88 松浦武四郎の石碑をたずねて

―聖跡二十五社天満宮巡拝―

1、     はじめに

 筆者はかつて大阪府守口市内に所在する佐太天神宮の境内で「聖跡二十五拝 第九番 佐太天‥」と刻まれた石碑を見つけた。下半部は欠損しており、また長年の風雨により汚れ苔むしているために材質は分かり難かったが、関西の石造品に使われる御影石や和泉砂岩でないことは確かであった。珍しいものと直感して調べたところ、松浦武四郎の建てた石碑であることが判明した。それ以来、折にふれて彼の建碑に関する文献を探し、石碑をたずね歩いた。今回ある程度まとまったので、ここに報告するものである。

【佐太天神宮の石碑】http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/matsuura9

 

2、     松浦武四郎の石碑と天神信仰

 松浦武四郎は幕末に日本の北方を探検し、「北海道」の命名者として有名で、北方史研究では極めて重要な人物である。大阪府立弥生文化博物館では、平成16年春季特別展『弥生のころの北海道』の図録のなかで「北海道の『名付け親』」として紹介している[吉村2004]。

 ここでは『国史大事典13』(吉川弘文館 平成4年4月)より彼の経歴を略述する。

 

 江戸時代後期の北方探検家。文政元年(1818)伊勢国一志郡の生まれ。幼名を竹四郎。天保四年(1833)から日本国中を遊歴、北方に関心を強め、弘化元年(1844)単身北行した。同二年から嘉永二年(1849)蝦夷地・クナシリ・エトロフ島を探検して『蝦夷日誌』などを著わし、安政二年(1855)幕府が蝦夷地を再直轄すると、蝦夷御用掛に起用され、同三年から同五年まで蝦夷地を探査して『竹四郎廻浦日記』『東西蝦夷山川地理取調日記』などを著わした。同六年江戸に帰って御雇を辞し、以後市井において蝦夷に関する多くの著書を刊行した。明治元年(1868)東京府付属、同二年開拓使判官に任用され、北海道の道名・国・郡名を選定したが、新政府のアイヌ政策に同調できず、翌年辞任し、以後全国遊歴と著述の日を送った。明治二十一年(1888)七十一歳で没した。

 

 彼はこのように北方研究史上大きな功績を残しているのだが、彼の天神信仰について詳しく知る人は非常に少なかった。しかし近年彼への関心が高まって調査研究が進み、それについても徐々に知られるようになってきた。

 彼は明治維新後に天神を篤く信仰し、西日本の天満宮二十五社選んで聖跡と定め、巡拝を念願した。そして明治17年(1884)から同20年(1887)にかけて、この二十五社を参拝して石碑を建てるとともに神鏡を奉納し、これに関連して『聖跡二十五霊社順拝双六』を作成した。

 筆者は彼の石碑を探して、追って聖跡二十五社の巡拝を発願したのである。

 

(聖跡二十五社天満宮一覧表)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyou1

 

3、     松浦武四郎の石碑

 松浦は天満宮25社に一番から二十五番までの番号を振り、そのすべてに石碑を建てた。彼は明治17年(1884)から同19年(1886)にかけて関西を遊歴し、同20年(1887)には九州・四国方面にまで旅行しているので、この時期に建碑されたものと考えられる。そして平成16年(2004)現在、その存在が確認できるものは14社である。

 石碑は幅・奥が18cm前後、高さ100〜105cmの尖頭形角柱で、同一規格で製作されたものと思われる。尺貫法で六寸角、三尺半の石碑となる、

 石材は黒に近い灰色を呈する安山岩系と黄白色に近い灰色を呈する凝灰岩系の二種類がある。これらは近世から近代にかけて江戸・東京で多く使われた伊豆半島産石材と思われる。伊豆石は硬軟二種に大別され、安山岩と凝灰岩質があるとされている[金子2001]。また碑文内容から製作時期が明治18年(1885)と判明するものがある(後述)。以上から石碑は、1885年頃に東京で六寸角、三尺半の同一規格で製作されて、各天満宮に持ち運ばれたものと推定できる。

 現存する石碑が原位置のままであるかどうかは分からない。各天満宮はここ100年余の間に改修されたり災害に遭うなどによってかなりの改変を受けている。石碑自体が動かし易いものなので、ほとんどが原位置から移動していると見た方がいいであろう。

 銘文については、典型例として第8番の道明寺天満宮例を示す。なお紙面の都合で横書きにしている。

【第八番の石碑の写真】http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/matsuura8

 

 (正面)

    聖跡二十五拝

          土師里天満宮寶前

    第八番

        従三位勲三等 郷純造書 [印][印]

  (右側面―向かって左側)

            東

         発起人 松浦武四郎

            京

 

このように石碑正面の最上部には「聖跡二十五拝」と番号、中央部には天満宮名と「寶前」、右端(向かって左端)には揮毫者名と一部に落款印が刻まれる。また側面には発起人である松浦武四郎の名前が刻まれるが、願主や資材主等の名前を併せて記されるものも一部にある。建碑は松浦が発起し、協賛者を募ったことが分かる。

