「多文化社会における教育」

- The Diversity Education in Japan -

BY 藤村好美先生

97/02/28 11:24:38


(このページは東大大学院の藤村先生のご講演をもとに作成してあります)

1.現状分析:(ここは私の考えです、省略して「多文化社会教育」に行かれる方はここをクリック

 日本は近代社会を目指し、明治維新以後西欧諸国に追いつき追い越そうとずーっと努力してきた。その結果、大戦を経てからの日本はどん底から一気に急成長し、今日の経済的な繁栄を築き上げてきた。それはまさに、とてつもない偉業であって私たちの先代に深く感謝しなければならないだろう。

今21世紀を目前に控え、情報化社会と言われる中で「個人が主役になる」時代が来た。全員で一致団結して一つの偉業をなすことがあまり聞かれず、個人として何をしたか、できたかが問われているような気がする。ボーダーレスの世界において世界が小さくなるにしたがって国と国、人種と人種という見方から、一人の"人間としての、個人の尊厳"が重要な意味合いを帯びてきている。私たち日本人はたとえ海外で現地語をぺらぺらと喋ろうとも、市民権を獲得していようとも、日本人は日本人でありそれ以上でもそれ以下でもない。国籍や人種は言動に関係ないが、日本人であるということは事実である。どういう日本人なのか、そしてどういう人間なのか、それがはっきり言えてこそ、「個人の尊厳」「個性」が表現できるのではないかと思う。日本が大嫌いで海外永住したとしても、日本が大嫌いな日本人なのである。まずどうしようもない環境、社会現象は享受した上での個性であるからある程度規制はできてしまう。「自分はいったいどういう人間なのか」がはっきりと言えることである。「自分に誇りを持つ」ことである。「異なる他を認めるけれども、自分は自分であるという意識」が大切である。さながら「和して同ぜず」であろうか。

現在の日本では、集団生活が大切とされ宿泊訓練や集会等、集団行動を余儀なく要求される場面が教育に誠に多い。これは"Group-Oriented"を強調し美徳化した何者でもない。社会集団に適応することが学校教育における第一の躾とされている。まず、クラス対抗○○大会等のCompetetionがたぶんに用いられ「競争意識を煽り、その相加相乗効果でお互いに高め合う」というのが理屈である。それは間違いではなく、それでも良いのだと思うが、これからもそれで良いのだろうかというのが趣旨である。

「競争原理」は至るところに応用され、それが美徳化されてきた。つまり「常に回りの比較でしか自分が見られなくなっている」状況に陥っている。大学の最終学歴が社会での成功の第一条件になっている現状がそうである。東大を筆頭に、旧帝国大学群、早慶、JAR、法・中・明、、、、自然に呼び名までついて階層階級ができている。学生、生徒はこの第一条件をクリアするために勉強するのであり、英語に限って言えば、「コミュニケーション能力」など関係なく、指導法どうこうではなく入試で勝てる英語であれば良いのである。その第一条件がうまくクリアされる状況にあれば良いが、仮に途中で挫折したりした場合どうしたら良いのだろうか。現実には中学ではいじめ、登校拒否、校内暴力等でその抑圧されたコンプレックスを表現している。(学校での問題行動の発生原因に 1)授業がつまらない というのがある)もし、仮に「個」を大切にするための教育が必要なら、この「競争原理」は必要最低線に抑える必要があると思う。なくすのには反対である、資本主義社会において「自由競争理論」は当たり前なのである。都合都合において自由競争を持ち出す人がいるが、本当にそう思うなら教育の段階で知る必要はある。しかし、それは必要最低線であり、「他人を蹴落としてではなく、自分として目標に向かってがんばる」という意識が多分に必要である。この「自分として。。」というのが元来持てないでいるのではないだろうか。すなわち、常に回りとの比較であり、努力していない環境では自分も努力しない、「赤信号みんなで渡れば怖くない」原理である。

