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book journal 2003
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3月、追加。
あ、忘れてた、これも読んだんだった^^;。

★16 "E" is for Evidence by Sue Grafton (Bantam Books, New York) 1989

図書館で借りれるうちに借りておこう、と久々に、キンジー・ミルホーン・シリーズ。割りと読みやすい英語なので、気が向いたら順番に読んでいる(でも今回は間違えて"D"を抜かしてしまった)。キンジーは、地に足が着いていて、読んでいて心地よい。でも時々それがちょっと物足らなくもある。ホーギー・シリーズみたいなおしゃれさはちょっと欠けるんだよね。

"E"はなかなかおもしろかった。冒頭で、キンジーの銀行の口座に謎の小切手振込みがあるシーンが印象的。アメリカで、小切手をよく使ったのを思い出した。バイトの給料も、2週間に一度、"pay check"という小切手でもらってたなぁ。

日本語訳は『証拠のE』 嵯峨静江・訳 (ハヤカワ・ミステリ文庫) 1989年。


3月
そして3月は去る。

3月は控えめに読書。引越しだし。しかし、わたしは5年間で3つのアパートと2つの寮に住み、1人の同居人(←友人の2間のアパートに半年居候した)と3人のルームメートと一緒に暮らしたことになる。合間には実家に居候したり、まったく、流浪だわ。

荷造りの途中で、リサイクルとかごみの分別とかもったいないとか整頓とかいう概念が薄れていき、うんざりする。でも、持ち物のリストラという意味では何年かに一度の引越しは必要なのかもしれない。いや、できればもうしたくないけど。でも、後3年くらいは、わたしは引っ越し続けるんだろうなぁ^^;。

★15『ギデオン:神の怒り』 ラッセル・アンドルース 渋谷久子・訳 (講談社文庫) 2001

で、引越しにつき、お気に入りと未読本を除いた本は処分しようと、古本屋に持っていく。売れそうにない文庫本は、アジアからの留学生のための奨学金基金となる古本市に寄付しに行く。持って行ったついでにちらっと棚を眺めていたら、前から読みたいなあ、と思った本があったので買ってしまった^^;。また荷物を増やしてどうするんだ。でも、定価1300円の文庫が100円だったんだもん・・・。

ラッセル・アンドルースは、ホーギー・シリーズのデイヴィッド・ハンドラーと彼の友人の作家ピーター・ゲザーズがコンビを組んでの筆名。700ページを超える、ポリティカル・スリラー(帯の売り文句によると)。読み始めた時は、「ああ、ここはデイヴィッド・ハンドラーが書いたのかな」と考えたりしていたけれど、読み進めるにつれてまとまりが出てきた。ホーギー・シリーズのようなお洒落さは控えめだけれど、なかなか面白かった。敵役の最後がちょっとあっけないような気もするけれど。マス・メディアの書き方が好きだ。コンピュータの使い方も割りと上手いしね。Gideon by Russell Andrews, 1999.


2月後半
2月は逃げる。

図書館司書の資格を取るために、通信教育で勉強をしていて、『児童サービス論』の本を拾い読みしていたら、「子どもの読書能力の発達」、という項があった。小学校4-5年の頃は、「無差別多読期」で、この時期をすぎると、自分の気分などに合わせて読む本を選ぶようになる・・・とあった。わたしは子どもの頃から本ばっかり読んでいたのだけれど、思い出してみると、小学校の中学年くらいで、「今年は学級文庫にある本を全部読もう」と思い立ち、学校の休み時間に黙々と読破した記憶がある(そして家に帰ったら、公共図書館から借りてきた他の本を読んでいた)。はは、あれがわたしの「無差別多読期」だったわけだ^^;。きっと極端な例だとは思うけれど。

