「先生、
うちのジョディちゃんの前足が大変なんです。」
ある北風の強い冬の夜、
病院をもう閉めようかと言っていた矢先のことだった。
四十がらみの夫婦者らしき男女が、
かなりあわてた様子で病院に飛び込んできた。
後から小学生だろうか。
十歳くらいの女の子も心配そうに入ってきた。
「こちらは初めての方ですね。
カルテを作りながらお話を聞きましょう。」
ともさんは新しいカルテの綴りを取り出すと、
明るく切り出した。
こんな時、
どんなに飼い主が焦っていようと、
ともさんは決してあわてない。
少し長めの髪に神経質そうな目をした長身の男性が、
胸に抱いていたシーズーの右前肢を前にして言った。
「きょう会社から帰ったら、
ジョディの右足がこんなに腫れて、
ひどく痛がっていたんです。」
なるほど、
見るとシーズーの右前肢の太さが、
左と比べると倍ほども違う。
「昨日や今朝は異常は無かったのですか。」
ともさんはじっと患部を観察しながら言った。
「昨日は気づきませんでした。
今朝は少し痛そうにしているなとは思いましたが、
こんな風になっているとは全く思いませんでした。
うちの奴は家にいたので分かったはずなんですが、
ぼんやりしていて。」
長身の男性つまりご主人は、
傍らの奥さんを非難がましい目で見ながら言った。
奥さんはおとなしそうな人で、
消え入りそうな声で「スミマセン。」と言った。
小学生の女の子は、
きつい目で父親を見つめている。
「そうですか、
まあそれはそれで良いでしょう。
ちょっと触ってみましょう。」
ともさんはそう言うとシーズーの右前肢にそっと触れた。
そして先端から少しずつ上の方を撫でるようにしながら探っていった。
腫れ上がった手掌部に触れても特別な反応はなかったが、
肘のすこし下に触るとジョディは痛そうな声を上げて啼いた。
「ああ、
ジョディ痛いのかい。」
ご主人はうろたえて犬を抱きしめた。
「加納先生、
ジョディを保定して。
さあちょっとジョディをお借りしますよ。」
ともさんは初めての飼い主さんの前では、
僕のことをパイとは呼ばない。
「はい。」
僕はジョディの首を左の二の腕で、
ちょうど羽交い締めのようにした。
そうして首が締まらない程度の力で押さえると、
今度は右の上腕を固定してともさんの方に突きだした。
「上出来。」
これはともさんの誉め言葉。
「優しくね。」
これは飼い主さんへの配慮。
「うん、
これは縛創ですね。」
ともさんは頷きながら言った。
「ばくそう?」
ご主人がひどく不安そうに聞き返した。
ともさんは、
外科用の先の尖ったはさみと止血鉗子を取り出すと僕に言った。
「しっかり保定しててね。」
そして肘のすぐ下の何かを鉗子でつまむと、
素早くはさみを入れた。
ジュディは一声啼いただけで、
格別の抵抗もせずぱたぱたと尻尾を振った。
鉗子の先には切れて一本のひも状になった輪ゴムがつままれていた。
「輪ゴムですか。」
ご主人は怪訝そうな声で言った。
「そうです。
輪ゴムです。
どういう訳か肘のすこし下に輪ゴムが巻き付けられていて、
皮膚を破るほどに食い込んでしまったんですね。
こういう傷を縛創と言うのですが・・・・・・・。」
ともさんがそこまで説明しかけると、
ご主人が話を遮るように言った。
「どうしてそのようなことが起きるんです。」
「まあ、
多いのは子供のいたずらとか。」
ご主人は素早く娘さんの方を振り返ると声をあらげて言った。
「あすか。
お前がやったのか。」
今まで心配そうに犬を見ていた娘さんは、
急な父親の詰問に一瞬驚いたようだが、
すぐにきっぱりと答えた。
「私は知らない。」
「お前以外に誰が居る。」
トーンのあがる父親を制してともさんは言った。
「まあ待ってください。
お嬢ちゃんは左利き。」
ともさんは娘さんに聞いた。
「いいえ、
右利きです。」
娘さんは、
しっかりとともさんの方を見て、
はっきりした声で答えた。
「そうですか。
お父さん。
娘さんが犯人と決めつけるのは無理があるようですよ。
お父さんは右利きですか。
そうしたら、
ジョディをだっこしてもし輪ゴムをはめるなら、
右と左どちらの足がやり易いかやってみてください。」
「左ですね。」
「と言うことは、
お嬢さんがもし犯人だとすれば、
お嬢さんは右利きなのですから、
輪ゴムは右の足にはまっていては不自然でしょう。」
父親は自分の剰りに短兵急な態度を恥じたのか、
心持ち目を伏せた。
しかし父親は、
その場では娘さんに謝ろうとはしなかった。
あの様子では家に帰ってからも、
自分の態度に対する言及はなかっただろう。
「さあ、
加納先生ジョディに抗生剤と消炎剤の注射をして。」
ともさんは僕に治療の指示をすると、
不安げな三人の方を向いてにこやかに言った。
痛みが取れて化膿さえしなければ大丈夫でしょう。
また明日来てくださいね。」
「ともさん、
さっきの話本当ですか。
犯人は左利きだって言うの。」
ジョディ一家が帰ってしばらくして、
僕はともさんに聞いてみた。
「さあ、
どうだろうね。
あの娘さんが左利きだって言ったら、
お父さんには正面から輪ゴムをはめてもらって、
犯人は右利きってことにするつもりだったけどね。
