「とも動物病院の日常  まりちゃんの残り香」



 「今度スカンクが来るぞ。」
ふと読んでいた新聞から目を上げると、
ともさんはそう言った。
「えっ、すかんくですか。」
僕は拭き掃除の手を休めると、
ともさんに警戒の目を向けた。
何だかいやな予感がしたのだ。
「スカンクって、あのスカンクですか。」
「そう、臭い奴。」
ともさんは、再び新聞に目を落とした。
その日は特に暇な日で、
僕は朝から病院の拭き掃除に余念がなかった。
ともさんは二日酔いがたたって、
何かをする気力が湧かないとかで、
鼻毛を抜きながら新聞を読んでいた。
外は木枯らしのふく寒い日で、
冬ぐもりの空の下、
丘陵の林まで不機嫌そうな灰色で、
冬眠している動物が羨ましいくらいだった。
「でっ、何なんですか。
そのスカンク。」
こんな日に何を考えているのだか、
病院のステレオにはバーバーのアルバムがリピートでかけてあって、
ちょうど「弦楽のためのアダージョ」が、
希望を萎えさせ絶望を勢いづかせるような音で、
人の神経を逆撫でし始めたところだった。
「まりちゃんだよ。」
ともさんはつまらなそうに答えた。
「でそのまりちゃんが、
どうしたんですか。」
僕は、
穏やかな気持ちで聞いた。
「まりちゃんは、
可愛いんだがとても臭いそうなんだ。」
ともさんは、
今度は新聞から目を上げなっかった。
「臭腺取っていないんですか。」
僕は再び拭き掃除を始めながら聞いてみた。
「だからさ、それを取るのさ。
まあ、犬の肛門嚢を取るのと同じだって言うからな。」
「知り合いですか。」
「いや、昨日電話があった。
うちで五軒目だそうだ。
まりちゃんは、
おまけに気が短いそうなんだ。」
「よそじゃ断られた、
そう言うわけですか。」
ともさんは新聞を畳むと真剣な目で僕を見た。
「パイよ。
ギャラが良いんだ。
こちらが何も言う前に、
金額の提示があった。」
僕はいつになく真剣な目をしたともさんから、
ふっと視線を逸らすと言った。
「でっ。いくらなんです。
先方の提示は。」

 それはいくら何でもあんまりという格好だった。
外科帽にマスク、スキーのゴーグルをつけて、
更にゴム引きのエプロンと手術用の手袋。
まったくもって獣医と言うよりは安手の前衛劇に登場する、
マッドサイエンティストの様だった。
「準備は良いか。
麻酔は筋注でかまわんから、
一撃で速やかに離脱しろ。」
ともさんは、明らかに面白がっていた。
病院の裏手にある犬舎脇の運動場の真ん中には、
洗濯用のネットに入って、
段ボール箱に収まったまりちゃんが居た。
「パイよ、
静かにガムテープをはがして、
そっとふたを開けた後、
まりちゃんに考える隙を与えるな。」
「はい、隊長。」
僕は、やけくそになって答えた。
冬枯れのあの日、
ともさんがスカンクのまりちゃんの一見を切り出したときのいやな予感は、
ズバリ的中した。
文献を読み、
手はずを整え、
準備万端整った、
この間とはうって変わってうららかな陽気の午後。
昨夜からの絶食でことのほか機嫌の悪いまりちゃんが、
洗濯ネットに入れられ、
段ボールの箱に詰め込まれて到着した。
麻酔は注射薬で導入後、
ガスで維持と言うことになった。
戦線を真っ先切って突貫するのは、
いつだって下っ端の兵士と相場は決まっているが、
とも動物病院に下っ端は一人しか居ないのであった。
「締めてかかれ。
フォースと共にあらんことを。」
そう言うとともさんは音も立てずに後退すると犬舎に入り、
ドアのガラス越しに親指を立てた。
僕はマスク越しに、
「人でなし。
注射器の代わりにビームサーベルをくれ。」とつぶやくと、
恐る恐る段ボール箱に近づいた。
愛媛みかんの段ボール箱に、
なぜか真っ赤なガムテープ。
慎重にガムテープを剥がし、
そろそろとふたを開ける。
聞こえるのは自分の息使いと、
もしかしたら心臓の動悸だけ。
箱の底には、
思いの外小さな縞模様の毛の固まりがうずくまっていた。
大腿と思われるあたりに針先を近づけ、
瞬間、馴染みの手応えと同時に、
ネットの中でまりちゃんが逆立ちをした。
そのときの一瞬、
僕は目をつぶっていたんだと思う。
「ばっ。」という音がして、
エプロンの表面に緑黄色の液体がかかるまで、
一秒もなかったような気がする。
「あれ、
何だろ、
これ。」と、
頭の中で考えるか考えないかの間の後、
記憶に空白が出来た。
次に覚えているのは、
なぜか運動場の前に緩やかな斜面となって続く雑木林の中で、
倒木にけつまずいてぜいぜいと喘いでいたことなのだった。
一部始終を安全な犬舎の中から見ていたともさんが、
後からそのときの情景を、
豊かな表現力で説明してくれた。
勿論痙攣的な笑いで、
呼吸困難を起こしながら。
 そのとき僕はいきなり立ち上がると、
なにやら大声で罰当たりな悪態を付きながら、
エプロンを引きちぎるようにかなぐり捨てたのだそうな。
そうして手袋、外科帽、マスクをむしり取りながら運動場のドアを開け、
闇雲に走り出した。
走りながら上着とズボンを脱ぎ、
何かにつまずいて倒れたときには、
さすがのともさんも息をのんだという。
その臭いは、
言葉という、
スカンクの臭気を説明するには、
あまりに上品過ぎる表現手段では、
その実像の十分の一、
いや百分の一にも迫ることは出来はしない。
まさに、筆舌に尽くしがたい臭気だった。
体に直接付いたわけではないのに、
石鹸一個まるまる使っても臭いが落ちなかった。
そして二週間以上もの長きにわたり、
あえて表現すればニンニクの腐ったような臭いにも似た臭気が、
全身に染みついたままだったのだ。
その臭いの成分は皮革の油分に溶けやすいのか、
財布、バンド、革靴などに最後まで残った。
ともさんは一時的に廃人同様になった僕を打ち捨てて、
手早くまりちゃんの臭線を摘出したが、
病院の中にも勿論臭気は染みついた。
その後一ヶ月以上、
戸棚を開けたり、
冷蔵庫を開けたりすると、
腐ったニンニクのような臭いがするのだった。
あまりに強烈な臭いのせいか、
診療に訪れた飼い主さんに訳を聞かれると、
ともさんはその度に僕が受けた災難を、
ことのほか面白おかしく話して聞かせ、
悦にいるのであった。
クールなパイ先生はその後しばらく、
剽軽な道化者として、
皆さんに笑っていただくことになる。

 この一騒動、
結果としてともさんには高く付いた。
臭気は風に乗ってあたりに漂い、
交番からお巡りさんがやってくるは、
野次馬は集まるはで、
ともさんが手術を終えるまで、
強烈な臭気を放ちながら、
血走った目で頭を下げ続ける僕は、
そのとき、
忠犬ハチ公のごとくけなげな企業戦士のようであった。
翌日、
僕は特別ボーナスをもらい、
ともさんは山ほど菓子折を抱えて、
ご近所におわびに歩いたのだった。
柄にもなく儲け話に乗って、
代診につらい思いをさせて、
ともさんには罰が当たったんだと思う。

「だけどパイよ。
あれほど笑ったのは何年ぶりだったろう。
愉快愉快。」