94 『在日コリアンの歴史』の間違い

 

在日本大韓民国民団が『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(明石書店 2006年2月)という本を出版しました。
 在日に関するこれまでの研究成果をどう生かしているのだろうか、違う立場からの批判を受けた点について反批判含めてどう研究を進展させているのだろうか、などに興味があって購読しました。
 しかし間違いがかなり多く見られます。評価の違いは人それぞれ百人百様ですから、それは構わないのですが、事実の間違いは困ったものです。しかも「教科書」と名乗る本ですから尚更です。
 この本を読み進めながら、間違いを指摘したいと思います。(なお下線は引用者です。)

 

 

(併合以前の在日朝鮮人)

(日本にいる朝鮮人は)露日戦争の始まった1904年の日本当局の統計によると、わずか233です。それも一般の商人や労働者はほとんどおらず、留学生か亡命政治家たちです。」(8頁 4〜6行目)

 

当時の外国人は、同一市町村に90日以上滞在する場合は所轄の警察に届け出ねばならなかった。「233人」という数字は「日本帝国統計年鑑」による朝鮮人数であるが、警察に届け出された人数と思われる。しかし朝鮮からの出稼ぎ労働者は工事現場を渡り歩き、また商人も各地を回るので、警察に届け出ることはほとんどなかった。「233人」のなかに商人や労働者がいないのは、この事情による。
 ところで当時の朝鮮人の取り扱いであるが、1876年の日朝修好条規(江華島条約)では、朝鮮側は日本国内における領事裁判権を持たなかった。これによって朝鮮人は日本において、欧米人のように居留地に制限されることなく、内地雑居を認められた。このことは就労(商売や労働)や居住について、欧米人よりも自由を有していたということである。
 明治後半期の日本は各地で炭鉱や鉄道建設の開発が大きく進められていた。そこに多くの朝鮮人の出稼ぎ労働者が働いていたことは、当時の新聞資料等から確認できる。それに伴い朝鮮人商人も活動している。日朝修好条規はそれが可能な条約だったのである。

「教科書」が1904年の在日朝鮮人数を「233人」とするのは不正確であり、さらに「一般の商人や労働者はほとんどおらず」は間違いである。

 

 

(解放時の在日朝鮮人数)

(1)   (在日朝鮮人の数は)解放を迎えた1945年には、なんと240万人になりました。」(8頁 8行目)

(2)   当時、日本に在留する朝鮮人の数は210万人にも達し」(64頁コラム3行目)

(3)   1945年5月の在日朝鮮人の推定数は約210万人ほどではないかといわれています。」(65頁2行目)

 

 1945年の解放時の在日朝鮮人数が(1)では240万、(2・3)では210万。14%も違う数字である。「教科書」と称する本の中にこれほどの違いを記述することは、いかがなものであろうか。統一性がないというのは、「教科書」として致命的と思える。

 

 

(土地調査事業)

朝鮮総督府の土地調査事業は1911年に始まり、8年の歳月をかけ朝鮮の土地すべてを調査しました。調査の目的は大別してふたつありました。ひとつは、土地の所有者を特定して税金をかけ、朝鮮総督府の財政を確立すること、もうひとつは、当時の朝鮮人による土地所有のあり方が、まだ私有地になっていないことを利用した、日帝(日本帝国主義)による乱暴な土地収奪でした。」(10頁1〜6行目)

 

アジアの古代・中世の土地所有制度ではその所有権等が公認されていなかったので、例えば何代にもわたって耕作していても或いはちゃんと代価を払って買ったとしても、そこは元々俺の先祖の土地だ、お前らは出て行け、と言う人間が現れる可能性があった。これを改めようとしたのがいわゆる土地改革=土地調査事業である。

 朝鮮の土地調査事業について詳しく研究した宮嶋博史は、「比較史的視点からからみた朝鮮土地調査事業」(日本評論社『朝鮮近代の経済構造』1990所収)という論文のなかで次のように結論している。

 

「政治的・身分的関係にもとづく土地所有関係の廃絶という点に、近代的土地変革の指標を求めるとすれば、日本は後発帝国主義であったにもかかわらず、朝鮮においてより近代的な土地変革を行なった」(96頁 下線は引用者)

