ドライブ事始め(9月19日) 重いお土産を先に日本へ送るため、今朝もはよからまたまた郵便局へ。やっぱ り曇天だ。(ロンドンでも見かけた)「バーガーキング」で朝食。ガラス張りの 窓際に座って、「アイルランドの銀座」(?)オコンネル通りを歩くダブリナー ズを観察した。スーツのビジネスマンも少しはいる。だが多いのはジャンパーや セーターを着て帽子を頭に乗せた人々だ。アイルランド人の顔つきというのがあ って、女性なら赤毛で目はパッチリ、リンゴのような頬、といったところか。男 性も洗練された都会人ではなく、親しみやすい「おっちゃん」という感じだ。 インフォメーションに行って明日、あさっての宿を決める。係員は美人で親切 だったが、結構時間を食って、「ハーツレンタカー」の受け取り時間を過ぎてし まう。店へ電話し、話し中なのでひたすら道を急ぐ。南へ、南へ。途中で通り過 ぎたスティヴンズ・グリーン(公園)の、雨上がりの鮮やかな緑、池に浮かぶ白 鳥、咲き乱れる花々、散歩する老夫婦といった、心引かれる風景を横目でにらみ ながら、少し高級な街路を過ぎ、やっとハーツの小さな店へ。見ると、車は青い かわいいホンダであった。キーを差し込むとき盗難防止装置がピーピーなったり して夫をびっくりさせたが、まずは順調な滑り出し。今日はこのまま南へ町を抜 けて、グレンダロッホへ行くのである。 ◆ ◆ ◆ お昼ごろ、パワーズコート(貴族の館)に立ち寄った。少し迷った後たどりつ いたのは、うっそうたる森をつらぬく舗装道路、それから雨上がりにぷうんと匂 う牧場、植木を売る大テント。それらは全部この館の地所なのだ。中に入るとま ず幾何学模様の植え込み(木の刈り込みはベルサイユを模したそうな)、アーチ をくぐると広大な前庭。玉石を敷き詰め、日時計、石の水盤と彫刻、石段を下れ ば一対の黄金のペガサス(ベルリンで造られたそうな)の向こうに静まり返る池 が、木立に包まれ、スイレンを浮かべて、はるかウィクロウの山々を遠景に、鎮 ・・・・ 座していた(ど真ん中にいかにもという噴水があったが)。贅の限りを尽くして 趣味に走った庭園だ。ただそれらを見下ろす石造りの館は荒れ果てて、天井がな くなっており、壁の内側に生い茂っては枯れた草や低木がドライフラワーのよう になって欠け残りのガラスをこすっていた。 この庭園、周囲には(笑ってしまうような変な)「日本庭園」や、岩の入り組 んだ人工の小洞窟ほかまだまだ見所があったのだが、全部は見切れなかった。 庭園入り口近くの小さな店でサンドイッチやスコーン、スープを食べた後、霧 のかかるウィクロウの山並みを見ながら私たちは車を走らせた。雨は時折ぱらつ く程度だが、山に分け入って行く感じでだんだん薄暗く、霧っぽくなってきた。 ◎ ◎ ◎ グレンダロッホは霧の上る緑の谷間にあり、ひっそりと立つ大きな円塔が印象 的だ。古く栄えた修道院の廃墟は有名な遺跡なので、手前に駐車場、ホテル、売 店などがあるが、雨のせいか季節のせいか見物人はまばらだ。「人群れをなして 集まりくるグレンダロッホ」「七つの教会の町」と讃えられ、ヨーロッパにも名 声がとどろいたというアイルランド四大巡礼地の一つとは思えない。初期キリス ト教の遺跡が集まる一角へ、岩の門(これも遺跡だ)をくぐって入って行くと、 別世界の霧に包まれる心地がした。遺跡といっても最近のお墓もたくさんある。 大小のケルト十字が子どもの群れのように円塔の周りに集まっている。雨はやん でいるのだが、木々に雨垂れと霧がまつわり、墓石は濡れ、灰色の天を指す円塔 はこの谷間に取り残されたまま何百年も立ちつくす孤独な巨人のようだ。 この地をひらいた聖ケヴィンの石の小屋を見、せせらぎが聞こえる方へ遺跡群 を離れて、川沿いの小道を上っていった。誰にも会わない。緑はいよいよ濃く、 行く手の谷の曲がりに霧が白くおりて来ているのが見える。振り返ると円塔のと がった天辺だけが木立から突き出ている。その向こうの丘は頂上に木のない、 のっぺりした不思議な形。グレンダロッホ湖の岸に出た。「二つの湖の谷間」の、 下の湖である。一本、二本、紅葉している木があって美しい。 ここも静かで、水だけが音もなく広がり、そっと手を浸すと切るように冷たかった。 そこから引き返して岩の門を出、お土産屋を物色した後、車で上の湖の入り口 まで行ったが、結局奥には行かずに帰路についた。(自動車免許を取ったばかり の私はここで10キロほど初めて運転した。交差点も信号もないのはよいが、道の 両側に茂ったヘッジをしばしばこすりそうになり、隣の夫をひやひやさせた。) ◆ ◆ ◆ テンプルバー・ホテルに戻って駐車場を尋ねると、専用のはないらしく、少し 南のごちゃごちゃした路地裏にある一般の駐車場を教えられた。暗くなるまで時 間があるので、ダブリン市内を車で走る。一方通行がやたら多くて閉口したが、 聖パトリック大聖堂へ行くことができた。 私は以前から教会の中を見るのが大好きだが、ここはJ.スウィフトゆかりの 地とあって彼の椅子やら胸像やらがある。聖歌隊席の上には古い紋章を染め抜い た旗やかぶと、剣などが飾られていた。スウィフトの墓が見当たらないので入り 口に戻ってきたら、何だ、入場料を払った小卓のすぐ向こうに、ちゃんと綱で囲 ってあった。シンプルなお墓のタイルに向かって、夫が光線の悪いところでカメ ラを構えていると、かすかに人の気配が遠くでして、ほそく澄んだ歌声が賛美歌 を合唱し始めた。私は木の長椅子の一つに座って聖歌隊席の方を眺め、長崎の教 会で歌われるような、カトリック独特のあの物悲しい旋律が高い天井にゆるゆる と流れていくのをじっと聞いていた。この節回しを聞くと私は隠れキリシタンの ことをつい思い浮かべる。ともあれ、長い興奮の旅の一日の終わりにふさわし い、夕べの祈りであった。 ◆ ◆ ◆ 7時前に車を降り、テンプルバー通りの「ギャラガー」という店でアイリッシ ュ・シチューの夕食を食べた。夫はシチューに山盛り入っているマトンに閉口し た模様。食後、いよいよパブへ向かう。「The Stag's Head」(『昭文社』)。名 前の由来は、天井近くに架けられた、立派な枝角の牡鹿の首だ。なかなか由緒あ る店のようだが、若者が多く出入りしていた。ギネス社のラガーで「Harp」とい う銘柄を見かける。今度飲んでみよう。 このページの先頭に戻る 灰色のダブリンに戻る 「石と緑のアイルランド」の表紙に戻る 「日が照りながら雨のふる…」(9月20日)に進む