桜舞うあの場所へ…
あの時、桜の花が散っていたのを覚えてる? 桜色の吹雪の中、貴方を振り返って私が言ったこと…聞こえていたかしら? ────私はね、ずっと貴方が……… 剣閣の地に着いてからというものの、 は一言も発せず、ただ 目の前の山を見上げていた。その表情には影があり、同じ護衛の任に 当たっている同僚達すら声をかけづらい雰囲気を醸し出している。 遠巻きに見ている同僚には気付かないようでただ一人、内面の世界に入って しまっていた。 自分の剣の手入れをしながら、ただ山の上の方を見つめる。厳しい表情の 中にどこか寂しさを混ぜながら彼女は静かに瞳を閉じた。深呼吸すると 小さく何かを呟く。言の葉が風に乗り、誰の耳に入ることなく消えていった。 「………。」 閉じていた瞳を開くと山を睨むように見据える。唇をきゅっとかむと 風を切るように踵を返した。遠巻きにしていた同僚達の所へ戻りもう一度山を 振り返る。冷たい風が の髪を空に舞い躍らせ、呟いたそれは音となり、 言葉になった。諦めにも似たその言葉は自身を納得させるように紡がれる。 「…こんな形で貴方に会うなんてね……。」 山の裾に布陣した彼女の元へ次々に入ってくる伝令は予想もしないものであった。 先陣の曹仁たち二軍が蜀軍に撃破されたという。それも少数相手にだ。 この剣閣に派遣されてきた魏軍に比べれば、敵側の蜀の陣営にいる兵の数は 微々たるものである。それも魏軍には歴戦の将が四人も居るのだ。 更に一軍がこの剣閣を目指している筈。圧倒的な勝利で幕を引くことが 出来る戦いになるはずだと兵たちは思っていたのである。 だが、その戦は蜀軍にいるたった一人の男に翻弄されていた。 ──諸葛亮から全てを受け継いだ男。 蜀軍の全ては彼だと言ってもいい。 反対に彼さえいなければ、蜀軍など赤子にも等しい。 ──姜伯約…彼さえいなければ…。 彼さえいなければ、 の心がこんなに揺れることも無かっただろう。 彼を知らなければ、こんな思いを抱えなくても済んだに違いない。 幼い頃より彼を知らなければ…。 蜀軍が天水を攻めなければ…。 諸葛亮が彼を見い出さなければ…。 彼が蜀に降らなければ…。 仮定を幾ら並べてみても仕方ない。考えてみても現実が好転するわけではない。 は魏軍の将軍、徐晃の護衛兵。 幼き日の友人は…姜維は蜀軍の総指揮者。 二人は今、刃を交える関係にあるのだから。 「伝令!」 徐晃の元に傷だらけの伝令兵が駆け寄ってきた。顔面蒼白のまま、 声を振り絞ると三人目の将軍撃破の情報がもたらされる。周りの兵たちに動揺の 色が走った。それは当然先ほどの二将軍を撃破した姜維の部隊が相手だろう。 そして間違いなく、すぐにもここに… の元へやって来るに違いなかった。 伝令を受けた徐晃は動揺の色も見せず、静かに頷いている。 小さな馬蹄の音が聞こえて来た。 数は…少ないが整然としている。敗走する自軍の者ではないのは確かだ。 …恐らくそれは彼のもの。じっと前を見据え目を凝らす。 そして が顔を上げると遠くから栗毛の馬が駆けてくる。長い得物は…槍だ。 髪がなびき、凛とした声が辺りに響く。 「姜伯約と申す!お相手願う!」 の目の前で一騎打ちの申し出をしたのは、間違いなく幼き日の彼。 あの頃の面影を残した彼は蜀軍の…敵陣営の総指揮者として姿を現した。 徐晃がその申し出を受け、すぐに打ちあいが始まる。 一合、二合…。力強い徐晃の打ち込みを巧みに流すとすばやく切り返した。 魏軍三軍を打ち破り、体力も残り少ないであろうに、彼の目には力強い何かが 宿っていた。彼がこれまで背負ってきた全てが…彼を突き動かして いるのかもしれない。 それとも、彼の後ろには蜀の先帝やあの諸葛亮が居るとでも言うのであろうか? そんな筈はない。今、蜀を治めているのは凡庸な男。彼が幾ら、足掻いたところで あの男が魏軍に降ってしまえば、努力は水の泡となってしまうだろう。 …それでも、彼は戦い続けるというのだろうか? 何故、あのような男に従う必要がある? 数十合目。やはり疲れの所為か、いささか姜維の槍さばきに隙が生じ始めた。 その隙を見逃す程、徐晃も甘くない。渾身の力で振り下ろそうと大きく振りかぶる。 姜維もその動きを見ており、流すことを出来ないと悟ったか、防御の構えを取った。 大斧を振り下ろすと辺りに鈍い音が響き の視界には槍の柄で防ぐ彼が見える。 残り少ない体力では徐晃との力押しの勝負に勝てるわけがない。 左腕が微かに震えているのが見えた。…二人の均衡は崩れる寸前。 お願い…。 自然と手綱を握る手に力が込められる。そして二人の力の均衡が崩れた瞬間、 思わず声を上げてしまった。張りつめた糸が切れてしまったかの様に。 「…伯約っ!」 切ない悲鳴に姜維と徐晃が振り返る。 二人に隙が出来た一瞬だった。 先に現実に戻った姜維がすかさず一撃を繰り出す。対する徐晃は無理な体勢で 攻撃を避けようとした所為か馬から転げ落ちた。体勢を建て直し再び馬に 飛び乗ったその時、姜維の隊の元へ伝令兵が駆け寄る。 たちの元にも伝令兵が戻ってきた。 ──二人の伝令兵が伝えたことは………。
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