「とも動物病院の日常 あいつ その一」


 あいつとの出会いは、
何とも変な具合で始まった。
「先生、うちの子猫がドラエモンみたいになってしまったんです。」
ある寒い朝、
最近近所に開店した不動産屋さんの看板娘が、
大きなバスケットを抱えて飛び込んできた。
数日前実直そうな父親と一緒に、
最中の詰め合わせを持って挨拶に来たので、
彼女であることはすぐに分かった。
彼女は小柄な愛くるしい娘さんで、
おまけにスタイルもなかなかで、
ともさんともども大喜びで、
お近付きの機会を伺っていたところだったのだ。
「あっ、おはようございます。」
噂の娘がいきなり目の前に現れて、
僕は思わずあがってしまった。
「ドラエモンが、どうかしましたか。」
「そうじゃないんです。
ドラエモンみたいになっちゃったんです。」
見ればうっすら、涙を浮かべている。
本当は、ここで颯爽と診療に取りかかれば格好が良かったのだろうが、
可愛い子の涙は、何だかとっても風情があって−イイナー−と、
そのとき僕は彼女の涙をぼんやり鑑賞してしまったのだった。
これは後々痛い失点となって効いてくる。
「先生!」
「えっ、あーっ、それでは診察台の上に載せて下さい。」
彼女の名前は、涙さんと言った。
るいとはちょっと出来すぎのようだが、
不覚にもその涙に魅せられたとき、
勿論名前はまだ知らなっかった。
涙さんは、そっとバスケットの蓋を開けた。
するとそこには、まるでやくざ映画にでもでてきそうな人相、
いや、にゃんそうの悪い茶虎の猫がバスケットいっぱいに詰まっていた。
それがあいつだった。
「これが、ドラエモンですか?」
茶虎の猫は、普通の猫の倍はあろうかという大きな顔でこちらを睨んでいた。
額の縦縞のせいで、両目の間にしわが寄っているように見えるのが凄みで、
どう贔屓目に見てもドラエモンと言うよりは、
前科十犯の凶状持ちという感じだった。
「そうではなくて、この子なんです。」
涙さんは、やくざ猫の胸元から小さな黒猫を引っぱり出した。
黒猫は、弱々しく鳴くと頭を振った。
「あっ、耳がない。」
黒猫には耳がなかった。


 猫というのは何処でも隙間があると、
好んで潜り込む傾向がある。
まして寒い冬とあらば、
自動車のエンジンルームは、
格好の寝場所となる。
どうやらドラエモン猫は、
お店の駐車場に止まっていた、
パートの人の車のエンジンルームに潜り込んでいたらしい。
出勤時の走行で適度に暖まったエンジンルームは、
居心地が良かったのだろう。
エンジンが完全に冷えて、
子猫が這いだしてくるまでそのままであったなら、
何事もなかっただろう。
間の悪いことに普段は夕方まで止めっぱなしの車が、
急のお使いで使われたのが悲劇だった。
パートの人が車に乗り込み、
エンジンスターターを始動したときだった。
なにやらギャッと言う叫びが聞こえて、
子猫が車の下からまろびでてきたのだった。
驚いて、物陰に隠れた子猫を抱き上げてみると、
頭が血だらけで、
耳がなかったという。
子猫はスターターのベルトに巻き込まれて、
耳を失ったのであった。
診察室で騒ぐ若い女性の声を聞きつけたともさんは、
ことの次第を見て取ると、
棒立ちの僕にてきぱきと指図して、
緊急のオペの手はずを整えた。
それこそあっと言う間に子猫に鎮静剤を注射して、
傷のトリミングと止血、縫合をやり終えた。
ともさんの仕事は鮮やかで、
僕との格の違いをまざまざと見せつけられた思いだった。
涙さんも僕の存在を完全に無視して、
ともさんに憧憬と敬意のこもった眼差しを向け、
言い放ったものである。
「先生、本当にありがとうございました。
一時はどうなることかと思いましたが、
これで安心ですわ。」
一時はどうなることかとのくだりでは、
涙さんは確かにちらりと僕の方を見た。
僕は心の中で白旗を揚げ、
最初の一歩を踏み出す前にこけたロマンスに、
別れを告げた。
まあ、そんなことはどうでも良いことだった。
子猫が、思いもかけぬ災難でドラエモンになってしまったことも、
些末なことだった。
その日一番の出来事はなんと言っても、
あいつとの出会いにあったのだから。

「バスケットの中の、
あの大きな猫は何なんです?」
これ以上傷口が広がらない内に話を変えようと、
僕は涙さんに何気なく尋ねてみた。
涙さんはともさんの方を見ながら、
柔らかな声で言った。
「にゃんたですか。
うちの子なんですけど、
滅多に帰ってこないんですの。
けれども子猫の保護者なものですから、
今日はどうしても付いてくると言って。」
「保護者ですか?」
「そうなんです。
元はと言えば、
子猫を連れてきたのがにゃんたなんです。
今日はたまたまにゃんたが帰ってきていて、
バスケットに子猫を入れたら、
にゃんたも潜り込んできて。」
いつの間にやらにゃんたはバスケットから這いだしてきていた。
にゃんたは待合室の長椅子の上に寝そべって、
顔を洗ったり毛づくろいをしたりしている。
「さあ、にゃんた帰るわよ。
ピースケは今日は入院だって。
それでは先生お願いいたします。」
涙さんはともさんに深々とお辞儀をした後、
僕に軽い黙礼を送って帰っていった。
にゃんたはのっそり立ち上がるとともさんと僕に一瞥をくれ、
悠然と出口に向かった。
そしてすっと尾を立てると慣れた感じでそれをふるわせ、
オシッコをドアのヒンジにかけた。
振り向きざま今自分のかけたオシッコの臭いを軽く確認し、
病院内をひと睨みすると、
今度は後も振り返らずゆっくりと立ち去った。
「あいつ、スプレーしていきましたよ。」
僕は憮然とした面もちで言った。
「感じのいい子だなー。」
「何ですあのやくざみたいな猫。」
「いくつかなー。
意外と胸大きかったなー。
いい匂いもしたし。」
「ともさん!」
「あっ、ハイターで拭いといてね。
後で臭うといけないから。」
ともさんは心ここにあらずで、
なにやらぶつぶつ言いながら奥に引っ込んでしまった。
これが、我々とにゃんたとの出会いであった。