【石碑に刻む「松浦武四郎」】http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/matsuura19(第十九番)

 

4、     京都における松浦の建碑

 京都府下では下記の六社が聖跡と定められた。

 

   第一番   菅原院天満宮 (京都市上京区)

   第二番   錦天満宮   (京都市中京区)

   第三番   菅大臣天満宮 (京都市下京区)

   第四番   吉祥院天満宮 (京都市南区)

   第五番   長岡天満宮  (長岡京市)

   第二十五番 北野天満宮  (京都市上京区)

 

 このうち菅原院、菅大臣、吉祥院の三天満宮の境内に石碑が遺存する。三碑とも完存である。菅原院は道真公生誕地の伝承を有するために一番になったようである。長岡は改修が繰り返し行なわれた結果、行方不明になったとのことであった。

【第一番】http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/matsuura1

 

5、     大阪における松浦の建碑

 大阪府下では二十五の聖跡のうち、下記の六社が定められた。

 

   第八番   道明寺天満宮(藤井寺市)

   第九番   佐太天神宮 (守口市)

   第十番   大阪天満宮 (大阪市北区)

   第十一番  露天神社  (大阪市北区)

   第十二番  福島天満宮 (大阪市福島区)

   第二十四番 上宮天満宮 (高槻市)

 

 このうち道明寺、佐太、上宮の三天満宮に石碑が遺存する。道明寺例と上宮例は完存であるが、佐太例では前述したように下半部が欠損している。大阪市内の各天満宮では、戦災や大火によって亡失となっている。なお露天神社は近松の曽根崎心中で有名なお初天神である。

 

6、     奈良・兵庫における松浦の建碑

 奈良県下では二社、兵庫県下では五社が聖跡と定められた。

 

   第六番   与喜天満宮  (奈良県桜井市)

   第七番   威徳天満宮  (奈良県吉野町)

   第十三番  長洲天満宮  (兵庫県尼崎市)

   第十四番  網敷天満宮  (神戸市須磨区)

   第十五番  休天神社   (兵庫県明石市)

   第十六番  曽根天満宮  (兵庫県高砂市)

   第十七番  大塩天満宮  (兵庫県姫路市)

 

 このうち与喜、威徳、休、曽根の四天満宮に石碑が遺存する。いずれも完存である。曽根例には「岡本迪七十五歳」という銘文があり、1811年生まれから計算して石碑の製作が明治18年(1885)であったことが分かる。網敷例は平成7年(1995)まで存在していたが、阪神大震災の際に行方不明となった。郷土史家の真野修によって記録されていたのが幸いで[真野1996]、現在では境内に松浦の説明板が建てられている。長洲は戦災・震災に遭い亡失となっている。

【第十六番】http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/matsuura16

 

7、     四国・中国・九州における松浦の建碑

 香川県下で一社、広島県下で二社、山口県下で一社、福岡県下で二社が聖跡と定められた。

 

   第十八番  滝宮天満宮     (香川県綾南町)

   第十九番  御袖天満宮     (広島県尾道市)

   第二十番  厳島神社摂社天神社 (広島県宮島町)

   第二十一番 防府天満宮     (山口県防府市)

   第二十二番 網場天満宮     (福岡県福岡市)

   第二十三番 太宰府天満宮    (福岡県太宰府市)

 

 このうち御袖、厳島、防府、太宰府の四天満宮で石碑が遺存する。太宰府例は長年亡失していたが、昭和60年(1985)に実施された境内での遺跡発掘調査の際に出土し、報告書に記録された[小西1988]。拓本が掲載されており、本稿でも利用した。中央部分が欠損しているが、他の三例は完存である。この厳島例は現在接近できず、詳細は不明。[宮島町1993]に記録があるが、揮毫者がないなど内容は疑問である。滝宮例は材質が他と違って周辺の石造物に使われる花崗岩であり、角柱ではなく方形柱、碑文内容も他とかなり違うことから、松浦の建碑ではなく地元による再建碑と思われる。

【第二十三番】http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/matsuura23                                                                           

 

8、石碑に刻む協賛者名

石碑は松浦が発起し、協賛者を募って建てられた。石碑には前述のように発起人である松浦武四郎だけでなく、建碑に協賛した揮毫者、願主、資材主の個人名が記されている。彼らは松浦の友人・知人の政治家や学者、文化人、商人たちで、現在の歴史辞典にも名を残す著名人が多い。松浦の晩年の交友関係を知る上で貴重な資料となる。協賛者の経歴や生没年について、次のように表としてまとめた。

                       

(協賛者一覧表)http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/hyou2

 

8、     松浦の奉納した鏡

松浦は聖跡二十五社すべてに石碑とともに鏡を奉納した。奉納は石碑と同時期と思われる。これまで神鏡として保管されてきたので公開されているものはなく、直接見ることは難しい。

