桜舞うあの場所へ…





漆黒の闇夜の中松明が煌々と灯った陣営。
遠くからは酒気を帯びた者たちが楽しそうに声を上げている。はそんな宴から
離れ独り小高い丘にいた。夜風が彼女の頬をなで上げ、髪が舞踊る。

剣閣での戦いはあっけない幕を閉じた。
伝令兵の言葉に耳を疑った程、その言葉は信じ難いもので…。
ともかく、劉禅の投降という形でこの戦いの幕が下りたのである。

蜀軍の指揮を取っていた者の殆どは捕縛された。明日行う処刑の為に
この陣中に捕らわれている。それはの幼なじみとて例外ではない。
寧ろ彼は真っ先に首を取られるだろう。何しろ蜀軍の総指揮者だったのだから。

「…貴方が蜀になんて降ってしまうから…。」
星を見上げると幼い日々が…脳裏に美しかった思い出が蘇ってくる…。



「阿維はなんでも知ってるのねぇ。」
感心したようにが頬杖を付くと振り返った姜維が書簡を抱えて笑う。
「母上の為に強く賢くなりたいんだ。だからもっともっと頑張らないとね。」
「阿維の母様が羨ましい。」
「母上が羨ましいの?どうして?」
「だって阿維が大事にしてくれるもん。」
拗ねたように口をとがらせたに笑いかけると隣の椅子に腰掛ける。
まっすぐに見つめると手をとった。
も同じくらい大事だよ。」
「本当?」
「本当だよ。」
「じゃ、約束。阿維はを大事にしますって約束して?」
姜維の方に向き直ったは嬉しそうに笑うと小指を差し出す。
そんな様子に目を細めて姜維は頷き返した……。



優しい春の風が隣を駆け抜けていく。辺りは一面桜色で人々の目を楽しませていた。
そんな光景を愛しそうに見つめる。すると背中に気配を感じ、静かに瞳を閉じた。
その気配はいつも自分の隣にあるもの…温かく、心地よいもの。
「…伯約。」
「許昌に行くと…母上から聞いた。」
桜の花びらが散る中振り返ったは幼なじみの声に頷いた。
いつも微笑んでいるような優しげな表情でない彼を無機質に見つめ返す。
「…遠いと思わないかい…?。」
「…そうね。」
の言葉に次の言葉を紡ごうとしていた姜維の動きが止まった。沈黙が流れる
二人へ の家族からの声が届く。その声に が頷き、静かに微笑む。
その微笑みは切なさと愛しさと諦めを織り交ぜた複雑なものだった。
「…行くわね。」
「… …。」
家族の急かす声に小走りになる。振り返りたい気持ちを押し殺して馬車に
乗るとじっと前だけを見つめた。家族が話しかける言葉がただの音のように
通り過ぎていった。周りの全てに無関心を装わなければ、すぐにでも彼の
姿を追い求めてしまう。
目を閉じ、外界を遮断しても瞼に浮かぶのは彼の姿。
耳に残るのは彼の声。
馬車が走りだして間もなく堪えきれなくなったように振り返るとそこには
まだ人影があった。その人影に向かって涙しながら口にした言葉は……。



ため息をつくと瞼に映る記憶を押しやるかのように何度も左右に頭をふった。
「…綺麗な思い出は綺麗なまま……。」
壊したくないと思った。だがあの頃のように戻れる訳がない。明日になれば彼は…。
願っても無理なこと。あの頃に戻るなど無理なのだから。でも、せめて
今だけでもあの頃のように…。

ふと の近くで微かな物音がする。振り返るとその光景に目を見開いた。
蜀軍の残党…だったのである。腰にある剣に手をかけたものの、警戒を解くように
両手を下ろした。
「…何を求めてここに?」
の言葉に男達は剣を向けていた手に力が入った。警戒を解く様子もなく
ただ、剣を向けるだけ。 が相当の手練れだという事を感じているのか、
その剣先は微かに震えている。
残党がここに来る理由は…蜀主劉禅の奪回か…はたまた…。
の視線が捕縛された将達を囲む陣を見た。
「…伯約を…?」
「…姜将軍の字を何故…。」
男達が剣先を下げると遠くを見つめていた瞳がまっすぐと男達を捕らえた。
「…伯約を救いたくば、捕らわれた場所とは離れた場所で火を放ち、その間に…。」
自分の口から出た言葉に驚いたが、それも束の間、何かを決心したかのように
言葉を続ける。
「…私が縄を解きましょう。火を放った後、馬を一頭、寄越して下さい。伯約を
…自由にしましょう。」
「…その言葉、真か。」
「信じる信じないはそちらの自由。その人数で力押しは通用せぬでしょう。」
男達が剣を収めると は宴を行われている近くの林を指さした。
「あの辺りが良いでしょう。なるべく派手に事を起こして下さい。魏軍の兵全員を
呼ぶつもりで。そうですね…蜀主の奪回を口にするといいでしょう。彼の方は
宴に近い天幕に捕らわれていますし、貴方方が襲撃をかける理由として
多いにあり得ることですから。」
「…陽動か。」
「兵法の初歩です。」
の言葉に頷きつつも、幾人かが眉をひそめ再び剣の柄に手をかけた。その様子に
背を向けると数歩歩き出す。
「…私が信じられないのなら、それまで。御自分達だけで実行されるが良いでしょう。」
「そして私たちを捕らえるか。」
「他言するつもりはありません。私には何の益もない。」
「…。」

彼らが何も言葉を返さぬのは を信じきれないという証拠なのだろう。
この申し出は信じ難い事だ、仕方ない。自嘲気味に口の端を上げる。
彼女にとってこれは賭けなのだ。ここで彼らが頷けば、幼なじみと再会が叶う。
再会して何があるのか?と問われれば彼女自身首を傾げるに違いない。
幼なじみとの再会が 自身にとってどんな意味があるのか…それは
会ってみなければ分からない。幼き頃の思い出に縋るためか…
それとも…?

「それすら、信じられませんか?…ならば、この場で私と戦いますか?」
剣をすらりと抜き放つと振り返る。振り返った の表情は無表情で剣を向けていた
者たちの背に悪寒が走った。ひんやりとした殺気が から発せられる。
それを感じてか、男達の顔が歪む。集団の中核にいた人物が彼らの剣を収めさせると
をまっすぐ見た。
「…御協力をお願い出来るだろうか。」
「…承知。」
再び剣を収めると踵を返す。 を見送った後、残された男達もまた行動に移すべく
闇夜に紛れ、音もなく走り出した…。


<あとがき>
姜維が相手の話の筈なのに彼の出番が少ないですね(苦笑)
過去の少年姜維のみが出番とは姜維夢としてどうかと…。
ようやくこれから成長した姜維との再会です。彼との再会は
ヒロインに何をもたらすでしょうか…?