「とも動物病院の日常  とも動物病院」


 とも動物病院は、
東京郊外の武蔵山市にあった。
武蔵山市はなだらかな丘陵の続く典型的なベッドタウンだった。
緑の芝生が誇らしげな建て売り住宅には、
サラリーマンのお父さん達の夢と悲哀が詰まっているのだろう。
休日の午後には何処からともなくピアノの練習曲が聞こえてくるし、
駐車場には磨き上げたマイカーが並んでいる。
そして、
多くの家の庭には、
やはり小綺麗な犬小屋が設えてあるのだった。
もちろん、
肩で風を切って歩く目つきの悪い猫もよく見かけたし、
駅前のペット屋さんでは、
ワシントン条約違反の小動物の二種類や三種類は容易に手に入った。
そこは、
要するに開業を目指す獣医師にとっては、
夢にまで見るおいしい土地だったのだ。
 とも動物病院は、
ともさんこと田山智獣医師を院長にいただく、
新進の動物病院だった。
パイこと僕、
加納円(かのうまどか)がたった一人のスタッフ、
いわゆる代診だった。
ともさんは僕とは研究室が違ったものの同じ大学の先輩だった。
そしてともさんはこの時期、
開業後初めての代診として、
他の病院でやや煮詰まった代診生活をしていた僕を、
スカウトしたという訳だった。
 代診。
普通の世界に暮らす人々にとっては聞き慣れないであろうこの言葉は、
広辞林によれば、
「医師の家に常に居て、
医師に代わって患者の診察をする者。」とある。
 これを獣医流に言い換えると、
「修行の名の元きわめて安い給料で、
診療から雑用一般、
時には院長個人または家族の私用に至るまで、
一年三百六十五日身を粉にして働く者。」となる。
開業を目指す新卒の獣医師が、
学校で学べなかった臨床の技術的側面を学ぶのであるが、
有り体に言えばそれは丁稚奉公と同義だった。
僕の場合、
学校を出て最初に勤めた病院は、
代診先をどう選ぶべきか相談に行った教授に勧められて、
それこそ業界の西も東も分からぬままに決めたところだった。
「忙しいが症例が多いのでとても勉強になるぞ。」
そう言われてあまり考えずに選んだ職場だったが、
実は教授と院長が出来ていて、
売られたも同然だったことを後で知った。
事情通には有名な病院で、
確かに症例が多くかなり勉強にはなった。
当時としてはそこそこのサラリーも出たのだが、
労働基準法の番外地であるということでは、
よその病院と変わるところはなかった。
そこは二十代半ばの、
時にはまだ青春したい盛りの坊ややお嬢ちゃんにとっては、
修道院もかくやという青春の墓場であったのだ。
仕事初めの初日から三日間、
下調べの間もなく難しい手術が続いた。
新人は訳の分からぬまま下働きとして追い使われて、
ベッドに潜り込むのが朝の二時三時という日が続いた。
あまりに忙しくてろくに休む暇もないと、
人間余り物を考えなくなる。
そうした生活が一年も続くと、
「年末は十二月三十一日まで、
年始は一月一日からお仕事さ。」なんて、
へらへらしながら友達に言って呆れられていた。
しかし本当に勉強にはなって、
かなり早い時期からソロで手術をやらせてもらえたし、
頭が消化不良を起こすほどの症例を目にすることもできた。
今思えば駆け出しの獣医としては望むべくもない教えを受け、
教育病院並の臨床経験も積ませてもらったのだった。
そうした獣医師としての知識と経験と引き替えて、
私生活は干ばつの続いた大地のように荒廃した。
「二兎を追う者は一兎をも得ず。」などとしたり顔の向きもあろうが、
失われた青春は二度と戻らない。
 そうした代診生活が三年あまりも続き、
臨床という名のはずみ車の運動エネルギーが、
ゆるゆると尽きかけていたとき、
「うちの病院に来ないか。」と、
ともさんから誘いを受けたのだった。
渡りに船だった。
山手線のような日常から抜け出せるのならば、
乗り換えは中央線でも東海道線でも、
常磐線だって良かったのだ。
「行きます。
尽くします。
働きます。」
僕はともさんの気がこの瞬間に変わりはしないかと、
にじり寄るようにして答えた。
ともさんは、
「助かるよ。」と言って笑っていたが、
どうも内心を見透かされていたようにも思う。
ともさん自身も開業前は代診をしていたわけで、
元々が人情に厚い人だったから、
僕自身以上にそのときの僕の状態が分かっていたのかもしれない。
実際の所その当時のとも動物病院は、
代診を使うどころか院長自身の生活さえやっとという有様だったのだ。
内情を知ったとき、
僕は何も言えなかった。
いつもにこにこしながら仕事をしているともさんは、
あのとき何を考えていたのだろう。
僕自身独立を果たしてからもう随分になるが、
いまだにあの当時のことを聞けずにいる。
生意気で頭でっかちだった僕を、
ともさんはよくぞ使ってくれたものだと思う。

 とも動物病院での最初の日、
僕は夕焼けのきれいな武蔵山の丘陵をぼんやり眺めながら、
病院の前のベンチに腰を下ろしていた。
働くことと学ぶことが、
脅迫者のように背後からのし掛かり、
顔上げようにも地面しか見えなかった日々が終わっていた。
背中の重石が消えて、
恐る恐る顔上げると、
そこには真夏の空にポッカリ浮かぶ眩しい雲に似た、
明日が見えた。

 体の中で再び回り始めたはずみ車の勢いで、
目の前が急に開けていくような気がした、
あのころのことは忘れない。
そしてこの後、
僕は、
ともさんの人柄や行動が引き起こす、
人間味あふれた物語を目撃し、
更には、
その物語に僕自身が参加していくことになる。