 [加美山2001]の写真より、典型例として第1番菅原院の奉納鏡の背面銘文を示すと、

 

   聖跡第一番/菅元院天満宮/願主松浦武四郎

 

ある。他も同様で同様で「聖跡番号/天満宮名/願主名」が記される。

 この鏡背面の拓本25枚が集められて掛軸として製作され、現在松浦の子孫が所蔵しておられる。加美山はこれに基づき銘文を集成し、発表している。本稿では前述の天満宮一覧表にその成果を利用した。

 なお25面の鏡の遺存状況は、真野によると10面確認(文献含む)、加美山によると14面現存であるが、重複を除外すると16面となる。写真が公表されているものは、菅原院、道明寺、佐太、大阪、網敷、曽根、北野の七天満宮である [真野1996、加美山2001、網敷天満宮説明板] 。このうち佐太例は日本画家で著名な河鍋暁斎のデザインによるものとされており、美術的価値が高いと考えられる。

 

10、松浦の製作した双六

 松浦は自ら定めた聖跡二十五社の双六を製作した。これは『聖跡二十五霊社順拝雙六 松浦武四郎造 古梅居士題』と題するもので、真野の所論において公表されている[真野1996]。題名の揮毫者である「古梅居士」は、建碑の協賛者の一人である巌谷一六が「古梅」という字を有しているので、彼であると思われる。なお製作年代について真野は明治17年(1884)としているが、加美山は明治19年(1886)としている。

 双六は木版一枚刷りで、フリダシの第1番菅原院天神からアガリの北野天満宮までと番外の天満宮七社を含めて32コマである。そのうち27コマに道真ゆかりの場面を描く絵画が挿入される。双六の番号と天満宮は、石碑や奉納鏡のそれと一致する。

 番外七社のうち、全国天神社一覧表などから所在が確認できるものは次の四社である。

 

   大和國菅原社 (菅原神社  奈良県奈良市)

   北野天神   (網敷天神社 大阪市北区)

   きぬかけ乃社 (衣掛天神社 福岡県太宰府市)

   榎寺     (榎社    福岡県太宰府市)

 

 他の山崎休石天神社、吉野宮瀧、天拝山の三社は不詳である。

 

(松浦武四郎製作の双六)http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/matsuurasugoroku

 

11、まとめ

 北海道の名付け親として有名な松浦武四郎は明治維新後に天神信仰を深め、西日本に所在する二十五の天満宮を選んで聖跡と定めて鏡とともに石碑を奉納した。石碑は十四社に現存し、そのうち十三社では今なお境内に建ち、いつでも見ることができる。

 二十五例のうち約120年の間に亡失したのは十一例となるから、亡失率44%と計算される。このなかに最近の阪神大震災によるものが一例(網敷)ある。しかし長年亡失していたものが遺跡発掘調査の際に出土して現存となった例(太宰府)もあるので、他の亡失例も含めて今後の神社周辺の発掘や土木工事に期待したいところである。

 筆者は松浦武四郎翁の遺徳を偲び、彼の石碑をたずねて聖跡二十五社の参拝を発願した。しかし第22番網場天満宮だけは未だ参拝できておらず、また第23番太宰府天満宮の石碑は未見である。大願成就には至っていないが、本稿が松浦の晩年の天神信仰についてある程度明らかにできたものと考える。

 

【本論考を掲載するにあたっては本文の一部を加筆した。写真資料は省略した】

 

(参考文献)

・小西信二 「『宝庫』下より出土の石柱考察」(太宰府天満宮『太宰府天満宮―太宰府天満宮境内地発掘調査報告書第一集』1988年)

・宮島町 『宮島町史 資料編・石造物』1993

・真野修 「失われた松浦武四郎の石碑」(神戸史学会『歴史と神戸』194号 19962月)

・真野修 「曽根天満宮と松浦武四郎」(曽根天満宮社報『神麓』24号 19977月)

・加美山史子 「松浦武四郎の天満宮二十五霊社奉納と河鍋暁斎」(河鍋暁斎記念美術館『暁斎』72号 20011月)

・金子浩之 「伊豆石丁場」(柏書房『しらべる江戸時代』200110月)

・吉村健 「北海道の『名付け親』」(大阪府立弥生文化博物館『弥生のころの北海道』20044月)

・須磨網敷天満宮 「北海道の名付け親」(境内に建てられた説明板)

 

(参考URL

http://www.domyojitenmangu.com/butubutu3.shtml

(8月の記事に「武四郎は‥天満宮を25社選んで、神鏡と石柱を奉納‥その25社をもとに「聖跡二十五拝双六」を作りました。‥当宮は第8番に描かれ、その神鏡や石碑、双六が残されております‥」とある)

http://www2.ocn.ne.jp/~kkkb/imaj.html

(「4、夢中天神図」の説明文中に「松浦武四郎が寄進者を募り天満宮25社へ鏡と石碑を寄進した際に‥」とある)

 

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