桜舞うあの場所へ…
男達と別れた後、酒瓶を準備すると一人頷き歩き出す。表面上は何も 変わらないが、にとって今、まさにここは戦場だった。つい先程までは 自軍の陣だったここは最早安全な場所などない。自らが招いたことだが、 今更ながら不安が自身を襲う。 幼なじみを逃がす…それは魏軍にとって裏切り行為だ。我ながら大それた事を すると思う。だが、一度彼らと約を交わした以上、成し遂げるつもりだった。 何より自身の中に眠る『何か』の為に。 心の中の不安を押し隠し、兵の前でいつも通りに振る舞う。 「お勤め御苦労さま。」 「いえ、自分はここを見張るのが役目でありますから!」 天幕の外に立つ兵ににこりと微笑んで見せた。 「様こそ、徐将軍の元にあらずとも宜しかったので?」 「宴の席です。酒に弱き者には居づらい場所なのですよ。」 「失礼致しました!」 直立不動の兵に苦笑してみせると手にあった酒瓶を出す。 「気にしないで下さい。…貴方こそ、大変ですね。皆は勝ち戦の宴に 酔っているというのに。…そうです、一杯如何ですか?」 「…様?」 「役目を持っていても少しくらいならいいでしょう?他の役目の方にも 振る舞っておきましたから。さ、どうぞ。」 杯を手渡し、なみなみと注ぐ。兵たちにとっては徐晃の護衛兵とは言え、 格が違う。その勧めを断るわけにもいかず、酒をあおる。…最もその酒には 強力な睡眠薬が盛られているのだが。 程なくして眠ってしまった兵を見下ろすと天幕の中へ入っていく。一番奥に 手首を縛られたまま天幕の天井を見上げる将へ声をかけた。自分の顔が 分からぬよう、細心の注意を払い顔を布で隠しながら……。 「姜将軍でいらっしゃいますか?」 微かに震える声を懸命に紡ぎながら一歩、一歩その人影へと近づいていく。 震えているのは何も声だけではない。手も足も震えていた。戦場に立っても 震えることのない手足がこの緊張に耐えられないと主張していた。 久方ぶりに会う幼なじみを前に…は不可解な『恐怖』を感じて いたのである。それは自軍を裏切る事への後ろめたさ…なのだろうか? 「…姜伯約は確かに私です…が…私の元へ何用ですか?」 天幕のすき間から漏れる微かな月明かりが彼の顔を照らす。捕縛された将の ものとは思えぬ程落ち着いた表情だ。 「お迎えにあがりました。」 「…天への…ですか。」 まっすぐとこちらを見たその瞳は静かで澄んでいた。 澄んだ瞳の色は幼い頃から何も変わってはいない。変わらない彼の無垢な瞳に 安堵の息を漏らす。安心しながらも彼に正体を悟られぬよう懸命に声色を 変えながら手短に答えた。 「いえ、貴方の麾下に居た者が。」 「…貴女に何の益があって、手引きをしようとお考えか。」 抑揚のない声に首を左右に振った。 「益がないと何故言い切れましょう。」 「貴女は魏軍の方です。私を逃がしたとあれば、どんな科を受けるか、簡単に 想像出来る筈でしょう。」 「…確かに。」 まっすぐと突き刺さる視線には瞳を伏せる。 「昔のことです。」 「?」 突然話し出した姜維に伏せていた瞳を見開いた。天幕のすき間から零れる 月明かりに照らされた彼はうっすらと微笑んでいる。 「私には守りたいものがありました。とても、とても、大事なものでした。 私がまだ蜀軍はおろか魏軍にも所属する前の事です。…いえ、過去形で お話するのは正しくありませんね。今も、守りたいものなのですから。」 昔話をしようとする姜維とは他所に遠くから声が響く。恐らく、先程の男達が 火を放ったのだろう。時間がない、このまま彼の話を聞く程の時間は もうないのだ。 「姜将軍!」 「…急がなくともまだ時間はありますよ。…。」 「なっ…!?」 突然自分の名を呼ぶ彼に動きが止まってしまう。顔を隠していたのに、声すら、 変えていたのに…。余裕ありげに微笑む幼なじみに言葉が詰まった。 「気付かない訳がないでしょう。幼い頃からの付きあいです。貴女の声くらい 聞き分けられますよ。」 「馬鹿なこと言ってないで!お願いだから、早く…っ!」 悠長に笑って見せる姜維に腹を立てながら手首にあった縄を剣で切り、足に あった鎖を鍵で解いた。 「まだ時間はあると言ったはずです。」 「だから、一刻を争うのよ!?」 焦ったように姜維の腕をとって立たせようとするが、その手を軽く拒否する。 「移動手段もないままに?」 「馬があるわ!」 「成程…貴女の指示ですか。」 急に立ち上がった姜維が微笑んで見せる。昔見た笑顔をと同じ笑顔だ。 遠かった馬の鳴き声が近づいて来た。恐らくが指示した通り馬を 連れてきたのだろう。 「…迎えが来たようです。」 彼の言葉にほっと胸をなで下ろす。これで彼はここから脱出することが 出来るはずだ。緊張の糸が切れ脱力感が襲う。座り込んだまま、瞳を 閉じると急に自分の体が宙に浮いた。 「…な…!?」 「悠長にしている訳にいかないのでしょう?」 すぐ近くにある笑顔は余裕がありそうで、とても捕縛された将の表情とは 思えない。 片手で抱き上げたまま姜維は右手で近くにある槍を手にした。 「行きますよ。貴女も馬に乗ったら剣を構えて…ああ、顔は隠して おいて下さい。」 笑顔から一転姜維の表情が変わる。天幕を出、松明の明りに照らされた その顔はもう幼なじみの彼ではなく、武人としての彼だった…。 用意してある馬は一頭の筈である。彼と一緒にここから脱出するには 負担がかかり過ぎる、そう言おうとした矢先、先程の男達が2人やって来た。 もちろん、馬を用意して、だ。…彼らは二頭、馬を連れている。 「姜将軍、こちらの馬を。我らは他の者と合流致します。今なら混乱に乗じて すぐに脱出出来ましょう。」 「ああ。…すまない。」 二頭の馬を置いて元来た道を戻っていく彼らを見送ると抱えていたを 馬に乗せる。 「今更、一緒に行かないなんて言わせませんよ。」 「…強引ね。」 「ここに残っても貴女に待っているのは分かりきった結果だけだ。」 姜維も馬に乗ると左手で手綱をしっかり握った。右手の槍を持ち直し、 目を閉じる。自身の顔を布で覆うとと同じく顔を隠す。 「…昔からそう、一度言い出すと聞かないんだから。」 小さく笑いながら馬の腹を思いきり蹴ると腰にある剣を引き抜いた。の馬が 駆ける音に気付くとすぐに彼も馬を並走させる。体に受ける風が心地よく 感じられるのは隣に幼なじみが居るからだろうか。 「ええ、そうです。諦めが悪いですからね。」 「そうね。」 胸にある『恐怖』があっという間に消え去る。代わりに胸に沸いた温かい感情に は自然と笑みを零していた…。
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