ミニマリスト生活マニュアル

ミニマリストとして生きる

ミニマリズムとは

1月:食べること 腹6分目がよい
2月:着ること 古着の楽しさ
3月:住居: 書籍の整理、情報の整理 そして引越し
4月:仕事: SOHOと生活経費
5月:健康維持: 病気になったら、判断基準が必要
6月:自学自習 :好奇心からの出発
7月:趣味、パスタイム、テーマのある旅行
8月:家族: ふたり
9月:シンプルライフ:社会とのつながり、環境問題、省エネルギー
10月:内面生活の豊かさ
11月:貯えは必要か
12月:老いと死ぬことに代わって、これからの生活

ミニマリズム?

シンプルライフ(簡易生活)の方法として、
ミニマリズム(ミニマム消費・ミニマム廃棄・ミニマムエネルギー)が良いと思っています。


楽だからミニマリストとして生きると決めました。

「変化の予測」を身に付ければ、シンプルライフは「楽々ライフ」になります。
なぜなら、先を思い悩むことから開放されます。

ミニマリズムが目指すこと:

鳥の自由(98/06/11)
野鳥を見て楽しむことをアメリカで覚えた。日本に帰っても、その楽しみは続けている。幸いなことに、湯河原の仕事場の窓から野鳥たちの生きるさまがよく見える。

鳥が自由に羽ばたいていることに、自分の気持ちをかさねているのだろうか。

自由の意味を求めて生きてきた。
求めてきたものは、拘束からの自由ではない。物欲からの自由ではない。時間的制約からの自由ではない。お金の不如意でもない。
xxxxからの自由ではない。絶対的自由とでもいうもの。

鳥を見ていて、ふと、すべての存在が自由と思われた。

自分が自由だと考えると、とたんに自由を求めることじたいがおかしいことになる。
ミニマリズムはむつかしい?!(98/06/04)
自動車の修理で悩んでいる。エアコンの不具合がはっきりしたしまった。ガスが漏れているのか、コンプレッサーが悪いのか、まだわからない。検査をするのに、約1万円掛かるとのこと。

ただでさえ、1980ccの車は大きすぎると思っているので、この際、エアコンなしで我慢してしまおうかとも考えているが、先日の雨中ドライブで、フロントグラスが曇って難儀したときは、エアコンは安全運転になくてはならないと思ってしまった。

梅雨入りとTVで言っているが、今日の気分は、無しで済まそうと決めている。明日になるとどうなることか。
日常生活では(98/07/02)
6月12日に、リサイクルセンターの周辺土壌のダイオキシン調査の実施を町田市議会が決議した。
リサイクルセンターは町田市のゴミを焼却して、センター内に埋め立てている。

ゴミを減らすことはミニマリストとして生きることの基本姿勢である。


腹6分目(98/07/11)
腹8分とはよく言われているが、私は6分がちょうど良い。6分を過ぎると、いっきに腹12分にいってしまう。

腹6分の実行には、食べ物を残すこと。私は、あと1口でも、残してしまう。片付けるために食べることはしない。プラスチックの入れ物をいろいろのサイズで持っていると、気軽に冷蔵庫に残しておける。