で、2月もわりと多読期。

★12『ローワンとゼバックの黒い影』 エミリー・ロッダ さくまゆみこ・訳 佐竹美保・絵 (あすなろ書房) 2002

ローワン・シリーズの最新作、4巻目。エミリー・ロッダさんはオーストラリアの作家。リンの谷に住むローワンは、引っ込み思案でとろくて、村では半端者と思われている。心やさしい彼は、そんな自分にいつもコンプレックスを持っているのだけれど・・・。しかし、なぜかいつも災難に巻き込まれ、やむにやまれず冒険をするはめになる。村を救った英雄でもあるのだけれど、それでかえって恐れられ、遠巻きに見られてしまう。シリーズ4冊目になっても、彼の自己評価はなかなか高くならないのだ^^;。少しずつ成長はするけれど。

4冊目はまあまあと言ったところ。ローワン君も、少ししっかりしてきたし、ちょっとずつ幸せになりそう・・・。このファンタジー・シリーズ、作品世界が結構しっかりしてるのが魅力。Rowan and The Zebak by Emily Rodda, 1999.

★13『あらしのよるに』シリーズ 6冊 木村裕一 あべ弘士・絵 (講談社) 1994-2002

『あらしのよるに』『あるはれたひに』『くものきれまに』『きりのなかで』『どしゃぶりのひに』『ふぶきのあした』の6冊シリーズ。ある嵐の夜、オオカミとヤギが出会う。闇の中、お互い相手がオオカミでありヤギであることに気付かずに友達になるが・・・という一連の話題の絵本。ふふ、わりかしおもしろかった。絵のあべ弘士さんは、動物園の飼育係から絵本画家になった人。似たテーマで、くどうなおこさんの『ねこはしる』がある。雰囲気は違うけれど。『ねこはしる』は、こねこと魚のお話。

★14『西の善き魔女(4)星の詩の巻』 荻原規子 佐竹美穂・絵 (中央公論新社) 2002

荻原規子さんの『西の善き魔女』シリーズ、最終章+外伝2・3の最終巻。最終章と外伝2は前に出た文庫で読んだのだけれど、書き下ろしの外伝は初読。このシリーズは、ちょっとしたきゃぴきゃぴ感が魅力(^^)。きちんとキャラが立ってておもしろい、さすが荻原規子だわ。


4/28 復活・・・?
やれやれ。3月は、自主的研修に、2週間のバイトに、ゼミの卒業旅行(温泉^^)をこなし、ちょっと試験を受けて、卒業式に出て、飲んでしゃべって飲んで、引越しの荷物をまとめているうちに、去ってしまった。その合間に進路の決定も考えて、と。しかもパソコンのネットワークが息も絶え絶え状態になったため、こちらのページは手付かず。4月、実家に引っ越してきて、荷物も整理して、やっと新しいパソコンを購入して、こちらも復帰、かな?とりあえず2月分から。


2月前半
★11『本当の戦争の話をしよう』 ティム・オブライエン 村上春樹・訳 (文藝春秋) 1990

ああ、なんて多くを語る本だろう。ベトナム戦争短編集。ベトナム戦争に従軍したティム・オブライエンが語る、戦争。

「レイニー河で」("On The Rainy River")という1篇がひどく心に残った。大学を卒業し、大学院への進学も決まった夏休み、徴兵検査の知らせが来る。すでに大学院生の徴兵免除政策はない。カナダへ逃げるのか、徴兵を受けるのか。カナダに逃げる勇気もない・・・わたしも、もしこの状況に置かれたら、きっと主人公と同じように考えるだろう。ふぅ。

訳者の村上春樹が、丁寧な後書きを書いている。ちょっと長いけれど、引用。
オブライエンはもちろん戦争を憎んでいる。でもこれはいわゆる反戦小説ではない。あるいはまた戦争の悲惨さや愚劣さを訴えかける本でもない。この本における戦争とは、あるいはこれはいささか極端な言い方かもしれないけれど、ひとつの比喩的な装置である。それはきわめて効率的に、きわめて狡猾に、人を傷つけ狂わせる装置である。それがオブライエンにとってはたまたま戦争であったのだ。そういう文脈で言うなら、人は誰もが自分の中に自分なりの戦争を抱えている。
でも、わたしは、それが「たまたま」戦争であった、とは思わない。やはり戦争こそが、人を非人間化(dehumanize)する最大の装置なのではないか。アメリカでお世話になった人は、ベトナム戦争で徴兵され、それ以降、反戦運動を続けている。彼は、戦場でどんな経験をしたのだろう。

