82 「旧石器捏造事件」考

―見えないものが見える・見えるものが見えない―

 

 5年前の事件ですが、近頃では社会的に話題になることがほとんどなく、これを知らない人も出てきているようです。しかし決して風化させてはならないものです。今この事件を振り返ります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%8D%8F%E9%80%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

http://simasiba.hp.infoseek.co.jp/hotuma-singi-kouko05.htm

 

1、旧石器捏造事件 ―節穴の目か―

 今から5年前の2000年11月5日、毎日新聞のスクープ記事により旧石器捏造事件が発覚した。事件は藤村新一という民間研究者が自分で収集した数千年前の縄文時代石器を数万〜数十万年前の地層に埋めて、旧石器時代の遺跡を次々に「発見」したというものである。彼の犯罪的行為は25年間にわたり、180ヶ所以上で遺跡捏造したことが判明した。なかにはその「功績」によって国史跡に指定されたもの(註1)まである。

 彼は厳しく指弾され、家族からも見離され、今は名前を変えて生きているようである。今さら彼を云々する必要はない。それよりも問題なのは、彼の単純なトリックに引っ掛かった周囲の専門家たちである。彼らは大学、文化庁、博物館、教育委員会等々に勤める考古学プロフェショナルなのである。

藤村の果たした役割は最初の「発見」だけである。その後は藤村の手を離れてプロたちの作業となる。彼らは現場においては藤村の「発見」した石器を直接見て、その出土状況の写真を撮り、平面図や位置図等を作成して詳細に記録した。その石器を研究室に持ちかえっては時間をかけて観察し、精細な実測図を描き、写真を撮った。権威ある分析機関に依頼して理化学的な分析も併せて行なった。これを学会で発表し、学術論文を作成し、一般向けの歴史書に取り上げた。そして各地の博物館では石器の実物を展示し、多くの人の実見に供した。

プロならば最初に騙されても、直後から始まるこれらの作業の際にすぐに見破ることができるはずだが、25年間も気付くことがなかったし、疑問すら抱くことがなかった。そうだとしたらこのプロたちのレベルは一体どうなっているのか?所属機関を異にする多くのプロたちが軒並みアマチュアの藤村に騙されるということがあり得るのだろうか?その目は節穴に過ぎなかったのか?誰もが抱く疑問である。

 

(註)

1)宮城県の座散乱木遺跡は1997年7月に国指定史跡となったが、捏造が確認されたため2002年12月に指定を解除。捏造が理由で国史跡の指定解除となったのは初めてであり、文化財行政史上最大の汚点である。

 

2、発掘現場では‥ ―見えないものが見えた―

 2000年2月、埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡で50万年前の旧石器とともに住居跡が「発見」された。当時は「北京原人よりさらに年代をさかのぼる世界最古の、しかも原人は洞窟で生活していたという定説を覆す人類史上の大発見だ」と大騒ぎだった。この「大発見」には藤村だけでなく、栗島という考古学のプロが関わっていた。この二人は直後に「秩父原人に出遭った日」と題する対談を行なった。

 

藤村:石器に当たったんですよ。カチン。栗島さんに「今の音、聞いたか。石器の音だよ」といったら、「マジですか」と。それで掘ったらやはり石器が出てきて「エーッ」とね。「ちょっとやってみるかい」と言って、栗島さんが同じようにやるとまた、カチンときたんです。それが五月(ママ)二十二日の午前中。私が帰ってから、栗島さんはもう一点石器を見つけたんです。‥‥上からみても住居跡はわからなかった。たまたま直径10センチの穴があるのに気づいて、それを掘っていると、また、すぐそばに穴があって、結局五つの穴を掘ることになるのですが‥そして『建物跡かもしれない』ということになった。‥‥