もっと「機会を増やしたらどうだろうか」。入試の1発試験オンリーも公平で良いが、中には気が小さくて当日実力の半分も出せない生徒がたくさんいる。そういう生徒は気が小さいだけでなく、思いやりがあり、やさしさをもっていることが多い。そういう人材を見逃している。推薦入学の拡張も良い。しかし、内申点でとるのも倍率によっては時にはやむを得ない。だから、もっと面接に時間を掛けたらどうだろうか。1日で面接しようとするから時間が足りないのであって、2週間位面接試験をしたら良い。そして人間性を見極めて採用したらどうか。私は常日頃「絶対評価」をしていて、どうして3年になると内申点が相対評価されるのか未だに理解に苦しむ。その場合、観点別は絶対評価を通すが、評定はどうしても公平性・客観性・妥当性から数字で切るしかない。上で機会を増やすと言うのは、「編入学性」の拡大である。予想と違った校風なり、カリキュラムならどんどん受け直せば良いのである。一生に一度の人生である。因みに公立普通科の「学区制」もいらない。それはあくまで奨励の形であって、家庭と本人の判断の基に強制すべきではない。中高一環教育というのも良いが、現状から考えて生徒はますます努力しなくなる可能性があるので私は反対である。自己決定の場を早期に与えることは大切なことだと思っている。その決定が誤っていることはたぶんにして考えられるので修正が効く形に整えていくことを私は提唱したい。生徒が「努力が報われる」ことを知ったとき、学校現場は変化するのではないだろうか。因みにこの「努力する姿こそ"process学習"であって、1発試験では決して測ることのできない見えない学力」なのである。測定法は毎日の授業や学校生活の多方面からの観察であり、それは推薦入学制度につながる。教育基本法でうたっている「全人格形成」とは知識面だけでなく情意面、技能面を含んだ「トータルバランス」なのである。幼少からずーっと勉強だけで一流校、スポーツもやり、思いやりもあり、勉強も努力して二流校、私は後者の生徒が良いと思う。人間的に屈折していない。

推薦は大学でも拡張していくのが良いと思う、「絶対に入りたい学生」をとり、卒業までに目標を立てさせ実現させることを毎年確認していくのである。進級論文も良い。卒論等は厳しくし、徹底したゼミをたぶんに開き教授会で初期、中間、最終発表を基に卒業認定すれば優秀な学生がどんどん輩出されていくだろう。目標が達成されなければ留年するのである。最高教育機関がやらなければその下層レベルは何も変わらない、変わってもほんの少しの方向性だけに留まるのは目に見えている。上記で述べたような一流大学がやっていかなければ抜本的な変革はあり得ない。今も昔も一部の一流と言われる大学に入る迄が勉強なのである。入るまでではなく、入ってからだと思う。入るまでだからこそ一番大事なときの学力がつかないでいる。ノーベル賞が少ない所以でもあろう。大学入試の改革というなら推薦入学にしたら良い。入りたくて入ってきた学生である、徹底的に鍛え上げて卒業させてあげらたらどうか。その学生の将来のためにもなる。そして、中退ということば自体を社会が認めなくなれば良い。ただし、経済的な場合はその保障を全面的にバックアップしてあげる。一流大学中退というと聞こえが良いのは「入るまでが全てだから」である。入社試験の折りには大学名をいっさい言わずに「私は大学を規定通りに○○単位で修了し、優/Aは○○、卒論で○○について書き、○○において専門知識/技能があります」が全てになる日が来ることを期待している。

「多文化社会における教育」とは全くまとはずれなことをだらだらと述べていると思われるかもしれないが、根本的な私たちの内面に上述の「他との比較」「無意味な競争意識(有意味な場合に対して)」「階層階級主義」「最終学習目標」というものが深く根付いている限り、いかに「国際化」を推奨しても変化するのはメディアと物質文化だけであり、私たちの精神文化は依然国際化されないでいる。だから、私が一番言いたいのは「国際化」を推し薦めるにはまず、「生徒の内面世界から国際化していく」ことであり、それは外圧的に変化するのではなく、内面自発的に変化していくことなのである。

