「とも動物病院の日常  古山氏の怒り」



 「うちの犬になんてことしてくれたんだ!」
もう病院を閉めようかという時間、
それはとても寒い夜のことだった。
「あの、
どちら様でしょうか。」
最近へまをしでかした覚えはないし、
どうやら少し酔っているらしいその紳士の剣幕に、
沈着冷静が売り物の僕も少しうろたえた。
「どちら様だと。
惚けるんじゃないよ。
チャーリーだよ、
俺はね、チャーリーの足のことを言いたいんだよ。」
サラリーマンだろうか、
その紳士はちょっとくたびれたスーツを着てネクタイをゆるめ、
古びた革の鞄を提げていた。
「あっ、古山さんですか。
チャーリーは退院したはずですが。」
その紳士は、
どうやら断脚の手術をして昨日退院した、
柴犬のチャーリーの飼い主さんのようだった。
ようだったというのは、
最初に病院にチャーリーを連れてきたのも、
お見舞いに来たのも、
退院の時に迎えに来たのもご婦人だったので、
その紳士には見覚えがなかったのだ。
「チャーリー、足が無いじゃないか。
どうしてフィラリアの手術で足が無くなるんだ。
おかしいじゃないか。
こっちが素人だと思って馬鹿にするんじゃないよ。」
話がどこかで食い違っているようだった。
「足を切らなければならなかった原因は、
確かにフィラリアだったのですが。
そこのところの理由は、奥様ですか?
詳しくうちの院長の方から、
事前にご説明申し上げたはずですが。」
「何がご説明だ。
青二才が。
フィラリアが心臓に巣くう虫だってことくらい、
俺だって知ってるよ。
お前じゃ話にならんな。
院長を呼べ、院長を。」
指の先や耳たぶにちりちりとした痛みを感じ、
僕には自分の顔が青ざめていくのが、
まるで鏡を見ているように分かった。
口から出かかった言葉を無理矢理飲みこみ、
きびすを返すと奥の手術室のドアを開け、
中に入るとことさら乱暴にドアを閉めた。
ともさんは手術台の上の帳尻の合わない出納帳をにらみつけ、
電卓をねちねちと虐めていた。
「パイよ、
どうした。
目が怖いし、
顔が白っぽいよ。」
ともさんは不自然なほど明るい笑顔で、
無邪気に聞いた。
よほどひどい赤字なのだろう。
ふと、肩の力が抜けた。
「訳の分からない中年の酔っぱらいが約一名、
会社で認められない、
家で相手にされない、
女にもてたことがない、
そう言った長年の鬱憤を、
誤診という錦のみ旗を手にしたつもりで、
晴らしにやって参りました。」
僕は声をひそめていった。
「何だそれ。
パイよ、怒ってるね。
ところで、
誰なの。」
「古山さんのご主人ですよ。
ほら、チャーリーの。」
「酔っぱらってるの?」
「酒は小心者の鎧甲ですからね。」
「誤診って?」
「状況を先入観から早飲み込みして、
ここぞとばかり無抵抗が予想される相手をたたく。
育ちの悪い無能者の常です。」
「何のこっちゃ。
パイよ、いくら怒ってるからって、
そのペダンチックな言い回しは悪い癖だよ。
知らない人が聞いたら、
変質者と思われるよ。」
ともさんは、やれやれという顔をすると、
帳簿を閉じて立ち上がった。