 

土地調査事業はそれまでの古代・封建的土地所有制度を廃止し、近代的土地所有制度を確立するものであった。これはすなわち、それまで土地所有権や耕作権などが不安定であったものが、権利として公認され安定したのである。調査事業は私有財産制の確立であって、「土地収奪」ではない。そして韓国の現在の土地所有制度は、この調査事業による新たな制度を継承し発展させた結果であることを強調せねばならない。「土地収奪」は間違いである。

さらに教科書ではこの調査事業の「収奪」なるものの様相を物語風に記述している(10〜12頁)。これは一般向け朝鮮史概説の記述にしばしば見られるフィクションであり、「教科書」には相応しくないものである。

 

 

(南樺太)

D‥‥これ(ポーツマス条約)により、日本の大韓帝国における利権が承認され、ロシアは「南満州」と樺太(サハリン)南部の利権を譲渡することになった。」(16頁註)

 

 日露戦争の講和条約の説明であるが、大きな間違いがある。樺太南部は「利権の譲渡」ではなく、「領土の割譲」である。

「利権」と「領土」の違いを知らないのだろうか。それとも何か意図があるのであろうか。

 

 

(民族ブルジョアジー)

第一次世界大戦中から提唱されていたウィルソンの民族自決主義は、朝鮮民族に大きな期待を与え、とくに民族ブルジョアジーの精神的よりどころとなったことは否定できません。33人の代表による本国の3・1独立宣言は、とくにその影響が大きかった」(221417行目)

 

 1919年の3・1独立宣言の時代説明である。それでは果たしてこの時代に「民族ブルジョアジー」の朝鮮人がいたのかどうか。

 朝鮮史を振り返れば、李朝時代は産業としては農業があるぐらいで、地主が大きな資産を有していた。商業では、宮廷や政府の御用商人は1895年の甲午改革で特権を失い、開港後の国際経済の波に乗れず没落した。代わって国際貿易の仲介者として金融、売買、保管、輸送等々を扱う「客主」が現れ、資産を急増させた。

 そして日韓併合後10年ほど経った1910年代末以降に、地主層や客主層のなかから紡績などの産業を興して経営・投資する者が現れ、民族資本家として成長していくのである。ちなみに朝鮮最初の民族資本の成立は1919年創立の「京城紡績株式会社」であり、それ以前の朝鮮では資本主義がなかったと言ってよい。資本主義なきところにブルジョアジーは存在しない。3・1独立宣言時の朝鮮にブルジョアジーはいたのかどうか、はなはだ疑問となる。

 教科書にいう「民族ブルジョアジー」とは一体誰なのか。3・1宣言に署名した33名のうち、誰が「民族ブルジョアジー」なのか。教科書にはこの答えがない。

 

 

(2・8独立宣言)

「(1919年)2月8日午後2時、留学生600余人は朝鮮キリスト教青年会館に集合し、学友会総会の名で開会を強行し、実行委員・白寛洙は途中で大会を独立宣言大会にきりかえ、いわゆる『2・8独立宣言』が朗読されました。」(25頁4〜8行目)

 

 ここでは「600余人」という数字が出ているが、金賛汀『在日、激動の百年』(朝日新聞社 2004年4月)29頁では「約300人」としている。

他に調べてみると、文國柱編著『朝鮮社会運動史事典』(社会評論社 1981年5月)188頁では「約600名」、

リチャード・H・ミッチェル『在日朝鮮人の歴史』(彩流社 昭和56年6月)37頁では「200名」である。

 「600余人」「約300人」「約600名」「200名」、いろいろな数字が出てくるものだ。これはこの事件の研究が全く進んでいないことを示す。プロパガンダは多いのだが、肝心の実証的研究がなされていないのであるから、数字が不安定なのである。

 教科書はその中でも「600余人」という最大の数字を使っている。「教科書」と称する本がプロパガンダするのは、いかがなものであろうか。

 

 

(ハングルの使用禁止)