たとえば、なぜ陰湿な日本固有の「いじめ」が後を絶たないのだろうか(海外にも当然いじめはある。家庭教育でちょっとのいじめでも声を大に訴えることを子供が知っている点に大きな違いはあるが。。。)、大人社会をまねしているのもそうだろうが、だからこそ変えていかなければならない。みんなが同じ集団行動しているなかで突出した生徒がいれば、その生徒に体力か発言力が無い限り、普通ならいじめの対象になる。これは完全な集団意識であって、自分と異なる他を認められないことに由来しはしないだろうか。だから、逆に、体力的に、発言力的に、もしくはなんらかの立場的に弱い子は目立つことを恐れている。自分のやりたいことを抑えてまで、集団に同化していく。個性のある教育とはほど遠い。現場は理論通りに運んでは決していない。大人の頭で考えたことが即子供社会に当てはまるとするのは現場を、子供をしらない学者のせりふである。子供の世界は毎日秒刻みで変化している。昨日までの友達が訳も分からず今日の敵というのは良くあり、原因は大人にはほとんどつかめない。つかめる先生は本当に子供の中に入り、休み時間はもとより、トイレまでついていける教師である。実際いじめはトイレが多い。ついで掃除の時間、放課後の部活前、つまり教師のいないところ。生徒指導担当と担任がその場その場を一件一件解決しても関係者ならお分かりだが、また、時と場所と方法と対象を変えてそういう学校はいじめが頻発している。内面の問題がなんら解決されていないのである。家庭の経済的問題や環境も大きいが、学校としては生徒ひとりひとりに指導していかなければならない。その時に「Individualism」が必要なのではないかと私は思っている。つまり、集団意識から「自分個人としての意識/考え」「和して同ぜず」「自分と異なる他を認める心」がとても大切なのだと思っている。

上記等の理由から私は21世紀の日本の国際化は内面世界から、そして異質な他を認めるだけの"個の完成"が重要な位置を占めると考え、「国際理解教育」「Global Education」の研究を推し薦めているのである。

"個の完成"と言ったのは、今までの「集団における個」「自己実現」等と同じと言えば同じかもしれないが、よく考えてみるにこれからはそのままではいけないのではないだろうかと言うことである。今までのやり方だとどうしても「集団への寄与」が中心で、「協調性」が重んじられ「個性」を出して集団の規律を乱すと思われる言動は慎まなければならないようになっている。例)先生:「ハイ、じゃーみんな今日は○○をやってもらうよー!」生徒:「どうして?なぜ○○すんのー?」先生:「どうしてもだ、決まりだ!まずは決まりを守って行動することが大切だろ?!」このような質問を成す生徒は学校不信の場合も多いが、帰国子女、海外子女であることも多い。疑問を根本的に素朴に抱く生徒もたくさんいる。当然単なる反抗もある。まず、ここで先生が、時間はたとえかかっても説明を生徒が(100%とは言わなくても)納得したであろう線まですることが必要である。現場では教師が責められるが、その十分な生徒との会話を持つ猶予なく行事等が押し迫ってくるのも事実である。そういった「理由の分からないままの集団行動」が多くなれば多くなるほど、暗黙のうちに「みんなと同じようにする」ことが教育されていくのではないだろうかということである。そして、その幼少のころからの"implicit-group-oriented"な教育が将来的な"Group-oriented"Peopleの形成につながっていると私は思う。もし、「個性を重視」した教育を目指すのならば、上層部の理論が先行するのではなく現場の生徒への対応、または家庭での対応が変化しなければ難しいと思う。自分が教師だから弁解する訳ではないが、現場の教員はがんばっている方が多い。世で言われる程怠慢では決してない。学校が「集団行動」を教育する反面、生徒は多種多様化がすすんでいる。まさに最初から「ある意味で個性化」しており優柔不断なやり方、不安定なやり方、首尾一貫しないやり方では対応できないと言える。メディアの影響で情報多寡な時代に生徒が学校以上に世情を良く知っている場合も多い。だからこそ、思い切って「個性重視の教育」を行っていくのである。当然言うは易し行うは難しで、現状では"個性=わがまま"になってしまうこともわきまえている。いざというときの危険の回避、旅行的行事における他への配慮等、集団行動が余儀なく強いられる時に一人一人の意見を聞いてはいられない。「集団行動」も大切であり、私はそれを決して否定しない。場面場面時と場合に応じて「個性化教育」を行う。今までも、そうだと言われるかもしれないが、そうではない。個性化教育をやっても良い時にやられていないのではないだろうか?。生徒が多様化しているにも関わらず、相変わらず集団行動で行われる場面が大過ぎはしないだろうか?。現場の「ゆとりない教育」が原因であることは否めないので、curriculumのSlim化であり、これは2年後の学習指導要領に繁栄される可能性大でありうれしいかぎりである。勘違いされる方は教員が楽になるとか思われると思うが、そうではないと思う。現状を考えても毎日のように「学級通信」なるものを父兄に書き連携をとっている教員はたくさんいる。毎日休み時間にB4で2.3枚書くのである、当然そういった教師が6時前にかえった姿を見たことは無い。おそらく大多数の教員のエネルギーが他の方向に向けられてくると考える。勤務時間になんら変化はない。相変わらず#がんばる教員#は夜遅くまで学校で庶務をこなしていることだろう。関係ないことをたくさん書いたが、この部分をまとめると:「現時点のように30人以上のクラス単位では『集団行動は必要』であるが、出来る限り『個性重視の教育』に充てる時間を思い切って増やす必要がある(たとえ生徒指導上懸念される小さな事象が多少あっても)そして、教育活動全体で全体優先の場面と個の意見・考え優先の場面を見極める」。 * 「個性重視の教育」は家庭・地域の協力と理解がなくては実現不可能である、子供が個性化する以前に親が個性化(考え方が様々である)している。