この本を読んだ一ヵ月後、対イラク攻撃が始まった。無力感にとらわれつつ、いたたまれなくなってデモにも行ってみる。それはわたしの自己満足でしかないのだろう。でも、とりあえずも声に出さなければ伝わらないのだから、何かしなくてはいたたまれない。わたしは、物質的に豊かな国で社会的多数派としてのんびり暮らしている。その国で、テレビに映る戦争を見て、心を痛めているだけでは、わたしは加害者の側に、侵略する側に立っているのだ、と思う。しかも日本はこの戦争に賛成しているのだから。わたしには、ティム・オブライエンのような「加害者側」も戦争によって蝕まれていく様が、とても痛々しく映り、理不尽さへの怒りへ共感も出来る。それでも、遠くの、被害者側の痛み、苦しみ、悲しみを想像することが、今は大切なのだと思う。

それにしても、歴史が不公正な側にうねりをたてて、目の前で転がって行くと言うのに、この時代に住んでいても、何も出来ない無力感。テレビは戦争を映しているけれど、結局は遠い国の戦争は虚像としてしか映らない。The Things They Carried by Tim O'Brien, 1990.

★10『食べられる女』 マーガレット・アトウッド 大浦暁生・訳 (新潮社) 1996

マーガレット・アトウッドが初めて出版した小説。1965年、24歳で書いた(ため息ついちゃうな、まったく)もので、4年後の69年にカナダで出版された。アトウッドによる序文(1979年にかかれたもの)がとてもよい。食べられる女(edible woman)のイメージは、菓子屋のショーウィンドウに並ぶマジパン(アーモンドと砂糖を一緒にローラーにかけてペースト状にしたもの。かなり甘い。)のブタや、砂糖作りの新郎新婦がのっているウェディング・ケーキから思いついたそうだ。日本語で「食べられる女」と言うと、受動態の「食べられる」みたいだけれど、本来は「食用の」の意味で可能を表す。この、砂糖細工やマジパンの人形のイメージが、とても鮮烈だ。本の表紙にも、これを使えばよかったかも。

主人公は、大学を卒業して、市場調査会社で働いて4ヶ月目の女性。アンケート調査員である主婦たちの世話をするセクションで働いていて、心理学者が作ったアンケート項目を分かりやすい言葉で書き直したり、色々な細かい仕事をしている。大学を出てこの仕事についた時は、比較的いい仕事だから幸運だ、と思ったけれど・・・恋人はいるけれど・・・と考え始める。先月読んだ『浮かびあがる』より甘いかもしれないけれど、読みやすいし、身につまされる。むむ。The Edible Woman by Margaret Atwood, 1969.

1月下旬
えーと。たらたらと耽読週間・・・。

★5『山賊のむすめローニャ』 アストリッド・リンドグレーン (岩波書店) 2001

『長靴下のピッピ』のリンドグレーンの作品。『ピッピ』と『はるかな国の兄弟』しか読んだことなかったんだよね。『ローニャ』、おもしろかった。山賊の頭が怒ってかんしゃくをおこす度に、おかみさん(ローニャのお母さん)がちゃんと「卵投げつけていいよ、ただし自分で片付けなさい」とか「怒って物を壊したりして、自分で片付けなさい」と釘を刺す所が好きだ^^。森の描写も魅力的。しかし、今回初めて知ったんだけど、リンドグレーンさんって女性だったのね・・・(こどもの頃は作家のことなんか気にしないからなぁ^^;)。Ronja Rövardotter (Ronia, the Robber's Daughter) by Astrid Lindgren, 1981.

★6『浮かびあがる』 マーガレット・アトウッド 大島かおり・訳 (新水社) 1993

アトウッドの長編。あああ、読んでいると辛くなる話だった。アトウッドの描写は本当に的確だな、と思う。 Surfacing by Margaret Atwood, 1972.