当時(植民地時代)、韓半島(朝鮮半島)ではハングルの使用が禁じられていました。」(26頁左12行目)

 

 歴史事実としては朝鮮総督府がハングルの使用を禁止したことはない。

朝鮮の普通学校では1938年までは朝鮮人の子供たちにハングルを強制的に教えていた。それ以後は随意科目となるが、禁止されていない。また朝鮮内の郵便局ではハングル電報を受け付け、配達していた。あるいはまた終戦まで漢字ハングル混じりの新聞が発行されていた。そして宗主国の日本における選挙では、植民地の文字であるハングルによる投票が認められるという世界史的に稀有な事例が実際に存在したのである。

従ってハングルの使用禁止は事実ではない。この虚偽を「教科書」と称する本に堂々と書くのは、いかがなものか。その信頼性に疑問を抱かざるを得なくなるだろう。

 

 

(3・1独立運動)

(1)   朝鮮の独立運動はアメリカやロシアや中国といった国の支援のなかで再編され、上海の臨時政府が生まれます。」(281113行目)

(2)   3・1独立運動の真相を世界に発信し続けた中国」(29頁6〜7行目)

 

 上海の大韓民国臨時政府樹立時(1919年)までの朝鮮独立運動を、アメリカ・ロシア・中国が国として支援した事実はない。また中国が朝鮮の3・1運動の真相なるものを世界にアピールした事実もない。

 1910年代後半の世界は、ヨーロッパでは第一次大戦やロシア革命、中国では軍閥割拠などで激動の時代であった。こんな時期に、日本の植民地として世界に認められていた朝鮮について、その独立運動に関心を寄せる国はなかったのである。

事実であるのは、こういった国々で朝鮮人の独立運動家たちがプロパガンダしていたことだけである。

 

 

(渡日朝鮮人)

1920年代後半から30年代の前半にかけて、釜山から下関に渡ってきた朝鮮人労働者は年間10万人から16万人」(31頁左1115行目)

 

 この時期に朝鮮から日本に旅行した人の数はそれぐらいであるが、すべてが労働者ではない。出稼ぎ以外に留学、観光、商売、嫁入り等々の様々な理由があった。渡日した10万〜16万人が「朝鮮人労働者」とあるのは間違いである。

またこの時期は日本から朝鮮への帰還者も毎年10万人以上であったことも忘れてはならない。

 

 

(警視庁特別高等警察)

『警視庁大震災史』という本には‥危険分子、不穏分子を三交代で専門的に扱う係を編成したという話がでてきます。危険分子、不穏分子を扱う専門家とは、在日朝鮮人の増加にともない、192122年頃、設置された特別高等警察(特高)、俗に「鮮人係」「主義者係」といわれる刑事たちを指しています。」(3212行目〜3310行目)

 

 警視庁に特別高等課が設置されたのは1911年8月21日である。「1921〜22年設置」は誤りである。

 

 

(壷井繁治)

ザブトン』と言う日本語を

ザフトン』としか発音できなかったがために」(37頁右4〜5行目)

 

 これは壷井繁治の、関東大震災を題材にした詩の一部分である。ところが『壷井繁治詩集』(飯塚書店 19604月)の94頁にある原文では、発音したのは「ザフトン」ではなく「サフトン」である。誤植ではない。

壷井は、朝鮮人は濁音を発音できないという誤った知識を持っていたので、濁点をすべて取り去ったものにしてしまい、「座布団」は「サフトン」と発音するものだと思い込んだのである。彼は朝鮮語の知識が不十分であったことを示す。

そして教科書は元々間違っていたこの原文の「サフトン」を、さらに間違いの「ザフトン」と改竄をして記載したのである。

 なお朝鮮語では語頭にある濁音が発音できないのであって、語中にある濁音は発音できる。また「ザ」の発音はなく、「チャ(ジャ)」の発音で代用する。従って朝鮮人は「ザブトン」を「チャブトン」と発音するのであって、「サフトン」「ザフトン」と発音することはあり得ない。

 教科書作成者たちは朝鮮関係の専門家であるはずだが、自民族の言葉である朝鮮語についてどのような理解力を持っているのだろうか。間違いの原文をさらに間違えて改竄しているのであるから、なおさら疑問が大きくなる。