あの場合状況によって、
本当は犯人が右利きであっても、
左利きであってもおかしくないから、
父親の答えによって如何様にでも娘さんが犯人ではないように、
言いくるめるつもりだったのさ。
誰がやったにせよ罪のないいたずらだよ。
あんな腫れ明日になれば引いてしまうし、
大事にいたらなっかたのだから犯人探しなんて無駄なことさ。
見てれば分かったろ。
少なくとも、
娘さんが犯人ではないことは確かだと思うよ。」
時として、
連れてこられる動物よりも、
連れてくる人間の方が、
よほど病気っぽいことがある。
加えて動物と飼い主さんの関係も、
ややこしいことが少なくない。
人間が動物を手なずけているのやら、
動物が人間を手なずけているのやら良く分からない。
家族よりも何よりもひたすら動物が大事。
などというのは序の口で、
動物と自分を同一視しているのではないかと思われる人も、
少数ながら存在する。
ジョディの場合は後日、
娘さんの友達のいたずらと分かった。
その友達もことの次第を知って泣き出してしまったと言うから、
やはり悪気があってのことではないだろう。
強圧的な父親とおとなしい母親、
そして父親に反発を感じているらしい娘。
日本の何処にでもありそうな家族だが、
動物を拡大鏡にして時として、
飼い主さんの家族関係がかいま見えてしまうことがある。
もちろんジョディの飼い主一家の場合突然の愛犬の苦しみに、
皆気が動転していて互いに配慮をし会う余裕がなかっただけで、
普段は明るくて仲の良い家族であるのかもしれない。
しかし、
獣医師は動物の診察中に、
飼い主さんに対して無意識でしている何気ない観察で、
心ならず隠された人間関係を透かし見てしまうことも多い。
以前何度かビーグル犬を連れてきていた夫婦が、
犬の健康管理について質問しているときに、
ちょっとした諍いをしたことがあった。
抑制された短かいやりとりだったが、
言葉の交わされ方がひんやりとした諍いだった。
決して他愛のないと言う感じではなく、
どうしてそのときその言葉を選んだか、
後で笑って説明できないような感じ。
けれども決して直接的な非難や罵りにはなっていない、
そんな感じのやりとりだった。
上手く説明できないのだが、
そのときのやりとりを、
文字で書いてみたら、
いっそ事務的とでも言えそうな会話で、
何処に問題があるのか良く分からないだろう。
だがそこには明らかに、
お互いの心に対する無関心とでも言えそうな、
苦々しい気温の低さがあったのだ。
そんなこんなで、
少し驚いたのでよく覚えているのだが、
考えてみるとこの夫婦は病院へはいつも一緒の来るのに、
犬についてこちらが質問しても、
それぞれの知っていることしか答えなかった。
そういったとき、
たいていは少し相談してお互いが知っていることをまとめて総合した上で、
妻か夫のどちらか一方が答えるのが普通なのだが、
しかし、
この夫婦の場合はいつもお互いの顔を見ることも無しに、
こちらの質問にバラバラに答えるか、
相手の答えに異議を唱えるだけだったような気がした。
そしてある時、
夫の方が一人で犬を連れてやってきた。
「今日は奥様はお留守番ですか。」
いつも病院へは一緒にやってくる夫婦なので、
挨拶代わりに何気なく問いかけてみた。
「別居中なんですよ。」
しまったと思ったが遅かった。
人間のカウンセリングは専門外だし、
人のうちの事情に興味もないが、
犬の病気にかこつけた夫婦関係の愚痴を聞かされる羽目に陥った。
犬の治療をしながら、
「ソーデスネー。」と何度相槌を打ったことか。
診療後妙にさっぱりした顔をして帰る飼い主さんの後ろ姿を目で追いながら、
げっそりしたことを覚えている。
「民事不介入。これは鉄則だよ。」
ともさんは言った。
「飼い主さんとはある程度距離を置かないと仕事にならない。
俺達は心理学者でもカウンセラーでもないからね。」
「そーですか。」
「なんだパイ。
そのひとを小馬鹿にしたような”そーですか”は。」
「えっ。そんなこと無いですよ。」と、
僕は答えたが、
大いにそんなことはあったのだ。
ともさんはいつだって、
動物や飼い主さんの窮状に深く首を突っ込みすぎて、
しないでもいい苦労を背負い込んだり、
喧嘩になったり、
傷ついたりしているのだった。
ジョディの時だって、
後日ともさんが往診に出て留守だった午後、
母親と娘さんが果物を持ってお礼を言いに来たのだ。
治療に対するお礼ではなかった。
どうもあの後電話や、
一度など駅前の焼鳥屋で、
ともさんは父親と話をしたらしい。
何を話したのかは分からないが、
獣医師の職域外についてであることは確かだったろう。
その上焼鳥屋の勘定は、
ともさんの性格からすればおごりのはずだから、
ジュディについての収支は全くの赤字だったろうと思う。
もっともその後、
娘さんのあすかちゃんがちょくちょく病院に遊びに来るようになって、
診察室の整理や掃除をしてくれたり、
友達の家の犬や猫を連れてきてくれたりと、
まあ、
ともさんのお節介も全くの持ち出し、
というわけではなかったのは、
とも動物病院の経営にとっては、
ひとまず幸いであった。