ネイヴァンの町からN52、マリンガーからN4に入って北西へ。と
もすれば前後に他の車が一台も見えないまま、まっすぐにどこまでも走る。町に
さしかかるとロータリーが現れる他、ほとんど信号なし、標識なし、60マイル、
80マイルと、スピードメータの針はぐんぐん振れてゆく。私たちのホンダには小
さな文字でキロも示してあるが、時々確認するととんでもない数字だったりし
て、びっくりさせられる。
 景色は牧場、森、湖、また牧場、丘、空、なんとも広い大地よ。過密なニッポ
ンでは味わえない、本当のドライブの快適さを体験した。
 西日に美しくきらめくシャノン川のほとり、キャリック・オン・シャノンで休
息を取った。小さな町だ。川辺に色とりどりの旗が立ち、白塗りの船がつないで
ある。通りの角の「Coffey's Pastry Case」(『歩き方』)でピザを食べ、シャ
ノンに架かる橋の上で深呼吸をした。
 車は再び走りだし、キイ湖付近の森林公園やアロウ湖などをかすめて、5時半
にスライゴーの町へ入った。今日の宿は、駅のそばのサザン・ホテル(『歩き
方』)。少し古風な、映画に出て来そうな建物で、ロビーには本物の暖炉に火が
燃えている(私は初めて見た)。
        ◆        ◆        ◆
 サマータイムか緯度のせいか、暗くなるまでまだ間がある。疲れも見せずまた
車を出して、町の少し北へ、イエイツの故郷の山、ベン・ビュルベンを見にゆ
く。町に着く直前にもはるかに見えていた、でこぼこした台形の山地は、氷河が
削り残した硬い岩の連なりだそうだ。ベン・ビュルベンはその西端の名。ケルト
伝説一の色男、フィアナの騎士ディアルマッドが、魔性の大猪と戦い、相討ちと
なって果てた場所である。
 やがてフロントグラスの濃いたそがれの空を背景に、雄大な山容がくろぐろと
現れた。突兀と連なる異様なシルエットは、なだらかな谷間の緑から突然まった
く異質にそそり立ち、なるほど、さいはての岸に乗り上げた、巨大な方舟にも見
える(アイルランドの先住民はノアの子孫だという伝説がある)。あるいは西の
彼方へ楽土を求めて乗り出さんとする船。ベン・ビュルベンはぬっと突き出たそ
のへさきだ。
 だんだんに谷へ下りて山塊の影に入っていくと、静かな木立ちに包まれてグレ
ンカー湖があり、そこへ二本の細い滝が、岩山の割れ目を伝うようにして落ちて
いる。山は間近で見上げると、今しも海からあがったばかりで、まだ水をしたた
らせている鯨のようだ。
 私たちはドラムクリフ村へ向かうべく、いったん谷の手前へ戻って来た。する
とその時、灰色や紫、茜色をした雲が切れ、西の海へ沈む前の太陽が、一条のや
わらかな光をこの太古の巨船に投げかけた。たちまちいかめしい山はヴェールを
脱ぎ、すっぱりと切ったような斜面は草原の薄緑に覆われて、ところどころに露
出した裸の岩肌は淡い金色に輝いた。詩人の魂を揺さぶる景色だ。
 「こんな山を眺めて育つと、世界的な詩人になるのかなぁ」。つぶやくうち
に、黒い木々に囲まれた小さな教会へやって来た。ここはイエイツの墓所であ
る。
        ◎        ◎        ◎
 道沿いに、円塔の基部が門番小屋のようにあって、そこを曲がると教会へ向か
う石塀の小道、右手の墓地の中には四方の欠けたケルト十字。塔と十字架はいか
にも古い時代のものらしい。円塔も、おそらくグレンダロッホやモナスターボイ
スにあったのと同様、雲つくほどにそびえていたのだろうが、すっかりこぼたれ
て、今は普通の家ぐらいの高さである。ここでも教会の塔にはカラスが群れてい
た。夕空にギャアギャアと反響する彼らの叫び声が無気味だ。
 W.B.イエイツは礼拝堂の真ん前に、白く平たい墓石の下に眠っていた。小
さな教会だからか、何の看板も説明板もない。ただ白い小石の上に、深紅のバラ
が数本、置いてあった。墓石には、彼が詩に書いた通りの文句が刻まれている。

