「また来てますよ、
あいつ。」
洗濯物を山と抱えた僕は、
そうともさんに言った。
ともさんは手術台を机代わりに何か書き物をしていたが、
「一番いい処方食やっといてくれよ。
涙さんの猫だし、
なんせこの暇な時期うちの病院は随分と世話になっているからな。」
そう言うとにやりと笑った。
世話になっているといっても涙さんにではない。
それは、時々は手作りのカレーや、
お料理教室の課題作のお毒味などさせてもらっているが、
ともさん共々お腹をこわしたこともあるし、
前人未踏の味覚を経験させられたことだって一度成らずあった。
涙さんは病院の掃除や繕い物も時々してくれるが、
休診日にはともさんが物心両面で、
ずいぶんフォローしているはずだ。
はずだが、
詳しくは知らない。
兎にも角にもこのとき、
うちの病院が両手を合わせて拝みたくなるほど世話になっていたのは、
実はにゃん太その人、
いやその猫だった。
一番いい処方食は涙さんの猫だからという訳ではなく、
にゃん太自身へのはからいだったのだ。
「どうもありがとうございました。
ごきげんよう。」
ご近所の岩田さんのおばあちゃんが、
マフラーにくるんだ、
そめをつれて病院を出ていった。
岩田さんのおばあちゃんは戦前の女子大を出た上品なお年寄りで、
そめは、そのおばあちゃんが孫より可愛がっている三毛猫だった。
そめは、今時珍しい短尾短躯の日本猫で、
なんと和泉式部の愛猫から名前を採ったのだという、
多摩には希な深窓の令猫だった。
そめは右側の後ろ足に傷を負っていた。
形状とおばあちゃんの話から、
その傷は他の猫による咬み傷であることは確かだった。
「そめが大慌てで走ってきた方を見ましたら、
まるで猛虎のような姿をした猫さんがこちらをにらんでおりました。
本当に恐ろしい顔で。
そめが何か猫さんの気に障る事でもしたのでしょうが、
うちの庭先でのことですから、
そめの落ち度とばかりは言えないような気がして、
困ってしまいました。」
おばあちゃんは品よく愚痴ってみせたものだ。
幸いにもそめは手当が早かったこともあり、
二三日足を引きずる程度で済んだが、
最近ご近所の猫にこうした咬傷が頻発していたのだ。
中には飼い主が気づくのが遅れてしまい、
傷口がひどく化膿する猫もいたから、
ことは深刻だった。
「近頃猫の咬傷がやけに多くありませんか。」
僕は診察台の上を消毒しながらともさんに言った。
「パイよ。
おまえもそう思うか。」
「それも、ご近所の猫ばかり。
さっきの岩田さんのおばちゃんのそめをはじめ、
青山さんちの与太郎や浅田さんのところの寿丸、
角のアパートの英語の先生、
ハインラインさんのところのピートも、
手ひどくやられましたからねえ。」
僕はここ二日ばかりの間に来院した、
よく知っている猫の名をあげた。
範囲を週から月の単位に広げれば、
もっと多くの咬傷猫をあげられたが、
それはともさんも十分承知のことだった。
「あいつかな。」
「あいつでしょう。
岩田さんのおばあちゃんが見た猛虎は、
あいつ以外には考えられないでしょう。
怪しいとは思ってましたけど、
咬傷の増え始めた時期は調度涙さんが越してきた頃ですし、
この辺で猛虎と言う表現に似つかわしい猫は、
あいつ以外には考えられませんよ。
現場を押さえられたのは今日が初めてですけど、
僕はおばあちゃんのお話を聞いて確信しましたね。」
「そうだよな。
涙さんに言うか?