 

 

(米の収奪)

朝鮮での米の生産量と日帝の収奪」(39頁右下表のキャプション)

 

 米は昔から最も高価に取引される穀類である。朝鮮で生産された米を日本に移出して代価を得ることは、経済的に合理性があったのである。

しかし「収奪」とは物資を代価なしに一方的に強制移動させることであり、実際の米の移出状況とは全然違う。代価を得て移出することが何故「収奪」になるのか。「収奪」という言葉を使うことは間違いである。

 

 

(朝鮮人の食生活)

植民地朝鮮の民衆は、米は他人に渡し、粟(あわ)飯を食べざるをえず」(40頁5行目)

 

 もともと朝鮮半島北部と済州島は畑作地帯であって、稲作地帯は南部地域だけであった。従って朝鮮人の元来の食生活は、米だけではなく雑穀も普段の日常生活に利用された食材であるし、また上元、端午、秋夕などの行事食としても雑穀が取り入れられているのである。日本と朝鮮ではそもそも食文化に違いがあり、米の消費量が違っていたのである。

朝鮮に稲作が大きく発達したのは植民地時代からである。この時期に反当り収穫高が伸び、朝鮮北部にまで稲作が広がっていった。米は出荷用の換金作物として大事に保管され、普段の食事は非常に質素であるのが当時の農民の生活であった。「米を他人に渡し、粟飯を食べる」ことは朝鮮の農業生産者として当然の生活スタイルであって、意に反するものではない。

 

 

(米の生産量)

当時の朝鮮における米の生産量は、年平均2500万石でしたが、1939年は1000万石以上も減収し、1400万余石しかなかったのです。」(4714行目)

 

朝鮮における1939年前後の米穀の生産量は下記の通りである。なお生産量は翌年にその統計が出されるので、数字は前年の収穫高である。

 

1936年   22,499

1937年   19,411

1938年   26,797

1939年   24,139

1940年   14,356

1941年   21,527

1942年   24,886

1943年   15,688

1944年   18,719 千石

 

 「年平均2500万石」は前年と前々年の2ヵ年の平均であることが分かる。そもそも農作物の収穫は豊凶の差が著しく、2年間だけを取り出して「年平均」を出すことは常識から掛け離れるものである。教科書がこのような数字を出すのはいかがなものであろうか。

 

 

(民族服の排除)      

(1)   『皇民化政策』と呼ばれる政策を強要しました。‥‥B和服を奨励し、民族服を排除する」(41714行目)

(2)   当時の朝鮮人の女性たちは、いつもチマ・チョゴリを着ていて」(4210行目)

(3)   朝鮮神宮へ参拝させられる、チマ・チョゴリを着た女性たち」(44頁の写真キャプション)

(4)   ‥‥結婚式の写真。戦時下にありながら、新婦をはじめ女性たちは民族衣装を着ている19448月撮影)」(7頁の写真キャプション)

 

(1)では日本が「民族服を排除する」政策を強要したと書きながら、(2・3・4)のように民族服を着た女性が繰り返し登場する。なかでも(3)では、神社参拝強制の際に民族服が容認され、(4)では戦争真っ最中に民族服を着て写真を撮ったと書いているのである。いったい「民族服排除」政策が本当にあったのかどうか。教科書作成者たちは可笑しいと思わなかったのだろうか。

 

 

(創氏改名@)

B日本が植民地支配下で、朝鮮人の『姓』を奪い、日本式の『氏』を名乗らせ、日本式の名前に改めることを強要した皇民化政策のこと。男系血統を基本(夫婦別姓はこれによる)としていた朝鮮社会に、日本式の戸主中心の『イエ』という概念を植えつけようとした。天皇を中心とした家父長制が原点」(41頁最下段の註)

 

 「創氏改名」の説明であるが、間違いが多い。

創氏は新たに「氏を創る」ものであって、朝鮮人の「姓を奪う」ものではない。奪えばなくなるものだが、「姓」は朝鮮戸籍の本貫欄に残ったのである。

 また「日本式の名前に改めることを強要」されていない。日本式の名前で創氏するか、先祖伝来の朝鮮名で創氏するかは任意であった。後者の朝鮮名で創氏した朝鮮人の割合は2割である。