   …
 Under bare Ben Bulben's head      裸のベン・ビュルベンの峰の下
 In Drumcliff churchyard Yeats is laid. ドラムクリフの教会墓地に、イエ
                     イツは眠る。
   …
 …a church stands near,        教会は近くにあり、
 By the road an ancient cross.     路傍には年ふりた十字架が一つ。
 No marble, no conventional phrase;   大理石もなければ、お決まりの碑
                     文もない。
 On limestone quarried near the spot  近くから切り出しただけの石灰岩に
 By his command these words are cut:  遺言により刻まれる言の葉は――
   Cast a cold eye            “生も、死も
   On life, on death.            冷たく見よ
   Horseman, pass by!            騎馬の者よ、通り過ぎよ”

                   “Under Ben Bulben”  by W.B.Yeats
        「騎馬の者」は妖精(シー)とも、風の擬人化とも言われる。

 建物の周りを回って教会の裏庭を見ようと、私は一人で歩いて行った。苔むし
傾いた墓が並び、地面は濡れて靴が滑る。木立ちや建物の中の暗がりから、夕闇
が音もなく忍び寄り、やわらかな地面から何やらゾッとさせる冷気が私の脚を伝
いのぼる。頭上の高い塔でカラスたちが嘲るように、警告するようにひときわ大
きくわめきたてる。「騎馬の者よ、通り過ぎよ!」――この世のものならぬ気配
の漂う逢魔が時。
 今までいくつか教会や廃墟や墓地を訪ねてきたが、怖いと思ったのは初めてだ
った。私は引き返し、背後から迫る冷気を振り切ろうと、陥没した墓の間をぴょ
んぴょん跳んで駆け戻った。門柱の間に続く開けた小道を背に、早く帰りたそう
な夫が待っていた。「ぐるっと回ってみようかと思ったけど、歩きにくいから、
もういいや」。私たちは町へ戻った。
        ◆        ◆        ◆
 スライゴーは小さな町だ。昭文社の旅行本によれば、川沿いにいくつかレスト
ランがありそうなので、行ってみるが、影も形もない。その一角は建物が取り
壊されている(どうりで94年版『歩き方』には載っていない)。すっかり夜にな
り、イエイツ記念館(むろん閉まっている)の手前のオコンネル通りを行きつも
どりつした。セーター屋や靴屋などこぎれいな商店が並ぶ(むろんどれも閉まっ
ている)。やっとパブを見つけて入った。小さくて薄暗い、素朴な店で、真ん中
に暖炉が燃えていた。地元のおっちゃんや若い衆がパラパラ入っている。高い椅
子によじ登って、ギネス社の「ハープ」を飲み、袋入りピーナツをかじった。
 アイルランドでは、夜になるとパブには食べ物がない。「二日で340マイル走
った」(夫)私たちは、ひもじくてしょうがない。店のオヤジに「どっか食べる
所は」と尋ねると、通りの向かいの店を教えてくれた。だがそこは、さっき私た
ちが覗いた時に閉まっているように見えた店だ。すき腹にビールがしみるので、
店を出る。「食いっぱぐれちゃうぞ」。そう思って見渡すと、何だか暗い町だ。
 「帰ろう」。結局、9時過ぎだったか、ホテルのレストランにすべりこみ、豪
勢に食べた。ここは観光客でいっぱいだ。真ん中の団体席みたいな場所には、老
夫婦ばかりの愉快なツアー客が陣取って、おしゃべりするやらクイズ大会をする
やら、楽しそうだ。まことに老後はかくありたし。

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