腹6分の効用は先ず、次の食事がハラペコで食べられること。空腹で食べれば何を食べてもおいしい。

経済的であることは、明らか。食べ物を捨てなくなるし、買い物の量が減る。従って、ゴミが減る。

健康的であることはいうまでもない。胃に負担を掛けないせいか、胃がもたれるとか、おなかの調子が悪いとかほとんど起こらない。肥満とは縁がないことは当然である。

胃に負担が掛からないと血液が全身をスムースにめぐるらしい。頭がさえてくる。

寝つきも良くなる。夕食後、胃の消化が終わってから寝ることになるせいだろう。

さらに、不思議なことに、食欲を意識して押さえると物欲がコントロールできるようになる。衝動買いをしなくなる。

性欲も調整できるようになる。

食欲とその他の欲望は連動しているとしか思えない。

そんなわけで、私は腹6分を他人にも勧めている。


古着の気楽さ(98/09/09)
古着をよく頂く。今、着ているものは、頂いたものと、少なくとも5年以上前に購入したものだ。

古着の良さは、先ず、着心地の良さにある。エリなど、少々、くたびれているが、体にぴったりとフィットしている。

つぎに、いうまでもないが、経済的である。わたしの場合、わざわざ古着を購入することはないので、経費ゼロである。

3番目に、ものを大切にする心が、大いに育てられる。反面、なかなか処分できなくなる。

4番目に、腹6分目の考えと同じだが、あれこれと流行を追うことがなくなり、物欲のコントロールに役立つ。

最後に、人としての中身の充実を要求される。これが、最大のメリットかもしれない。


モノと物事の整理(98/09/14)
いろいろと片付けをやってみたが、モノと物事の整理をやり過ぎないようにすることが肝要だ。

ポイントとして、書籍と過去の情報の整理を心がけるとよいだろう。

このところ、書籍の整理を熱心にやった。図書館の分類の真似事で、みかん箱に分類して突っ込んだだけ。だが、不要な書籍がかなりみつかった。判断できないものは、そのまま、未整理の箱に入れておいた。不要書籍は、リサイクルセンターか、古本屋さんへ持ちこむ予定。

過去の情報の整理は、写真、手紙の片付けである。保存するか、しないかの整理で十分である。情報の質に関する自分なりの考えを決めてからとりかかると、思いのほか成果があがる。減らすことができるということ。

衣類、道具類の整理まで突き進むと、それ自体が目的になって、先ず、なかなか終わらないし、日がたつにつれて、億劫になる。1%の持ち物を減らす感じで、やめておくことがよい。


本の堆積(98/06/10)
増えきってしまった本に埋まれている。せめてどの本がどこにあるか知るために、ダンボールにいれて、分類しているが、そのダンボールの数が増えるばかり。

現在、図書館を極力利用して、購入しないように努めている。図書館ではリクエストをすれば、買い求めてくれるので、すっかり利用させてもらっている。

インターネットを使った情報収集もすっかり手馴れて、ことある毎に利用している。最新情報が入手できることが、第一の利点だろう。

出版不況の片棒を担いでいるわけだが、不況で収入も減り、本の購入をひかえることは当分続くだろう。プラス、本の片付けが、ほぼ不可能に近くなっていることも購入意欲を鈍らせている。

座右書を選びたいのだが、どうも手がつかない。
とりあえず、どんな状況で座右書を読むのか考えてみよう。宗教書か。易の書籍をかなり持っているがそのあたりか。


引越しを終わって、片付け魔になる(99/11/30)
やはり尋常な量の荷物ではなかった。
まあ、よく貯めていたものだ。

母の荷物の中には、戦前の朝鮮から持ちかえったものまであるし、
祖父の遺品と、父の遺品が鞄1つとダンボール1箱、そっくり整理されずに出てきた。その中には父の旅日記もあった。

自分の荷物は、アメリカから帰国してから、心がけて増やさないようにしてきたし、持ち物整理も少しづつやっていたせいか、驚くほどの量ではなかった。

台所は、ゴミの山だった。なぜこんなものをとって置いたのかと思うものが次々に出てくる。
貰い物が多い。引き出物というモノだ。

33畳の公団アパートにいたが、荷物の整理と掃除に延べ3日は十分に掛かった。友人が手伝ってくれたので、こんな日数で終わったけれど、ひとりでやれば、優に、1週間は掛かっただろう。

すっかり、片付けることに面白さを感じるようになった。
偶には、過去を振り返ることも大切だろう。

片付け・整理には、これからの生活のイメージが必要になる。
どんなことをして、これからの日々を送るかによって、
必要、不必要の判断が出来る。
特に、本の整理には、そのイメージが不可欠である。

