71 戦前の在日の参政権

戦前の在日には参政権があった

 朝鮮の歴史で意外と知られていないのが、戦前の内地(日本本国内)に住む朝鮮人には日本人と同じように参政権があったことです。(註1)

1920年の衆議院選挙では、所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人が選挙権を行使しています。そして1925年には普通選挙法が成立し、納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられることになりました。

朴春琴は1932年から42年までに実施された四回の衆議院議員選挙に東京4区で立候補し、うち32年と37年の二回当選しています。在日では他に何名かが立候補していますが、落選となっています。なお地方議会議員選挙でも立候補した在日はかなりの数にのぼり、当選も少なくありません。

 

民族名での立候補であった

 戦前の選挙法では、立候補は戸籍名で行なうことになっていました。従って1940年の創氏改名令以前は、当然本名=民族名での立候補です。前述のように朴春琴もその名前で立候補し、当選しました。日本人からも多数の支持があったためで、民族名はマイナスにならなかったことが分かります。

創氏改名令後に行なわれた1942年4月の衆議院選挙(旧憲法下で最後の選挙となります)でも朴春琴、李英介、李慶圭、李善洪、辛泰獄、任龍吉の6名が民族名のままで立候補しています。日本名で立候補した朝鮮人はいませんでした。彼らは創氏改名後も名前を変えなかったものと思われます。これは太平洋戦争中の出来事で、軍国主義最盛期といえる時代です。なおこの時の選挙結果は同一選挙区で競合したこともあって全員落選でした。民族名ゆえに落選したものではありません。

 

ハングル投票が認められていた

さらに選挙では有権者はハングルで投票することが認められていました。1930(昭和5)年1月31日に内務省法令審議会はハングルの投票を有効としたのです(註2)。ハングル投票が予想される選挙区の投票管理者には、諺文字(ハングルのこと)書が配布されました。植民地の文字が宗主国の選挙で使用を認められたのは、世界植民地史上おそらく唯一ではないかと思います。

 

参政権では差別がなかった

朝鮮や台湾という植民地(当時は外地と呼ばれていました)に居住する者は、日本人でも参政権はありませんでした。日本人も朝鮮・台湾人も内地に住む者だけに参政権があったということです。つまり参政権において内外地の差別はありましたが、日本人と植民地人との間には同じ大日本帝国臣民として差別はなかったということです。これはまた、帝国臣民として運命と歴史を共にしていた時代であったと言うことができます。

 

当選した議員は「親日派」と指弾

国会議員を務めた朴春琴は当然のことながら同じ臣民として率先して活動しました。そのために1945年の解放後「親日派民族反逆者」に指名され、厳しい指弾を浴びました(註3)。地方議員だった朝鮮人も、同じく「親日派」のレッテルが貼られています。民族名での活動は何ら評価されませんでした。

 

参政権剥奪論は誤り

第二次大戦の結果が日本の敗戦となった結果、朝鮮・台湾は日本の植民地支配から解放されたため、その出身者は日本人と違う処遇を受けることとなります。それまで有していた参政権は喪失しました。これを「参政権の剥奪」と主張する方がおられます(註4)が、参政権は帝国臣民ゆえに有していた権利です。喪失は解放によって臣民でなくなった結果ですから、「剥奪」という評価は誤りと考えます。

参政権の喪失は民族の解放という積極的な意味があるのであり、剥奪論は解放を否定するものです。

 

まとめ

戦前では日本に居住する朝鮮・台湾人には、国政でも地方でも参政権がありました。またハングルの投票が認められていましたし、立候補は民族名で行なわれました。これは戦争中の1942年の衆議院議員選挙でも変わりませんでした。日本は同じ皇国臣民として差別なく扱おうとしたこと、およびその際に民族名やハングルは障害にならなかったということです。しかし議員活動した朝鮮人は、戦後に民族の裏切り者として同胞より指弾されました。

こういった歴史事実はもっと広く知られるべきだと思います。

 