栗島:小野昭先生は‥田名向原遺跡の住居遺構よりはるかに古いのに、柱穴の中の土の色を比べると、小鹿坂の方がわかりやすいのではないかということでした。

――最初に石器が見つかった時はどんな色だったんですか。

栗島:本当に真っ赤ですね。石材は鉄石英という石で、もともと真っ赤な石なんですね。それが数秒で黒ずんでいきました。‥‥

例えば私や藤村さんが柱穴を認めて住居跡と言っても、第三者が同じ評価を下さなければ「住居跡」とは認められない。‥‥ただ、現場をやっていて、土の色の違いとか、柱穴の規則性・規格性とか、遺物の分布との関係、さらに何といっても一番大きいのは、あの場所が人工的に盛土されたということが非常にはっきりしてる点ですよね。

――どんな方が見学に。

栗島:文化庁主任調査官の岡村道雄さん、明治大学教授の安蒜政雄さん、都立大学教授の小野昭さん、東北福祉大学教授の梶原洋さん、それに東北旧石器文化研究所所長の鎌田俊昭さんにも見てもらいました。前期旧石器時代の研究をやっている方が見て、「いや、これはおかしい」という人は一人もいないんです。(註2)

 

事件発覚後の検証により、「石器」はすべて藤村による捏造であることや「住居跡」の高まりと柱穴は自然地形や土層変化にすぎないことが確認されている(註3)。従って栗島が「本当に真っ赤‥それが数秒で黒ずんでいった」「人工的に盛土されたことが非常にはっきりしている」などと言っていることは、見えないものが見えたということである。そして旧石器の著名な研究者たちもまた、ないものが見えたのである。

 

(註)

2)産経新聞社『正論』2000年5月号 250260頁。

3)日本考古学協会『前・中期旧石器問題の検証』20035月 204238頁、287300頁。

 

3、石器の観察 ―見えるものが見えない―

発覚直後に旧石器の研究会で捏造石器が多くの研究者に供覧された。その時にすぐさま指摘されたのは、石器に黒色土と鉄分の付着のあるものが多いことであった。

黒色土は田畑の耕作土等といった近年の表土に由来するものであり、鉄分は農作業等の際に鉄製道具(鋤鍬や耕運機、移植ゴテ等々)が擦った部分に付く、あるいは近年の草木の根が絡んだ部分に付くものである。従って数万〜数十万年前の旧石器時代土層から出土する石器に付着することはあり得ない。逆に言うと、これらが付着する石器は旧石器として極めてあやしいものと判断される。しかもこれは出土時点からはっきりと見えたはずのもので、技術の発達によって見えるようになったというものではない。

発覚前の1999年に来日した中国科学院の衛奇は、この「発見」された「旧石器」を見て、

 

当時韓国の朴英哲教授と個人的に交わした言葉は『石器は表面採集品であろう』というものであった。多くの石器の表面には鉄分の付着が見られたからである。鉄分が片面だけに見られるもの、両面に見られるものもあった。このような鉄分付着現象は、旧石器時代の人類のなせる業では決してありえない。‥‥上高森の一グリッドの最深部から、突然三点の石器が発見され‥幸運にもその新発見の石器を見ることができた。その中に一点、鉄分の付着のいちじるしい石器があり、その出土状況に疑問を抱いたのだった。」(註4)

 

という手紙を日本石器研究の第一人者である芹沢長介に送っている。

ところが日本のプロたちは石器を詳細に観察していたにもかかわらず、この付着について全く記録していない。発覚後に指摘されて初めて知ったのである。(註5)

外国人研究者に見えるものが、日本人には見えなかったということである。

 

(註)

4)芹沢長介「波乱の考古学界を憂える」(中央公論社『中央公論』20011月号)154頁。

5)旧石器文化談話会『旧石器考古学61』(2001)の112頁では、世話人会事務局渋谷孝雄が捏造判定に関して「石器の付着物やキズ等、今まで何気なく見過ごしてきたことが、検証の際の重要な判定基準となりうる」と書いている。短期間の来日訪問である外国の研究者は「付着物」に気付いたのに、日本では「何気なく見過ごしてきた」というのである。しかもその言い方に自分たちの不明を恥じるものがない。なお同じく見過ごした「キズ」とは、次節の「ガジリ」のことである。