片付け終わったあとの爽快さは言うに及ばない。

片付け魔としては、こんどは友人の家でも狙うか。


仕事(98/09/18)
わたしの仕事は、インターネットコラムニストとして、サイト紹介、サイト批評などのエッセイを寄稿している。

クライアントを1社に限定しているので、収入も少ないが、経費も押さえられる。インターネットをフルに使って、取材をしている。成果物は電子メールで送付する。出かけることは殆どない。仕事のスタイルはSOHOである。

ミニマリストといえども、稼がなくては生きて行けない。最低の収入を確保する、と同時にミニマムの生活経費を把握することが、大切なことだろう。

年金生活者なら、生活経費の削減のアイディアを考えればよい。

生活経費の削減については、生活全体の月々の経費を、先ず把握するとよい。無駄が分かるようになれば、しめたもの。リサイクルと創意工夫が、経費削減のアイディアを生む。炊事、洗濯、仕事、遊び、何をするにも創意工夫である。

ミニマリズムが生活のコンセプトとして、しっかり、家族の一員にまで理解されれば、経費は自動的に落ちる。


健康維持(98/10/07)
健康維持のコストをミニマムにすることが生活の関心事のひとつである。

基本的には、食生活に気をつけること。腹6分目と現地調達主義だ。

腹6分目のことは前に書いた。
現地調達主義とは、生産地で購入すること、言い換えれば、住んでるところの近辺で採れるものを食材に使うことである。
厳格なルールではない。買物のときちょっと気をつけるだけ。

他に、ストレスを極力排除することである。ストレスは、普通、本人が気がつかない。

そこで、わたしは身体状況の陰陽バランスの崩れを随時チェックしている。陰陽のバランスが崩れるとストレスが発生する。この崩れを自然な状態で放っておけば、自然に治る。ただし、自然な状態で放っておくことが難しい。陰陽バランスをいつも検証する習慣が、今では身についてきたので、楽にできる。

変化とは陰陽の消長のことと思い込んでいるので、陰陽の加減をすることで変化をコントロールすることができる。

したがって、ストレスが発生したら、陰陽バランスが崩れている。だから、陰陽の加減をして、元に戻す。この修正をいつもやっている。そして、わたしの場合、陰陽の加減の方法は食生活を通じて行っている。東洋医学の道と呼んでもよい。

食は運命を左右するとは名言と思っている。


学ぶこと(98/10/21)
自学自習をモットーにしている。出発は好奇心である。ふと、好奇心をもったものをより知りたくなる。それが、わたしにとって学ぶこと。

よい師匠にめぐり合えることは、先ず、期待しないので、ケイコ事はやりたくない。いずれ書道を楽しみたいと思っているが、自習するつもりである。

どうやら、わたしの好奇心は自然現象と接する中で出てくることが多い。虹、雷、雨、空のような、自然現象のメカニズムに興味を持っているようだ。「変化」することに関心を持つ傾向がある。

学ぶことそのものに満足している人がいるが、わたしには理解できない。


テーマのある旅行(98/11/1)
近々、訪米する。南西部のカリフォルニア州、アリゾナ州、ニューメキシコ州をめぐる旅だ。目的地は、サンタ フェ・タオスと決めている。

旅程は、サン ディエゴ ― ユマ ― フィーニックス ― フラグスタッフ ― アルバカーキ ― サンタ フェ ― タオスの予定。
ニューメキシコ州は、一度訪れたところだが、わたしの話に良く出てくるせいか、同行人も行きたいという。

アメリカ南西部は、かって住んでいた東海岸のニューイングランドとは違う姿をしている。
始めて、サン フランシスコに降り立ったとき、ヒスパニックが多く、言葉が聞取りにくいので、戸惑ってしまったことを思い出す。

今回の旅のテーマは、好況を続けるアメリカ社会のもうひとつの部分を訪ねて、この繁栄が行き届いているかどうかを見極めることである。特に、貧富の差について見聞し、考えてみたい。