このこと。」
僕は激しく首を振るとこういった。
「絶対だめですよ。
今うちは財政的に絶体絶命のピンチなんです。
唯でさえ仕事の少ないこの真冬。
せっせと仕事をこしらえてくれているあいつには恩義があります。
そんなこと涙さんに言ったら、
あいつ去勢されちゃいますよ。
あいつが去勢されればおそらくうちの仕事も減ります。」
僕は哀願の中にも固い決意を秘めて口早に言い放った。
ともさんはポカンと口を開いて驚いた顔をしていたが、
やがて苦笑しながら言った。
「越後屋おまえも悪い男よのう。」
そこですかさず僕がこう言ったことは言うまでもない。
「お代官様。
ここは一つ、この越後屋にお任せください。
イヤイヤ、
お代官様は何一つ御心配なさることはございません。
決して御損はさせませんから。」
とは言っても僕は何もするつもりがなかった。
知らぬ半兵衛を決め込んで全て成り行き任せ、
怪我をした猫が病院に来れば誠心誠意手当をして、
やがてにゃん太も他の猫も状況になれて棲み分けができてしまえば、
咬傷猫も減ってくると思っていた。
心配と言えばともさんの性格だった。
今時珍しく一本気というか、
社会正義に対しては学級委員のような所があったので、
僕の目論見もインサイドから瓦解する可能性があった。
そして案の定、
一日二日もしないうちに、
内心の葛藤を逸らすためか、
ともさんはこそこそと、
にゃん太に餌をやり始めたのだ。
病院の裏で、
いかにも人目をはばかるという風情で、
きょろきょろ辺りを見回し、
何事か話しかかけながら、
にゃん太にモンプチをご馳走しているともさんの姿を目撃したときには、
情けないやら恥ずかしいやらで、
思わず笑ってしまった。
「ともさん。
そこで何やってるんですか。」
ともさんはびくっとしたようにこちらを向くと、
悪戯を見つかった子供のようににやりと笑った。
「いや、にゃん太は涙さんの猫だからな。」
「何が”いや”ですか。
答えになっていないじゃないですか。
そう言うのを語るに落ちるって言うんですよ。
なんだか悪いことをしているみたいにこそこそと、
そんなところで猫に餌なんかやってたらすごく不自然で、
滅茶苦茶怪しい感じですよ。」
「パイよ。
そうは言うがどうも俺はだな、
なんだか辛いんだよ。
そうだ、
俺の代わりにおまえがにゃんたにご馳走してやってくれ。
おまえならこいうことは自然にできそうだからな。
人には得手不得手があるからな。
悪巧みと陰謀はおまえに任せた。」
ともさんは名案とばかりにそう言った。
「それはいいですけどともさん、
僕がいったいどういう人間だと思っているんですか。」
「マキャベリいや、
清川八郎って所かな。
重宝してるよ加納先生。」
にゃん太にご馳走することと、
咬傷猫による収入増のからくりに対するともさんの罪悪感が、
どこでどう繋がって合理化できるのかは、
奸計を巡らす陰謀家の烙印を押された僕には、
とんと見当がつかなかった。
しかし時折ふらりとやってくるにゃん太にご馳走するのが、
僕の仕事の一つとなった事だけは確かだった。
それ以来ともさんの怪しい振る舞いも見られなくなり、
考えようによっては随分といい加減な、
ともさんの社会正義も見事に安定して、
月末の支払いも恐れるに足らずとばかりに、
にゃん太はせっせと仕事を増やしていてくれた。
しかし良いことは、
いや悪いことは長くは続かない。
下手人がにゃん太と知れてから一月と経たない内に、
とも動物病院の財政に貢献したにゃん太の活躍は、
思いもかけぬ結末を迎えることになる。
その夜、
両足ダブル骨折の子犬が退院して、
少々懐の暖かかったとも動物病院のスタッフ、
即ちともさんと僕は病院を終えた後、
近所の焼き肉食べ放題の店に出かけた。
そこですっかり粗食になれた胃袋に、
久々にタンパク質の補給をしてやり、
全身の細胞の一個一個に、
栄養が行き渡った心地になったのだった。
かてて加えて、
ともさんが少しうわずった声で生ビールを、
それも大ジョッキで注文してくれたときには、
幸福で胸がはち切れそうになってしまった。
そんなこれやで、
明日の朝は確実に下痢が予想されるほどに、
たらふく肉を詰め込んだ二人が、
ふらふらと上機嫌で病院に帰ってきてみると、
病院のエントランスの前に誰かが立っていた。
涙さんだった。
涙さんはまた泣いていた。
一番最初の時のようにかごの中にはにゃん太が詰まっていたが、
今度は鋭い眼差しをこちらに向けるどころか、
どんよりとしたいかにも健康に不都合がありげな表情で固まっていた。
「昼過ぎからあまり元気がなかったのですが、
八時を過ぎてからトイレにしゃがみっぱなしで、
うなり声をあげて力むのですけど、
うんちもおしっこも出なくて。
すぐに連れてきたのですけど誰もいなくって。」
涙さんの目が真っ赤だった。
病院の中はすっかり冷え切っていたが、
急いで暖房をつけると各種機械の電源も入れた。
一杯気分は一瞬で消え、