 そして李氏朝鮮王朝時代の戸籍にはすでに「戸主」欄がある。「戸主中心の概念」は、古来からあるもので、何も創氏改名時からではない。

 創氏改名の原点が「天皇中心の家父長制」とは、どんな論理なのであろうか。そもそも天皇家には「姓」や「氏」はない。

 

 

(創氏改名A)

西宮在住の徐元洙さんにも、同じ体験があるようです。60年前の戸籍謄本、『氏ヲ達川ト昭和十五年七月拾弐日受付  昭和拾六年壱月拾五日許可ニ因リ其ノ名元洙ヲ元一ト改名」(43頁左下から4行目〜右1行目)

 

 ここでは当時の戸籍謄本の引用に間違いがある。

設定創氏の場合、戸籍には

 

氏ヲ達川ト届出昭和五年七月拾弐日受

 昭和拾六年壱月拾五日○○地方法院ノ許可ニ因リ其ノ名元洙ヲ元一ト改名届出昭和拾六年○月○日受附

 

と記入されたはずである。教科書は赤字部分を削除もしくは改竄したと思われる。歴史資料の引用は正確でなければならない。

 

 

(創氏改名B)

なぜか、姓は届け出、名は許可という区分があったのです。」(43頁右8〜9行目)

 

 この教科書の創氏改名の説明は間違いだらけである。

そもそも「創氏」は届け出る場合と届け出ない場合の二種類があった。前者は「設定創氏」といって日本風の名前を「氏」として届け出るものであって、先祖伝来の「姓」を届け出るものではない。後者は「法定創氏」といって届け出も何もしない方法で、戸主の民族「姓」をそのまま創氏するものである。教科書は「氏」と「姓」の違いを理解できていないようである。「姓は届け出」は間違いである。

また「設定創氏」は1940211日から810日までという期限に届け出なければならない。そして翌811日には「法定創氏」含めてすべての朝鮮人が「創氏」したことになるのである。

一方「改名」は法院(裁判所のこと)の許可を要するものであるが、これは今の日本で氏名を変えたい時に家庭裁判所の許可が必要なことと同じである。従って「創氏」のような期限というものはない。個々の朝鮮人が「改名」の許可申請の手続きをすることは、いつでも可能であった。

つまり「創氏」と「改名」は法的メカニズムが違うものなのである。教科書はこれも理解できていないから、「なぜか」という可笑しな言葉が出てくる。

 

 

(創氏改名C)

日本国内在住者の創氏改名は協和会=警察が担当したのです。」(45頁左3031行目)

 

 創氏改名は戸籍の内容を変更することであるから、担当は戸籍簿を管理している朝鮮の役場(面事務所など)である。在日の場合、日本の役場がその窓口となる。警察は戸籍と関係のない部署でありまた協和会は行政機関でないから、窓口にもならない。「創氏改名は協和会=警察が担当」は間違いである。

 

 

(女子挺身隊)

(1)   戦時下における女子の勤労動員促進策として、1943年に制定された。これにより満25歳未満の女子に1年間の勤労奉仕が義務づけられた。」(51頁最下段の註)

(2)   中日戦争やアジア太平洋戦争中、朝鮮やアジアから『女子挺身隊』の名で動員され、兵士相手に『慰安所』で性の相手となることを強要された女性たち。」(54頁最下段の註)

 

「女子挺身隊」の説明であるが、(1)は一部に間違いがあり、(2)は全くの間違いである。

女子の勤労動員は1943年の次官会議決定によるものだが、これは法律ではない。女子挺身勤労令の制定は1944年8月である。従って「1943年に制定」は間違いである。

またこの挺身隊はいわゆる慰安婦とは関係がないことは既に明らかにされており、(2)は全くの虚偽の記述である。

教科書にこれほどの間違いを堂々と掲げるとは、関係者の歴史認識はいかがなものなのか。

(続く)

 

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