 

4、石器の実測 ―太古と最近の区別がつかない―

 捏造石器の供覧においてもう一つ指摘されたことは「ガジリ」が多いことである。「ガジリ」とは、発掘調査時にスコップ等でうっかり当てたり、あるいは耕作土中に混じっていたものが農作業の際に農耕具が当たったりして生じた傷で、従ってごく最近偶然にできたものである。一方石器は太古のヒトが意図して割って製作したもので、そこには割れ(剥離)が連続して見られる。

 藤村が「発見」した石器は、整理研究室に運ばれてプロたちが観察し、実測図を作成し、様々な分析作業を行なった。この時に彼らはガジリを判別しなかったのである。事件発覚後の検証作業の報告によると、

 

石器の実測図は美麗に描いてあるのに、ガジリ(後世の新しい割れ)にもリングやフィッシャーを描きこんであり、石器を製作・使用した当時の剥離面との区別をしていなかったことがある。石器の刃部の角度を測って細かな分析をしているけれども、ガジリと古い剥離面とを区別せず、ガジリの角度も測っていること、というよりガジリだらけの石器を分析対象に選んでいたこと‥‥驚きであった。」(註6)

 

と判明している。つまり太古の人為的な剥離と最近の偶然のガジリとが区別できていなかった(註7)。日本の石器実測技術は世界最高水準とされていた(註8)が、初歩的・基本的なところで大きな陥穽があったのである。そしてこれが事件発覚まで誰も気付かなかった。プロたちは、(註5)にあるように「何気なく見過ごしてきた」のである。

 

(註)

6)春成秀爾「前・中期旧石器問題の解析」(註3の597頁)

7)岡村道雄は発覚直後のシンポジウムで、「ガジリという現象は、私たちもけっこう見抜ける力を持っています。」と語った(『検証 日本の前期旧石器』学生社20015月 51頁)が、註6の検証でそうではなかったと判明した。

8)芹沢は註4の156頁で次のように自信をもって書いている。「松沢式実測図は、旧石器研究の歴史が100年をこえるヨーロッパにも見られない最高のものであり、日本の誇りうる技術と断言してよい。もし疑う人がいたら、ヨーロッパの旧石器時代の報告や論文に掲載されている石器の図と比較して見て戴きたい。このような実測図の完成は、石器にたいする鋭い観察と分析に裏付けられているのである。日本の石器分析のレベルは、外国に比して決して劣るものではないと私は考えている。

 

5、層位は型式に優先する ―信じられなくても疑わない―

藤村は数千年前の縄文時代の石器を、数万〜数十万年前の旧石器時代土層に埋め込むことを繰り返した。その結果、旧石器時代のものしか出ないはずの土のなかから、縄文時代の石器が出土するという「事実」が生まれた。

 

形や加工法を見ますと、ほとんど縄文時代の中期の石斧とちがわないのです。これが60万年前のものとは、最初は信じられなかったのですが、どうも地層も間違いない、年代測定も間違いないらしい。これは認めざるを得ないということになりました。」(註9)

 

『埋納という事実』は、どのような思弁的な仮説よりも強いのであり‥‥」(註10

 

確かにおれだって不思議でしょうがないよ。だけど、それが現実なんだから、仕方ないとしか言いようがない。‥文句の言うやつには〈出た物で議論しよう〉って言ってるんだ。」(註11

 

理解できない面もある。信じたくないという思いもあった。平面上から出るという疑問もある。でも事実としてそこから出る。」(註12

 

旧石器研究の基本は層位であるという原則に立ち戻るまでもなく‥‥」(註13

 