(1)   金賛汀『異邦人は君が代に乗って』(岩波新書 19858月)の120頁に、

「猪飼野の住民が増えるにしたがい、そして彼らにも日本の選挙権が与えられるとともに、その選挙の票一票を目当に、種々の融和団体が発足した。」

とあり、以下その当時の状況を記している。

  金達寿『わがアリランの歌』(中公新書 昭和526月)の118頁では、

 「金二弼は数字といくつかの漢字がやっとわかるだけで、ほとんど文盲に近かった。のちに私は、そのころは在日朝鮮人にも選挙権があったので、市会議員の投票をすることになった彼から、誰にしたらいいかと相談されたことがある。」

とある。

 

(2)松田利彦『戦前期の在日朝鮮人と参政権』(明石書店19954月)61頁に、

「(1930年)131日、内務省法令審議会にて朝鮮文字投票は有効と決する。内務省の決定書には、在日朝鮮人の人口が急増し「朝鮮文字も既に相当多数の間に使用せらるヽものと認め」られるのみならず、「朝鮮人の選挙権に対する理解要求共に‥‥進捗せる」ことが記されている。当局も、朝鮮文字投票の実現を求める朝鮮人の声を無視できなかったのである。」

とある。

また舛添要一「立候補した父親とハングル選挙ビラ」(『現代』講談社20011月号所収)221223頁には、その時の内務省省議および新聞の報道が詳しく書かれている。

 

 

(3)韓国で国会通過した「日帝強占下親日反民族行為の真相究明に関する特別法案」(反民族行為特別法)では、日本の議員になったことが「親日反民族行為」とされている。

「第2条 (定義)

.日本政府から爵位を受けるとか日本帝国議会の議員になった行為。」

http://www2.odn.ne.jp/~ccq47810/hannnitihouanngennann.html

 

(4)註2の119126頁では「在日朝鮮人の参政権の剥奪」、また李英和『在日韓国・朝鮮人と参政権』(明石書店 199311月)2022頁では「奪われた参政権」と章立てして剥奪論が展開されている。

 

(追記)

 衆議院議員の被選挙権には居住要件はなかった。従って植民地(外地)に住む者は、日本人でも朝鮮・台湾人でも立候補することが法的に可能であった。実際には朝鮮に住む日本人が一人立候補しただけのようである。

 しかし選挙権は居住要件があるので、外地に住む者は日本人でも朝鮮・台湾人でも投票できなかった。

 つまり参政権のうち、被選挙権では内外地の差別はなかったが、選挙権では差別があったということである。

 本稿で「朝鮮や台湾という植民地(当時は外地と呼ばれていました)に居住する者は、日本人でも参政権はありませんでした。」と論じたが、これは参政権のうちの選挙権がなかったということである。

(11月13日記)

 

(追記)

参政権剥奪論は国籍剥奪論と共通します。剥奪論に関して、拙論では第40題 在日朝鮮人は外国人であるのなかで下記のように論じています。

 

「植民地下とはいえ自分は日本国籍をもって生まれ育ってきた、日本国籍を放棄した覚えはないと主張する在日が70年以降現れた。これはさらに、日本は敗戦の際に在日朝鮮人に朝鮮と日本の国籍を選択する権利を与えるべきだったのにそうしなかった、在日は日本国籍を剥奪されたのだ、という主張に繋がっていく。そしてその考え方の前提は、植民地化が合法正当であったとする日本政府の立場と同じであることに注意が必要である。

またこの日本国籍剥奪論は、その考え方が正しいとしても今や遅きに失する。終戦直後の日本が連合軍の占領下にあった時に、在日朝鮮人が外国人であることは当事者自身が主張したのだ。正確に言うと、在日朝鮮人はアメリカやイギリス・中国と同様の戦勝国民(連合国民)として扱え、敗戦国民(被占領国民)である日本人と同じにするな、というものであった。つまり日本国籍を維持したいという意見は全くなかったのである。」

(11月20日記)

(参考)

ボース評伝にある誤り http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/04/24/340269

国籍剥奪論 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/07/15/445780

 

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