 

以下にはアメリカがどうやって他民族社会を乗り切ってきているかを述べている。これはこれから、アジア圏の民族の流入を多大に持つ日本として大切なことであるし、国際理解教育、しいては教育の改革、いじめのない学校、等にとってとても大切な示唆であると思う。

何よりも「"Individualism"・個性の伸長・集団と個」において考えるべき点があると思う。

 


2.「多文化社会における教育 〜アメリカの事例〜」

  • 移民からなるアメリカ
  •   17c→13のイギリス植民地建設、 85%が英語句からの新教徒で英語使用集団

      18c後→黒人奴隷の流入

      19c中→メキシコ、アイルランド、ドイツからの移民流入

      19c後→南東欧からのカトリック教徒、ユダヤ人の流入

      20c初→「多民族化現象」第一次世界大戦直前にピーク

      1924→「移民禁止法」、移民受け入れ禁止。

      1965→「新移民法」、移民の再開。アジア系、キューバ難民、ラテン系移民の流入。

            多様化した移民の波。

  • アメリカの「多文化社会、多民族社会」→複数多数の文化が並列し、かつ国としての統合性を保つために相互間に何らかの調整を必要とする状況が存在する社会
  • アメリカの「多文化主義」→「複数の文化の共生」状態ないしその状態の実現を標榜する思想 
  • 多民族国家アメリカにおける統合理論の変遷→多種多様な文化的背景をもつ移民諸集団を含むアメリカの国民的統合のイデオロギーの変遷。少数民族への対応策の変遷。
    1. 「同化主義」(Assimilation)
    2. 「融合主義」「るつぼ思想」(Amalgamationism / Melting - Pot Theory)
    3. 「文化的多元主義」(Cultural Pluralism)
    4. 「多文化主義」(Multiculturalism)
    1.「同化主義」
     
    新しい移民少民族に対し、WASP( White Anglo-Saxon Protestant)の言語と文化の採用を要求するもの。A+B+C=A。ただし、同化の対象となりえたのはヨーロッパからの白人移民だけであって、先住民や黒人は除外されていた。

     

    2.「融合主義」「るつぼ思想」
     
    同化主義に含まれる人種的民族的差別・偏見に対する反発から生まれた思想。個々の民族を越えた新しい「アメリカ文化」と「アメリカ人」という国民的アイデンティティーが発展することを期待。各民族がその固有の宗教的文化的背景を全面的に排除するのではなく、互いに支配民族を含む他の民族の文化を部分的に取り入れ、また自民族の文化を部分的に放棄あるいは修正しながら、総合的な新しい第三の文化を発展させることを期待する統合理論。A+B+C=D。
     
    (* 現実的には、宗教上の問題でプロテスタント、カトリック、ユダヤがどうしても溶け込めないでいるようだ)
     
     
     
    3.「文化的多元主義」「多文化主義」
     
    非アングロ系少数民族がアメリカ社会の政治経済構造の中に統合されていくことは必要であるとしつつも、民族固有の言語・文化・宗教は保持存続すべきであるとする考え方。「多様の中の統一」。サラダ・ボール論→人種・民族集団の文化的多様性を肯定。
     
     
    *多文化主義批判、多文化主義の限界の指摘→・先住民は必ずしも多文化政策に賛成していない、落差の大きい先住民の文化を含むのか否か。                                                                                                           
  • 3.「文化的多元主義・多文化主義」="Diversity"こそが、これからの日本の教育には必要であると思っている。さしずめ「和して同ぜず」といったところであろう。集団に入り協力するときは協力するが、決して考え意見を同化するものでは無いということに意義がある。これまでの(上述)日本の「集団行動」的な教育は考え、意見まですべて同化するものであったが、この相違点が将来的な「自己表現力・自己教育力」には大切なことであると考える。
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