ともさんと先を争うように白衣を身につけた。
ともさんはにゃん太をかごから抱き上げると軽く下腹部に触れた。
「尿閉だ。
パイよ、
鎮静かけて一応カテーテル留置の準備をしといて。
俺はフラッシュの用意をする。」
僕はにゃん太に鎮静剤の注射をすると、
奥に引っ込んでカテーテル留置の準備を始めた。
ともさんは診察室でフラッシュの準備をしながら、
涙さんに説明を始めていた。
「にゃん太は今おしっこが出なくて苦しんでいます。
膀胱にできた砂粒より更に細かい結晶の粒が、
ペニスの先端近くの尿道を詰まらせたのです。
猫の尿道はペニスの元より先の方が細いのですが、
その細くなった部分に結晶の粒が詰まって、
おしっこが出なくなってしまったんです。
これからその結晶を水の圧力で洗い流してやります。
フラッシュと言いますがこれが巧くいけば、
またおしっこが出るようになります。
出始めたおしっこを分析してみて、
またすぐに詰まりそうなら、
今加納先生が準備している管をペニスから膀胱まで入れて、
そのまま管のはじを皮膚に縫いつけて何日かおいておきます。
フラッシュが巧くいかずカテーテルも入らない、
と言う最悪の事態に到った場合、
尿道をペニスの先端から太い部分まで切り開いて、
尿道瘻というものをこしらえます。
外見は雌のようになってしまいますが、
こうすればまずおしっこ詰まりは起きなくなります。
結構難しい手術なので、
最悪の場合ですけどね。」
これはともさんの特技の一つなのだけれど、
ともさんが病状や処置の説明を飼い主さんにすると、
皆ほっとしたような安心顔になるのだ。
僕が説明すると、
時として飼い主さんが猛烈に不安そうな顔をするのとは、
大きな違いだった。
そのときの涙さんも少し穏やかな気持ちになったようで、
ともさんにいろいろと質問をし始めていた。
人格に厚みがあるせいなのか専門に対する揺るぎない自信がそうさせるのか、
ともさんが飼い主さんから寄せられる信頼度の高さは、
ともさんが獣医師としてのライトスタッフを持っていることの、
そのまま証になっているように思えた。
「加納先生、始めるよ。」
処置台の上には、
鎮静剤を注射されて動きの止まったにゃん太が横たわっていた。
ともさんは、
先に静脈用カテーテルを取り付けた生理食塩水入りの注射器を使って、
ゆっくりと静かに尿道の洗浄=フラッシュを始めた。
ところが、
いつもならば少しの抵抗の後に、
すっと注射器の内筒が押されて、
尿道の閉塞が解除されるのだが、
どうも巧くいかないようだった。
「駄目だな。
生食が入っていかない上に、
逆流してきてる。」
それでもともさんはあくまで冷静だ。
しばらくの間フラッシュを続けてやがて少しだけ尿が出るようになったので、
尿道カテーテルを挿入してみょうと言うことになった。
「やはり入らんな。
膨大部の手前で引っかかってるんだろう。
切るか。」
ともさんは独り言のように言った。
「とりあえずこの程度のの排尿で、
様子見って訳にはいきませんか。」
まるで我が事のように僕は言った。
「この程度の排尿じゃ多分おいつかんな、
それに早晩また閉塞だよ。
にゃん太は苦しむな。」
「手術だけは何とか成りませんか。」
僕は必死で言った。
ともさんは怪訝そうな顔で僕を見た。
いつもならやたらと切りましょう切りましょうと、
手術をせがむ僕をむしろたしなめるのがともさんだったからだ。
「加納先生、
にゃん太の事心配してくだっさってありがとう。
でもとも先生が手術とおしゃるのなら、
手術をしていただきます。
とも先生よろしくお願いします。」
涙さんはけなげにも目に涙をためながら、
声を震わせていった。
(違うんだよーーーー、お嬢ちゃんーーーー。
尿道瘻の手術は去勢がセットになってるんだーーーー。
去勢しちまったらにゃん太が喧嘩しなくなっちまうかも知れねーじゃねーか。
そうなったらイージーな儲けが不意になっちまうんだよーーーーーー。)
僕はこの内心の叫びを恥じた。
恥じたが、
目の前が真っ暗になっていくのを止めることはできなかった。
とも動物病院の売り上げの、
19,17%が今失われようとしているのであった。
永遠に続くこととは思っていなかったが、
とも動物病院の経理担当としては、
目先の確かな利益だけが愛おしかった。
「加納先生。
ぼんやりしてないで、
手術の準備を始めるよ。
涙さん、
それではこれから手術を始めます。
手順はさっきお話ししたとうりです。
手術が終わりましたらすぐお電話差し上げますから、
お家でお待ちください。」
ともさんはそう言うと、
涙さんを見送った後僕に囁いた。
「パイよ。
膀胱の穿刺減圧やらせてあげるからね。
あれ、
元気ないね。
それじゃ、
ここらで一発手術もやらせてあげよう。
そろそろと思ってたんだけどね、
調度いい機会だしね。
ただし、
涙さんには内緒だよ。」
「ほ、ほんとですか。
ありがとうございます。
一生懸命やりますから。」
「少しは元気出た?
