幻の章−16『君の手は…1』
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「「アレフくん!」」
ディアーナとシーラ二人が同時に名前を呼んだ。
「…どいて。邪魔よアレフくん」
「…えっ、シーラ?…だよな?」
激しく自分を睨みつけるシーラに冷汗を流すアレフ。
「シーラがこんなに怒るなんて…パティはいったい何をしたんだいディアーナ?」
「アレフくん、ふざけてる場合じゃないんです! パティちゃんが…」
ディアーナがパティに走り寄った。
息はある。だけど…
青ざめた表情でアレフを見上げるディアーナ。
「…パティを連れてここから離れてくれディアーナ」
「アレフくん、だけど…」
「なんだかシーラが興奮してるみたいでね。今はパティがいない方がいい。頼むよ医者の卵」
アレフは軽く後を向いてディアーナにウインクした。
頭をバットで殴られたのだ、動かさない方がいいに決まっていた。
しかし今のシーラの側はあまりにも危険だった。
「う、うん。アレフくん、シーラさんをお願い」
「わかってる」
「パティさん、行こう」
気を失っているパティの左腕を自分の肩に回し、
フラフラした足取りをしながらディアーナは山を降りて行った。
「さてシーラ、俺で良かったら何でも話を聞くよ?」
「どいて。私はパティちゃんに用があるの」
「バットを持って? シーラに金属バットは似合わないよ」
「アレフくんもその鍋似合ってないわ。熱いんでしょう?」
「そりゃ勿論。シーラがそのバットを手放してくれれば俺も鍋を離せるんだけどな」
アレフはニカッと笑う。本当は熱いどころではない。掌は完全に火傷をしていた。
「アレフくんが鍋を捨ててくれたら考えてみるわ」
(…嘘だ)
そんなことは解っていたが、自他共に認めるフェミニストのアレフには選択の余地がなかった。
「ああいいとも。俺はシーラを信じてるからね」
アレフは巨大鍋を放り投げた。
「…アレフくん。ありがとう」
神々しい程の笑顔だった。
女神がいるのならばきっとこんな顔をしているのだろうとアレフは本気で思った。
「でもコレはやっぱり離せないの。ごめんなさい」
そういってシーラはバットをアレフに振り下ろしたが、
振り下ろされたバットより早く、アレフはシーラを抱きしめていた。
「きゃあっ!」
アレフに抱きつかれてシーラは悲鳴を上げた。
「離してアレフくん、突然抱きつくなんて酷いわ!」
「ごめんよシーラ。でもこうしないと俺が殴られちゃうからな。
不可抗力ってことで。でもシーラの抱きごこちは最高だな」
「私はアレフくんに抱きつかれたくないわ」
「…俺にじゃなくてアイツ以外には。だろ?」
シーラの非難に溜息まじりに答えるアレフ。
「!! アレフくんいったい何を…」
「どうしてパティを殴ったのか理由は知らないけど、シーラとパティは親友だろ?
それに今のシーラを見たらアイツもガッかりすると思うぜ?」
「…そんなことないわ。私もうふられたもの」
「ええっ!? マジかよアイツ!! シーラを振るなんて信じられん。何かの間違いじゃないか?」
「私は側にいなくてもいいって。あの人にはパティちゃんがいるもの、当然だわ」
「そんなことで…だから…」
(だからパティを殺そうとしたのか?)
「『だから』なあにアレフくん?」
「いや…その」
「きっと当たっているわアレフくん。だから私パティちゃんを殴ったの。
だって先生が殺し合いをしなさいって言うんだもの。構わないんだわ。
それにパティちゃんがいなくなったらきっと私を見てくれる。
だって…あの人は私にも優しくしてくれたから」
そう言ったシーラは美しかった。いつもの何かに怯えたような、
少し自信の無い彼女ではなく、自信に満ちた、憑き物の取れたような綺麗な笑顔だった。
(そう…もう俺がシーラに声をかける必要の無い程の明るい笑顔だった。だけど…)
「…シーラ」
(この笑顔は違う! 間違っている!!
シーラの繊細な心は、この異常な状況に耐えられなかったんだ。
俺がもっと早くシーラを見つけていれば…)
「帰ろうぜシーラ。君の手に金属バットなんて似合わない。君の手はピアノを弾くためのものだろ?」
アレフは欠けた笑顔のシーラの為にもうしばらく道化を演じる事に決めた。
「…駄目よ。もう手後れだもの」
「大丈夫さ、パティは頑丈だからな。あんなのかすり傷にもなりゃあしないよ。
謝れば笑って許してくれるさ」
「ふふ、そうね、パティちゃんは頑丈だわ」
「だろ?」
シーラが小さく笑う。間違った笑いだったがアレフも笑顔を返した。
「ルーティちゃんの頭はスイカ割りみたいに綺麗に砕けたのにね」
「えっ!?」
瞬時に理解出来なかったシーラの言葉にシーラを抱く力を緩めてしまったアレフ。
ゴッ!!
頬に激しい痛み。
ゴキィッ!!!
よろけたアレフの後頭部に鈍い音と痛みが響いた。