★7『旅に出ても古書店めぐり』 ローレンス・ゴールドストーン&ナンシー・ゴールドストーン 浅倉久志訳 (早川書房) 2001

去年の4月に読んだ、古書収集に血道をあげる夫婦のエッセイ『古書店めぐりは夫婦で』の続編。相変わらず飛ばしてるなあ、このご夫婦^^;。どんな本をどこでいくらで買ったか書いてあって、そこが面白い。中で出てきた、ジョン・ダニング『死の蔵書』が読みたくなっちゃった。作者が稀覯本専門店のオーナーで、主人公の警察官が本のコレクターのミステリだそうだ。Slightly Clipped: Footnotes In Booklore by Lawrence and Nancy Goldstone, 1999.

★8『自分を消した男』 デイヴィッド・ハンドラー 北沢あかね訳 (講談社) 1999

サンドイッチを作って、濃い紅茶を2杯入れて、のんびりホーギー・シリーズを読む。これってとても幸せ。

鮮烈なデビュー作で一躍有名になったけれど、後が続かず、ゴーストライターとして生計を立てる作家、スチュアート・ホーグのホーギー・シリーズ、6作目。

今回、改めて気づいたけれど、ホーギーは作家としてデビューしてからお金持ちになったわけじゃなくて、元々かなりお金持ちの家の出なのね。ゴーストライターで稼いでも、すぐ使っちゃうんだもんなぁ。フランスのプロヴァンスの田園にある古い屋敷(プールと、オリーブとブドウ畑付)を借りて、6ヶ月間「思い切り陰気に」過ごしたそうな。小説を書きつつ、プールで泳ぎ、メロン、胡椒とニンニクのきいたソーセージ、タプナード(ブラックオリーブとアンチョビのペースト)を食べ、コートデュローヌ(その地方のワインらしい)を飲んでたんだけど。こらこら、そりゃお金なくなるわ。まあ、おじいさんの形見が真珠の柄のカミソリとロレックスだもんね。贅沢が板についているんだな。しかし、白のリネンのスーツってどんなんだろう・・・^^;。でも、服や靴、食べ物やお酒の描写が詳しさは、このシリーズの魅力の一つでもある。The Man Who Cancelled Himself by David Handler, 1995.

★9『傷心』 デイヴィッド・ハンドラー 北沢あかね訳 (講談社) 2001

ホーギー・シリーズ7作目。現在出ているのはここまで。これでシリーズも終わりそうな気もする・・・ホーギーが「大人」になろうとしている。
「・・・僕の場合はすべてがうまくいくわけではないと受け入れてからのほうが、ずっと幸せに暮らせてるってことしか言ってやれない。おかげで貴重な幸せな時間がともかくも訪れたときには、人生に感謝できるんだ」(p.415.)
そう、そうなのよね、うん。わたしもそうありたい。

しかし、この本のフェミニズムの描写はコミカルなまでにデフォルメされてるな^^;。卒論でフェミニズムの表象をちょっとだけやったんだけど、いつかブックリストでも作りたいわ。むふふ。The Girl Who Ran Off With Daddy by David Handler, 1996.


1月中旬
★4『幻想の普通少女』全3巻 内田春菊 (双葉社) 1987-1992

うぁぁぁ、これはすごいマンガだわ。内田春菊、初めて読んだけれど、かっこよすぎる。これは、若い女の子の必読本じゃないだろうか。普通って一体何?と問い掛ける高校生の女の子のお話。ものすごくクール。大事なのは、自分をしっかり持つことなんだよね、と思わず背筋を伸ばしてしまった。

高校生の頃、「普通」ということが重要だった感覚を思い出した。わたしはちゃんと自分の意志を何事にも大切にしてきたかしらん。友達に相談された時に、「大事なのはあなたがどうしたいかだよ」とちゃんと言ってあげただろうか。と、しばし考える。しかし、高校生の時にこれを読んだら、どう思っただろう。ちゃんとわかっただろうか。