でもどうしてさっきは手術に反対したんだ。
いつものパイなら大喜びで賛成するところなのに。」
ともさんはこの手術の結果を全く理解していなかった。
しかし、
尿道瘻設置術の手術をやらせてもらえるとなれば、
なんだか急にお金の問題など、
どうでもいい事のように思えてきたのだから、
僕もいい加減だった。
(どうせ以前と同じ状況になるだけだし、
どうころんでも貧乏な病院であることに違いはないのだから、
薬屋さんには牛丼接待してまた支払いを待ってもらおう。)
代診にとって手術をやらせてもらえると言うことは、
大変なことなのだ。
院長にしてみれば、
未熟者の手を借りずとも、
外回りの雑用を代診に任せ、
自分は手術に専念すれば、
失敗は少ないし仕事もはかどる。
だから、
院長が教育熱心で代診に好意的でないと、
なかなか手術の機会が回ってこないのだ。
代診があまり手術をさせてもらえないと、
手術は場数を踏まなければまず上達は望めないので、
やはりいつまで経っても手術の機会は回ってこないことになる。
院長の立場に立ってみれば、
不器用な代診に手術をやらせてみたものの、
失敗しましたでは収まらない。
もしそれが取り返しのつかない失敗であれば、
当然責任問題となるが、
その責任は病院と院長が負わなければならない。
訴訟にでもなれば多大な金銭的喪失と、
予期せぬ信用の失墜にもみまわれるのだ。
院長としては勢い慎重に成らざるを得ない。
しかし、
だからといっていつまでも代診に手術をやらせないでおけば、
代診には当然不満がたまる。
当たり前である。
代診の多くは将来は自分も開業したいと考えている。
代診という身分は修行中の身、
就職した社会人という意識より、
まだ学生という意識の方が強い場合が多い。
現にこの僕がそうだったし、
多くの獣医仲間に尋ねても、
代診時代の意識は皆似たり寄ったりだ。
院長は研究室の先生みたいなものだし、
仕事だって雑用を含めて学校時代と、
あまり大きな違いがあるような感じはしない。
これは実は大きな錯覚と誤解で成り立っているもので、
院長と代診の共同幻想なのだが、
何かと便利なのでうやむやにされているところがある。
なんとなれば、
代診のしでかした失敗の責任は、
手術を含めて院長が負わなければならない。
そのかわり院長は市場価格よりかなり割安で、
有資格者をこき使うことができるのだ。
なおかつ修業年限が短い(長くて三四年)ので、
昇級による財政的負担の心配があまりないし、
ひどいところでは社会保険や健康保険すらない。
定期的に新人を採用することになるから、
大学との関係もつかず離れずで保てるし、
代診の能力によっては最新の知識も手にはいる。
反面先の責任問題のリスクや、
手塩にかけて代診を育てても、
一人立ちできるほどの能力を身につければやめていくのだから、
代診は消耗品、
みたいな考え方も当然院長の胸には忍び寄るだろう。
だから、
大学の研究室的共同幻想は、
気持ちの合理化という点で、
院長にも代診にも有用なのだ。
しかしながら、
動物病院の仕事はサービス業であって、
クライアントは最上の専門的知識と技術を期待して対価を支払うのであるから、
動物病院のそうした実状には異論が出てくることだろう。
クライアントは当然、
院長にも代診にもプロとしての振る舞いを求めるわけだが、
この点で代診には弱い部分がある。
これはあくまで自分の持っていた意識で、
どの代診もそうだとは言わないし、
院長以上にプロの責任感を背負い込んで、
診療に当たっている代診も多いと思う。
しかし、
こと僕に関しては、
代診時代にシビアなプロの責任感を持って仕事をしていたかというと、
決してそうではなかったと告白せざるを得ない。
それは自分は修行中の身、
という甘えから来たものだったと思うし、
学生気分が抜けきらなかったことにも原因があったと思う。
代診時代にはそれなりに真面目に、
一生懸命仕事をしていたつもりであった。
だがいざ自分が院長と呼ばれる立場になってみると、
代診時代のあのときそのときのことが思い出されて、