「どうもお待たせいたしました。
私が院長の田山ですが、
うちの者が何か失礼を?」
ともさんはでかいのだ。
190Cm近い体で背筋を伸ばし、
それでもとても優しげな口調で切り出した。
「いや、失礼とかそう言うのじゃ無くて、
無いんですが。
聞きたいことがある、
あるんです。」
古山氏は、
僕に対するのとはうって変わって、
弱気になった。
「けっ、小心者め。」
まるでいじめっ子のことを、
自分の兄貴に言いつけた子供のように、
ヘヘンと言う気持ちで僕は腕組みをした。
確かに僕は、
生意気で小面憎い青二才だったのだと思う。
「こちらで手術したうちのチャーリーが、
足を取られちまった訳が知りたいんです。
家内の言うにはフィラリアが原因だとか。
おかしかありませんか。
フィラリアといや、
私ら物を知らない人間でも、
心臓に巣くう虫ってことくらい知ってるよ。
あんた等、
こっちが素人だと思って、
いい加減なこと言ってんじゃないの。」
話し始めて古山氏は急に元気になった。
「チャーリーの足のことは、
お気の毒だったと思います。
しかし、フィラリアが原因であることは、
事実なのですよ。
奥様には、詳しくご説明したのですが。」
「家内の話は聞いたよ。
それで納得がいかなかったから、
ここに来たんじゃないか。
家内は騙せても、
俺はそうはいかないぞ。
おい、そこの青二才、
のどが渇いたな。
気がきかねーな、
何か無いのか。」
驚いた。
この人は、
何者なのだろうか。
僕はもしかしたら本当は、
育ちが良かったのかもしれなかった。
こういう大人にかつて接したことがなかったし、
もし僕が他人にこんな口の効き方をしたのがおばあちゃんに分かったら、
唯じゃすまないのは確実だった。
古山氏のおばあちゃんは何とも思わないだろうか?
ぼーっとしている僕に、
ともさんが素早く目配せした。
僕はあたふたと奥へ引っ込み、
貰い物のナポレオンを出してくると、
大ぶりのコップにたっぷり注ぐと古山氏に差し出した。
いっきだった。
「ふー、貧乏人騙して、
良い酒飲んでんだな。
聞こうか。」
古山氏の目が、
どっかりとすわり始めているのが分かった。
ともさんはちらりと僕の方を見ると、
静かに話し始めた。
「フィラリア症で入院したはずの犬の足が、
切断されて家へ戻ってきた。
確かに驚かれたことと思います。
しかし本当に、
足を切らなければならなかった原因は、
犬糸状虫、通称フィラリアの虫体そのものにあるのです。
フィラリアは、蚊によって犬に感染します。
蚊によって付けられた刺し傷から、
フィラリアの子虫が犬の体内に進入して順調に成長できれば、
約三ヶ月から半年かけて心臓にたどり着きます。」
「それ見ろ。
心臓に、巣くうんじゃねーか。
何だ、みんなして俺を馬鹿にしやがって。」
僕は再びなみなみと、
コップにナポレオンを注いだ。
ともさんは再び僕の方をちらっと見ると話を続けた。
「この後実際にはフィラリアは、
心臓の右側、右心房と右心室と言いますが、
ここから心臓と肺をつなぐ血管、肺動脈と言いますがここに寄生、
まあ巣くうことになります。
肺動脈は次第に細くなってやがて毛細血管となって酸素交換を行い、
今度は次第に太い血管となって、肺静脈と言いますが、
心臓の左側、左心房と左心室と言いますが、
ここに繋がりやがて、
大動脈として全身へと血液を送り出すわけです。
フィラリアは、ソーメンほどの太さと長さがありますから、
当然肺を通ることが出来ません。
従って通常心臓から肺にたどり着いたフィラリアは、
もうそこから先へは進めず、
長ければ7年近い生涯を、
今言った右心房右心室から、
多くは肺動脈の中で過ごすのです。」
「それ見ろ。
馬鹿が。
俺の言ったとーりなんだよ。
どいつも、こいつも、分かっちゃいねーのさ。」
古山氏の心は、
次第に遠い世界に向かうようだった。
「しかし、チャーリーの心臓には、
生まれつき少し問題があったようです。」
「馬鹿ヤロー。
チャーリーは血統書付きの柴犬だぞ、
田島部長が俺を信頼してくれて、
三頭生まれた内の一頭をくれたんだ。
血統書付きのすごく高い犬なんだ。
生まれつきの問題なんてありはしない犬なんだ。
部長こけちゃって、
それで福知山に飛ばされるとき、
俺に頭下げて謝ったよ。
部長さえこけなけりゃ、
今頃俺だって・・・・・・・・・・。」
ともさんは軽く咳払いすると、
再び話し始めた。
「チャーリーの心臓の左側と右側を分けている壁に、
生まれつき小さな穴があいていて、
圧力の高い左側から低い右側へ、
ほんの少しづつ血液が漏れていたことと思います。
勿論、穴は小さなものだったはずで、
成長にもその後の生活にも一見問題はなかったのです。
ここで右心系へのフィラリアの寄生さえなければ、
やはり何事も起こらなかったと思います。
チャーリー、右の後ろ足びっこを引いていたでしょう。
実は、
あの時点で右足はもうだめだったんですよ。
感覚がすっかり無くなっていたし、
爪を根本から切っても全く出血しませんでした。
色々検査して、
フィラリアの奇異性栓塞と結論付け、
奥様の同意を得た上で試験切開を行いました。
予想道理、
太股の筋肉にも出血はなく、
組織の退色も始まっていましたので、
断脚に踏み切ったわけです。
太股の付け根あたりの動脈から何匹も、
フィラリアが見つかりました。
心臓の中隔にあいた小さな穴を通り抜けたフィラリアが、
動脈を流れてついには、
太股の血管に詰まって足を腐らせたわけです。
フィラリア症でチャーリーが足をきらなければならなかった訳が、
これでお分かりいただけましたか。」
「ともさん。
古山さん寝ちゃいましたよ。」
僕はカウンターに突っ伏した古山氏の手から、
コップをそっと取るとともさんに言った。
「分かってるよ。」
ともさんは、
深く静かな声で言った。
ともさんは、
何だか少し悲しそうな顔をしていた。
「パイよ。
悪い奴だね、
こんな時に酒を出すなんて。
しかも、俺のとっておきのナポレオンを。」
ともさんは軽くため息を付くと、
続けた。
「奥さんに電話してあげて。
優しくだよ。
パイよ。
お前さんは確かに機転が利く。
あの状況ではいい手だったとも思う。
けれども、
人にはもう少し優しくな。
止めなかった俺も、
いかんかったと思うが。」
痛いお言葉だった。
ともさんを一睨みして、
僕は少し、
反省した。

