小田原が歴史に登場するのは室町時代の土肥氏から大森氏にかけての頃です。その後北条早雲が入城し、関東一円を支配した北条氏の時代には、当地はすでに代官小路と呼ばれていました。当時の代官というのは町や地域をまとめる役職であり、その代官達が居住していたのが小路の名の由来と言われていますが、はっきりしたことは判っていません。
 豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏が追われ、その後小田原城主となったのは稲葉氏でした。この時代の初期に小田原城天守・本丸・二の丸・三の丸が整備され、町割りが行われました。それによって代官小路が「代官町」と呼ばれるようになりました。今からおよそ四百年近く前のことでした。
 江戸時代に入ると、代官町には折箱職人をはじめ多くの職人達が暮らしていましたが、何といっても「魚座」と呼ばれる魚商人達が多く住んでいて、その数は代官町全体の3割を占めていました。魚座屋敷が並ぶ魚座横町や魚座名主の住まいもあり、まさに代官町は魚座の町でした。また代官町のさほど広くはない地域に5つもの寺院があり、魚と信仰で栄えてきた代官町の歴史を物語っています。
 代官町は明治維新を経て時代の変化に伴い小田原町第12区となり、その後昭和15年、周辺町村との合併で小田原市となってからは、現在の第24区という名称で呼ばれることになりました。しかし「代官町」という名は町名の呼称として今でも使われています。そして私達はその名を誇りに思いながらいつも親しみを込めて呼んでいます。
かつて魚座が軒をつらねた代官町のメインストリート。その先はお隣の千度小路へ続いています。今でも魚を商うところが数件残っています。

現在の代官町は国道1号線から御幸の浜へ向かう海岸通りを中心に広がっています。

御幸の浜一帯は小田原海岸袖が浜と呼ばれていましたが、明治6年、明治天皇・皇后両陛下が地引網ご見学のため御幸になられたことからその名が付きました。