高校生の性教育(^^;)とか進路指導にはこういうマンガこそ必要だとわたしは思うのだけれど、高校の図書室とかにこっそりと・・・入れないだろうか、やっぱり。

★3『ムーン・パレス』 ポール・オースター 柴田元幸訳 (新潮社) 1991

オースターを読むのは初めて。ふむむ、なかなか面白かった。

舞台は1960年代後半のアメリカ、特にNYC。主人公は1967年にコロンビア大学に入学するのだ。むふふふ(←わかる人に分かる笑い^^;)。ストーリーは、最後ちょっと失速したかな、という気もするけれど、なかなか。偶発的な不幸の前に人は脆く、そこがジョン・アーヴィングの作品の雰囲気と少しだけ似ているような気がした。比べてしまうとやはりアーヴィングの方が密度が激しく濃いのだけれど、でもオースターも悪くない。

1960年代末、ベトナム戦争期の息苦しいアメリカ社会の空気が、洩れて伝わってくるようだ。こんな感じだったのだろうか。そして、ニューヨーク・シティの描写が本当に生き生きとしていて、彼は生粋のニューヨーカーなんだな、と思う。そう言えば、去年の9月、新聞にオースターさんの「アメリカはニューヨークから出て行け」という9・11への寄稿記事が載っていて、中々面白かったのを思い出した(そう言えばあの記事も柴田さんが訳していた。やっぱり翻訳家の訳と新聞社の訳はちょっと違うなあ、と思ったものだ)。

作中、キティ・ウーという中国系の女の子が出てくる。
キティには人をリラックスさせる才能があった。・・・会話と言うのはキャッチボールのようなものである。上手なパートナーは、こっちが何もしないでもすっぽりグラブに収まる、取り落としようのないボールを投げてくる。受ける側に回れば、どんなに下手糞な、とんでもない球が飛んできても、難なくキャッチしてしまう。キティはまさにそんなパートナーだった (p.111)。
ちくしょーなんて素敵なの(しくしく)。わたしはキャッチボールが苦手なので、変なところに投げるよりも、と思って黙ってしまうことがある。

キティのように、会話のキャッチボールが上手い男の子を知っている。彼は「おしゃべり」ではないのに、まるで息をするようにたやすく、おだやかに話し、相手をリラックスさせる。わたしは彼にばったり会うたびに、うらやましくて緑色になったりする。うーん、でも、のんきに緑色になってないでちょっとずつ、訓練をして、キャッチボールを上達させよう。

で、キティと主人公は恋をするのだけれど、どうしてこんなに素敵なキティがぼろぼろの主人公に恋をしたのかが、わたしにはわからない。主人公はキティに救済されたわけだが、そんな幸運はなかなか降ってこないんじゃないのかね。「救済」は、受け手に準備が出来ている時だけ、発動されるのではないかと。Moon Palace by Paul Auster, 1989.

1月上旬に読んだ本
さてと、やっとここも平常運転。ああ、本が読めるって幸せ(^^)(←いや、やらなきゃいけないこともあるんだけど・・・^^;)

★1『図書室の海』 恩田陸 (新潮社) 2002

短編集。『光の帝国』の時も思ったのだけれど、恩田陸の短編は、いまいち完結性に欠けるんだよなあ。この後まだまだ続きそうな感じの作品が多いなあ・・・と思いつつ後書きを読んだら、やはり長編の予告編とか番外編を収録したものだったよう。うーん、やはり短編は短編で、短いながらも一つの世界を形成しているのがわたしは好き。

★2『劫尽童女』 恩田陸 (光文社) 2002

同じテーマでの中編連作集。超能力を持ってしまった女の子の苦しみや悩みが描かれていて、ちょっとだけスティーヴン・キング風かな。割と面白かったのだけれど、もう一息と言ったところか。

1/21  "No Artie No Life"
または"No Music No Life" (c)Tower Records。ついでに2002年に聞いた音楽も総括。

今年もRandy Newman の"She's a Real Emotional Girl"が、ことあるごとに、ふっと頭の中をよぎった。これってわたしのテーマソングなんだろうか。やれやれ。

新しく聞き始めたミュージシャンでは、Dixie Chicksが一番だったかな。カントリーだけど泥くさすぎない。聞いていると気持ちよくて好き。Dixie ChicksのHome を買ってみたのは、Maia Sharpが曲を提供していたからなんだけれど。Maiaの新作も、とてもよかった。