 しばらくすると、
古山氏は奥さんと高校生くらいの息子さんに、
肩を抱かれるようにして帰っていった。
涙ぐみながら謝る奥さんと、
ぶっちょうずらの息子さんを見ていると、
僕までなんだか切なくなってしまった。
田島部長の失脚でつぶれた昇進の目やら、
日頃我慢していたもやもやが、
ああいう形の鬱憤で出たのだろう。
ともさんはそこら辺のことがよく分かっていて、
じっくりと応対していたのだろう。

 だがしかし、
田島部長にもらったそんなに大事な犬なら、
どうしてフィラリアの予防をしていなっかったんだ。
フィラリアにさえ感染しなければ、
奇異性栓塞を起こして、
断脚なんてことにならずにすんだんだ。

「ともさん。
チャーリーあれじゃ済みませんよね。」
玄関の鍵を閉めながら、
僕は聞いた。
「済まんな。」
ぽつりと、
ともさんは言った。
「フィラリアが居なくなったわけじゃないし、
心臓の中隔の穴もそのままだからな。」
「これからどうなります。」
何気なく聞くと、
ともさんは腕組みをして難しい顔をした。
「奥さんには予後のこと、
なるべく詳しく説明はしておいたがな。
正直なところ、
予後不良だろうな。」

「古山さん、
また来ますかね。」
ともさんは、
ぎょっとしたような顔をしていった。
「今度は、素面で来てほしいね。
まったく。」