肝が冷えそうになる。
まあしかしながら時代は変わって、
今は動物病院も企業としてしっかりした存立基盤を持つようになって、
各種社会保障、週休二日、有給休暇あり、
が普通のことだそうだ。
代診も就職という意識が強くなって、
万事がビジネスライクになってきているという。
まあ良いことなのだろう。
信賞必罰。
病院は代診に能力なりのことを求め、
代診も能力なりに仕事をこなしていく。
代診はあてがい扶持ではなくかなり努力しないと、
知識や技術の習得は難しくなるだろう。
しかし考えてみればどこの世間だって、
学校出たての若者に大きな仕事を任せはしない。
何年か仕事に慣れさせてから、
少しづつ複雑で難しい仕事を教えていくだろう。
僕は代診一ヶ月目で避妊の手術をやらせてもらったが、
考えてみればそのときの院長はいい度胸をしていたと思う。
おかげで失敗もしたが比較的短期間に、
様々な経験ができた。
かつてのように、
新卒の代診にどしどし難しい仕事を仕込んでいく、
むしろこのことの方が常識はずれなのかも知れない。
企業化した病院でそれこそ世間並みに、
能力に従って少しづつ仕事を覚えていく。
これが本来あるべき姿なのかも知れない。
徒弟制と言うか研究室的と言うか、
こと代診の扱いに関しては、
教育病院的なとも動物病院では、
それこそ手取り足取りで、
少しづつ難易度が高くなるように、
手術をさせてもらった。
一般診療に関しても症例のカンファレンスが必ずあって、
ともさんはまるで大学の講師か助教授のようだった。
ともさんに言わせれば理解していれば人に教えられる、
教えられないと言うことは自分の理解が足りないからで、
それは自分の勉強不足を知る上でも大切なのだと言うことだった。
「パイよちょい切りすぎだね。
出血の管理はきびきびしないと、
訳が分からなくなるよ。
待った。
そのまま、
ちょっと代わる動くなよ。
いいね、
パイよ、
少しプロっぽくなったね。
手が遅いよ。
プロセスをイメージしながら手早くこなせよ。
OK
おしまい。」
本で読んだのとはだいぶ違う現実にとまどいながらも、
半ばともさんの操り人形のようになりながら、
何とか無事手術をやり終えることができた。
にゃん太はもう喧嘩をしなくなってしまうかも知れないが、
術後の興奮と山登りの後にも似た充実感で、
そのときとも動物病院の経済に関する憂鬱は、
頭の中から消し飛んでいた。
「ひまですねー。」
僕は新聞から目を上げるとともさんの方を見た。
ここ数日寒気がゆるんでいて、
春を予感させる日差しが優しく町を包んでいた。
ともさんは斜めに差し込んだ柔らかな光の中で、
ときおり専門誌に目を落としながら、
ぼんやりと外を眺めていた。
「にゃん太が来たぞ。
この間もらった試供品あったろ。
あれ出してやってくれ。」
外を見ると病院の前の日溜まりの中で、
物憂げににゃんたが御髪の手入れをしていた。
結論から言うと手術の後、
にゃん太が全く喧嘩をしなくなったかというと、
決してそのようなことはなかった。
しかしながら、
にゃん太が原因と考えられる咬傷猫の数は激減したし、
にゃん太自身も少し太って、
もはや岩田さんのおばあちゃんに猛虎と呼ばせしめた精悍さはなかった。
にゃん太が喧嘩をあまりしなくなった理由は、
去勢もその一因かも知れないが、
にゃん太が地域になじんだことも大きいかも知れない。
ともさんに言わせると季節的に、
雌猫の発情頻度が高くて、
地域の猫達のテンションが上がっていたことも、
原因の一つではないかということだった。
何れにせよ、
猫の咬傷に関しては確実に仕事が減ったことだけは、
確かだった。
と言うわけでにゃん太の病院に対する貢献度に比例して、
ご馳走も試供品へとかく落ちしたことだった。
試供品と言ってもそこらのキャットフードより、
内容は良かったけどね。
まだまだ冬は続くが、
そこはかとない春の予感に、
フィラリアのシーズン近しの希望が、
とも動物病院経理担当のわたくしことパイの胸に、
熱く熱く去来するのであった。