旧石器時代に縄文時代と同じ石器があるということは、江戸時代に電卓があるのと同じくらい(註14)に奇妙奇天烈なことである。しかしプロたちは型式論的に矛盾しても、その層位から出土した「事実」が重要なのであった。旧石器時代の層位から出たものは、どんなにおかしくても旧石器時代のものと断定する。考古学でいう「層位は型式に優先する」を絶対視するものである。信じられないと思ってもそこから出たという「事実」を疑うことをせず、従ってその検証作業をしようという発想は出てこなかった。そのために後に、

 

縄文の石器と前期旧石器とが見ただけでわからないのなら、それはまさに八百屋さんがマッタケとシイタケと区別できずに売っているようなもの」(註15

 

と皮肉られる事態となった。

 

(註)

9)芹沢「岩宿から上高森まで」(日本考古学協会編『日本考古学を見直す』学生社20004月所収)96頁。

10)梶原洋の発言。毎日新聞社『発掘捏造』(20016月)35頁。

11)鎌田俊昭の発言。註1046頁。

12)木村英明の発言。註1047頁。

13)会田容弘「1999年の考古学界の動向 旧石器時代(東北)」(『考古学ジャーナル445号』19995月号)7頁。

14)註10224頁。

15)竹岡俊樹の発言。註7の5859頁。

 

6、捏造「事実」から生まれた歴史像 ―理屈と膏薬はどこにでも付く―

藤村の捏造「事実」によって、現代人と同じ数千年前の縄文人が作る石器を数十万年前のサルに近い原人も作ったということになった。当時プロたちはこれをどう解釈しようとしたか。

 

ヨーロッパにないのに日本にあるのがおかしいというのはどうか。私はむしろ日本列島独自の尺度、考える基準が与えられたと前向きに考えたい。」(註16

 

欧米の研究者の間では、上高森で想定されるような人類の能力は、現生人類になってからのものだとする考え方が強い。‥原人の能力を低く考えるこれまでの欧米を中心とした学説の一部を覆す決定的な証拠といってもよいであろう」(註17

 

今回の『日本原人』の発見は、彼らが日本列島に腰を据えて、相当程度の知的水準を獲得しながら旧人へと進化し、その末嫡が新人に変わったのではなかったかという仮説の有力な根拠になりそうな気配を見せている」(註18

 

原人は、たぶん相当程度に抽象的な考え、さらには言語能力があったのではないか。そのように考えれば、何らかのメッセージとして石器を埋納することや、雨風を避けるために柱を立てることなどがあっても不思議ではないように思われる」(註19

 

六〇万年前の高森原人は、私たちに共通する美意識をもっていました。美しさに感動する心の歴史は古いのです。」(註20

 

このようにおかしいと思われる点は日本の独自性であり、日本列島の原人は現代人と同じくらいに文化が高くまた同じ美意識があった、欧米では原人を低く評価するが日本は違うとなってしまった。そして彼らだけでなく多くの著名な研究者たちが捏造資料を根拠に同じような理屈を考え出して旧石器時代の歴史を語ったのである(註21)。まさに「理屈と膏薬はどこにでも付く」の通りである。

 

(註)

16)安蒜政雄の発言。註1045頁。

17)梶原の発言。註1035頁。

18)小林達男の発言。註1048頁。

19)尾本恵一の発言。註1048頁。

20)佐原真『美術館へ行こう 大昔の美に想う』(新潮社 19996月)6頁。

21)捏造資料から旧石器時代を組み立てたものは、引用文献以外に岡村『日本旧石器時代史』(雄山閣考古学叢書33 1990年)、同『歴史発掘@石器盛衰』(講談社 1998年)、佐々木高明『日本の歴史@日本史誕生』(集英社 1991年)、佐藤宏之『日本旧石器文化の構造と進化』(柏書房 1992年)、安斎正人『理論考古学』(柏書房 1994年)、藤本強『モノが語る日本列島史』(同成社 1994年)、松藤和人『西日本後期旧石器文化の研究』(学生社 1998年)等々多数ある。

(続く)

 

 

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