それから、2002年はわたしにとってSuzanne Vega再来の年であった。家族が好きだったので、確か中学生くらいから、実家でアルバムを何枚か聞いていたし、4年程前の来日にも行ったのだけれど、アルバムをそろえるほどじゃなかった。でも、2001年9月に出た新譜Songs In Red And Gray を発売数ヵ月後に、何となく買ったら、すっかりはまりこんでしまった。出てるアルバムを全部自分で買いなおし、参加オムニバスアルバムなんかも少しずつ買っちゃった。やはり、ミュージシャンが新しいアルバムを出すことは重要だな、と思う。

そして、2002年はArt Garfunkelの新譜も出た。今年一番聞いたアルバムはやっぱりこれ。Artieの音楽は、もはや色んな理屈を超越して好きだなあ、と改めて実感。前ほど彼のアルバムばかり聞いているわけじゃないけれど、やはりわたしの音楽の軸はここにあるのだわ。実際、わたしが聞く音楽の幅は、Artieを中心にした円上にあって、それが年々少しずつ広がっているような。


1/14  ブック・リスト
さて、遅ればせながら2002年に出会った素敵な作品をリスト・アップ。

読んだ本は、マンガや再読もあわせて69冊(研究書とかは結局数に入れなかった)。前半はともかく、後半はほとんど読めなかったのが残念。でも、今年は色々面白い作家や本に出会えたので、質は高かった気がする。

まずは、文学(?)部門。何と言ってもジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』。これはまさに「衝撃」だった。きっとこの先、何度も読み返すだろう作品。この印象が強すぎて、次のアーヴィングはどれを読めばいいのかわからなかったりする^^;。そして、マーガレット・アトウッド。『侍女の物語』も『青ひげの卵』もとても好きだ。今年は彼女の作品を一つずつ、ゆっくり読もう。日本人作家では、村上春樹の『海辺のカフカ』。ストーリーも好きだけれど、ベストセラーになり、公式サイトで村上さんと読者の意見交換が読め、ゼミの飲み会でさえ話題になるという同時代性がうれしかった。わたしは大体、とてもマイペースな読書スタイルで、たいてい古めの本を好き勝手に読んでいるので。

ミステリ部門はデイヴィッド・ハンドラーのホーギー・シリーズ。おしゃれで楽しくて、一定の質を期待でき、安心して読めるシリーズ^^。こういうのは貴重だ。息をつくために読んだミステリがつまんないと、疲れが増すので。

ヤング・アダルト部門では、シャロン・クリーチの『めぐりめぐる月』と、荻原規子の『樹上のゆりかご』。今年は児童文学をもう少し読みたい。


1/13  2002年は
バタバタしているうちに、ちゃんと振り返るゆとりもなく過ぎ去ってしまった。
やっとこさ卒論をなんとか終わらせて、1年を振り返る心の余裕が出来てきたので、年が明けてから回顧。

全く、やれやれ、と言いたくなるほど色々あった年だった。これほど悩んでぐるぐる回り、混乱し、泣いたり笑ったりへこんだりした年はなかっただろう。自分で道を選んで、そこに向かって歩くというのは割と大変なことだ。

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年、講談社)という小説がある。その中で主人公の「僕」は、現実の世界にとどまるために、「音楽が鳴りつづける限り、踊りつづけるんだ」と言われる。踊ることに意味なんかなくても、馬鹿馬鹿しく思えても、きちんとステップを踏んで、みんなが感心するくらい上手に踊るんだ、と。

わたしもこの1年間、鳴り続く音楽に合わせて、強迫観念のようにステップを踏みつづけたような気がする。踊ること自体に、あまり意味はなかったかもしれないけれど、それでも足を止めてはいけなかった。所々、複雑なステップを踏み損ねたり、音楽から外れたのをごまかしたりしたけど、なんとか踊りきったと思う。結果は、まだ出ないけれど、後は祈るだけ。

2003年は、もう少し穏やかな1年にしたいな、と思う。自己憐憫するよりも、何が足らないのかをきちんと見極めて、一歩一歩前進しなくては。たまには「わたし、ちゃんとがんばってるもんね、えらいえらい」とぶつぶつ自己暗示をかけながら。

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