かってタオスを訪れたとき、ネイティブ アメリカンの生活はミニマリズムを実現しているように見えた。

日本が、いま目指している社会はアメリカ的民主主義が浸透した、自由競争社会のようにみえる。政治家、財界人、官僚の発言を聞いていると、そのような社会こそ豊かな社会と説得させられそうになる。

だが、アメリカ社会に現存する貧富の差と同じ状況が、この狭い日本に、よりはっきりした形で現出したら、人々はどう対応するのだろうか。

小さな中央政府、進んだ地方分権、が日本社会に実現しても、人々の生活感覚が現状のままでは、貧富の差は広がり、ギスギスした社会になりそうな気がする。

生活ノウハウとしてのミニマリズムが広まるかどうか。田舎暮らしが流行り始めているのも、庶民の知恵なのか。


ふたり(99/7/11)
分業でなく、共生したいと何時も思っている。
あなた家事やる人、わたし稼ぐ人といった、分業ではなく、何でもいっしょにやる生活を、60才過ぎたこれからはやってみたいが。

家族経営には「分業」が大切という人が居るが、わたしはこの「共生」の考えの方をとりたい。

「分業」は、ずばり、管理する人を生むと思う。その方が合理的に運営できる。
これまでの会社のやり方がまさにそうだった。

家の中に階層を作り、合理的に生きて行くことが好きな人も居るだろう。
「家事・教育」担当者が天職として、生涯続ける人も居るだろう。

だが、与えられた役割を越えたい人もいるだろうし、役割を与えられること自体に反発する人も居るだろう。

ミニマリズムは管理なき生活を目指す。フラットな関係を「ふたり」の間に持ちつづけることが理想である。

いろいろな生き方があって、初めて人間社会の共生が可能になるし、その多様性は、この地球上の人々の暮らしを少しづつだが、良い方へ向かわせてくれると信じている。


シンプルライフ in USA(99/4/9)
朝日新聞朝刊4月6日より掲載された「シンプルライフ in USA」を読んだ。大量消費と競争に明け暮れているアメリカで、もう一つの生き方を模索している人たちのネットワークを紹介する記事である。

「身の丈に会った生き方を」を実践している人たちがいることは、留学中に気がついていた。ヴェジタリアン、瞑想家、バードウォッチャー、アーティストが身近にいくらでもいた。

ミニマリストとして生きることを決めたのもアメリカ滞在中だった。
幸いなことに、つつましく生きる人たちに囲まれて、私の決心はゆるぎないものになっていった。
参考:熟年留学のほんとのおすすめ


92年ごろからの不況脱出の過程で、地球環境破壊に配慮した新たなアメリカ的消費文化が台頭しつつある中で、もう一つの生き方とは、科学的合理主義に常に疑問を抱く生活態度であった。

近代科学技術優先文明、特にコンピュータ技術やバイオ技術の利用と、石油に依存しすぎている文明を容認しながら、一方で、近代医学にはどうしてもなじめない生き方を、私は求めてきた。

テクノロジーを容認しながら、オルタナティヴ医学を求める人たちが、アメリカには存在した。インターネットを利用しながら、菜食と瞑想を大切にしているような人たちである。日本では、めったにお目にかかれない。どちらかになってしまう。

記事によると、アメリカでは、100をこえるNPOが生活のダウンシフティングやシンプルライフ運動のネットワークを運営している。
日本でも、ミニマルライフを実践している人たちのネットワークの核ができればと思って、私もホームページを更新している。


内面生活の豊かさ(99/5/24)
コンピュータを教えている。
CD-ROMとインターネットと電子メールと
自分探しのホームページ作りを教える。

中高年のパソコン教室を始めた。
パソコンが扱えなくて困っている人が多い。

何度か、パソコン教室に通ったひとがいる。
機械オンチとはやばやとあきらめている人がいる。

そんな人たちのために始めた試みである。

そんな人たちが、パソコンを使うようになると、生活が変わる。
インターネットに接続し、電子メールをやり取りするようになると、
人々の考えの多様性に気がつく。そして、少しづつ変わって行く。

インターネットで情報を発信している人たちもどんどん増えている。
友人は「2人で旅を」という定年後の旅行三昧の生活を日記風に発信している。

別の知人は、ゆっくりとインターネットサーフィン(世界中のホームページを訪れること)を楽しんでいる。
最近では、美術館にもっぱら接続しているとのこと。

コンピュータはデジタル人間を作り、
内面生活の豊かさを求めることの対極にあるように考えている人がいるが
大きな間違いである。

むかし、コンピュータの通信機能がお粗末なときならいざ知らず、今はすっかり変わってしまった。
インターネットの登場が、すべてを変えてしまった。

与えられる情報だけでなく、情報を選べることが、考える生活を豊かにしているのだろう。

コンピュータはミニマリストの生活になくてはならない。

生活のコストダウンと仕事の生産性を上げるために、どうしても必要である。
遊ぶ時間を作るためにも。

初心者にインターネットを教えるときのテキスト
別名:中高年齢者のためのお手軽入門テキスト
パソコン落第者のための再挑戦用テキスト
「これだけやればインターネットを楽しめる」


貯え(99/5/2)
貯えはあった方が良いといわれる。

年金があれば貯金はいらないと言いたいが、少々足りない。外国に行けば今の年金額で何とかなるが、病気になれば今の額では難しい。

今の状態では、不測の事態への対応が困ってしまう。実際に起こってしまえば、出来ないものは出来ないと開き直るに違いない。

いまの私には、貯えはない。だが、悠々と少なく生きることを心がけて、ないことを補うようにしている。


これからの生活(99/12/31)
インターネット教室を開いた。といっても、今は未だ出張教授のみ。

パソコン教室ではない。あくまで、インターネット教室である。子供たちから高齢者まで、インターネットとは縁の薄い人たちが、いつでも来て、学んだり、遊べることの出来る教室を開こうとしている。

「情報格差」が産まれてはならないという信念で、この教室を開設しようとしている。

貧富の差が戦争や紛争、さらには犯罪の原因と思っている私には、その貧富の差を助長する「情報格差」はあってはならないことに思える。

ヒト・モノ・カネが富の源泉になっていることは、異論のないところだが、情報が富を生み出し、増幅することも、高度情報時代になってくると、誰の目にも明らかになってきた。

加えて、情報が情報を生み出すメカニズムがこの社会に存在するのだから、情報を握っている、あるいは情報を獲得しやすい環境を持っている人たちが富みの蓄積がしやすいということになる。富の遍在でなく、偏在が、情報先進国の米国では顕著になってきた。

幸いなことに、これまで一部の人たちに独占されていた情報を、インターネットが普及することによって、多数の人たちが獲得する機会を持てるようになった。

電話での情報収集は、目的とか情報源の知識がないと、有効な情報にたどり着くのに時間が掛かったが、FAX、携帯電話、インターネットとなると、情報が随時公開されているので、手軽に、効率良く、情報が収集できる。情報源の知識と検索方法の習得さえやれば、誰にでも出来る。

インターネットの難しさは、収集情報の評価である。そして、情報を使うための編集と、再利用(発信)である。

私の考えているインターネット教室はこの情報収集の方法と、評価・編集と、その再利用を教える、あるいは、学べる場所である。

もうひとつ、この教室の目的がある。それは、情報収集の道具、すなわち、インターネットを利用する環境を提供することである。

誰もが、その環境を自宅に作ることは、今の日本では未だ時間が掛かる。
通信料金が高すぎる問題もあるし、パソコンそのものもいくら10万円を切ったといっても、家計には大きな負担である。

というわけで、このインターネット教室の普及活動を、これからの生活の中心においてゆこうと思っている。

幸せになるひとつの方法は、バートランド・ラッセルが「幸福論」で言うように、好奇心や興味を自己の内部に向けるよりも、外界の事物に向けること、私流に言えば、情報収集・編集・発信活動であるように思う。

同行の人を求めている。


老いと死ぬこと(99/10/31)
3ヶ月間更新できなかった。
当分、このテーマでは書きたくない。