[江戸前の海十六万坪(有明)を守る会]
情報、其之弐拾四 2000.11/23
[ 海のレジュアの男、石原慎太郎 
”海は誰のものなのか”著作[亡国の徒に問う]より抜粋


 東京都知事 石原慎太郎氏の著書より下記の文章を転載します。細かな注釈や批判はいたしませんが、
”海の男”イシハラの海の概念をお読み取り下さい。
特に遊漁船、漁業関係者、は必読。これがイシハラの事実。
自然保護に関しても、まったく触れられていない事にご注意を!

(海は漁民のものでも、行政のものでも、レジャーの男のものでもないと言いたいですね。)


 
亡国の徒に問う平成8年12月 文春刊  石原慎太郎著
 


海は誰のものなのか

 日本の国土の周りはすべて海だからといって、日本人が海洋民族であるという訳にはいかない。私はかねがね日本人は海洋民族などというより、むしろ山猿に似ていると思っている。周りがいくら海でも日本人のほとんどは海を知らないし、ことさらに海が好きでもありはしない<br>  別にそれを答めるつもりもないし、私のように趣味が高じて海なしではいられぬ人間から見れば、それはそれで仕方がないとも思う。なにしろ日本の周辺の海は世界でも屈指の難所ばかりで、私もあちこちの海を、趣味として、帆をかけただけの小さな船で走り回ってきたが、日本の海ほど厄介なものは滅多にありはしない。
 ということを日本人は先祖代々の経験によって今では本能的に知っているのかも知れない。だから夏場だけ暑さ凌ぎの海水浴に、東京近辺の人ならせいぜいが湘南か干菓あたりの海岸に出かけていって浅場でばちゃばちゃ泳ぎながら、波のやってくる沖を眺めて、「海は広いなあ」と感心して帰ってくるだけで十分ということになる。国家社会として海に関わる機能に関しては、船員とか漁師とかその道のプロたちにまかせておけばいいのであって、自分の人生の中にことさら海を持ち海にまみえる必要もありはしなかった。

しかし時代が変わってきて、日本人もライフスタイルを変えもっと余暇を幅広く利用して遊べ、そのためにももっと海へ出かけていって遊べと、お上たる政府が督励し、従順な国民の多くが、それではと、あの悪名高かった物品税も取り払われたことだからとヨットやモーターボートを買い求め、我も我もと海を目指すということになれば、話はまったく別のことになってくる。
 第一、海でのレジュアを督励している行政の側にどれだけ海を知っている人間がいるのか。いたとしても海を知っている人間たちの知識なり意見なりを政府全体が、どのように勘酌する機能があるのか。はたして、海に関わるもろもろの実態を知った人間が本気で、国民に海へ出かけると説いているのか。眺めなおしてみれば、その実情はお寒い、というより空恐ろしいものがある。極端な言い方をすれば、海での趣味をいたずらに国民にそそのかすのは、行政が人殺しをすることにもなりかねない。
 政府が国民に海のレジュアを奨励するのはいいことだが、そのついでにこの際、海はいったい誰のものなのか、それを利用する権利、つまり海の水利権について考えなおす必要がありそうだ。
 いうまでもなくこの国土の利用は国民の基本的権利の一つであって、土地の個人所有は認められてはいるが、その利用が公共のための場合には当然私権も制限されてしかるべきである。現行の憲法にはその明確な明示があるとはいえないから、土地の収用に関していつも訴訟が絶えないし、かつて東京をずたずたにした美濃部などというぐうたらな知事は、「私は一人の人が反対する限り橋はかけない」などといって自分の無為無策を糊塗し、賢明とはいえぬ一部の都民も喝采していたが、あの高度成長時代に都市としてのインフラの整備を全くしなかった無為無策の都政の後遺症は今日なお深刻に残っている。(ちなみに彼が引用したスペインの警句は都合よく半分割愛されていて、後段は、だから反対した者は冬でも川を泳いで渡れ、とある)。
海に関する水利権は大方が漁業権で代表されているが、それは決してすべてでも絶対でもなくただの一部であって、海に関する権利はもともと国民が等しく持っているということを、この時代にこの際はっきりさせておく必要がある。
 今日、日本の海は、特に陸地に近い海面のすべては漁民が漁をするためにあるのであって、他の何者もそれを犯すことが出来ない、ということになっている。頭からそう信じているのは誰よりも漁師たち自身であって、他の者もそれを疑うことをはばかっていのもる風潮でもある。

   その所以は日本が戦争に敗れた後、この国に進駐し支配した占領軍が、日本を軍事国土海家として二度と立ち上がらせないために、その一助として、かつて帝国海軍が占有していた日本の海岸線の水利権のすべてを、海での漁でたつきを立てる漁師たちに与えてしまったことにある。
 しかしその後日本は復興し、都市化が進み、それに並行して都市周辺の海は汚染され、そうした水域での漁獲は減ってしまった。しかしなお漁民たちはその水域でのかつての漁獲を盾にして一方的な漁業権を主張している。都市化にしたがって必要とされるもろもろのインフラのための利用地が無くなり、海を埋め立ててそれを作ろうとすると、そこでの漁などもはやあり得はしないのに漁師たちは漁獲が失われると称して多大の補償を行政者から奪い取る。ちなみに新関西空港を堺の沖に作るために政府はあの地域の漁民たちに、なんと六百億円の補償を払わざるを得なかった。
 同じことが大小無数日本中に見られる。私の友人は神奈川県のある入江に建てた別荘の前の海に、買い入れた船を繋ぐために水中に杭を一本行ちこむためだけに、近くの漁師にごねられ補償として年間五万円を払わされる羽目になった。そこに家を建ててからこの数年、彼等のいうその地点での海老の漁など一度も目にしたことがなくてもである。
 私のホームポートの油壷は天然の良港だが、入江が深く入りこみ過ぎていて魚の回遊などなく、ヨットが沢山停泊するようになればなるほど魚影も少なくなっているのに、新しい船が停泊しようとする度に漁民との間に問題が絶えなかった。そこで私たちから言い出して彼等に漁業権を放棄してもらい、その代償にコッドマンたちも協力し市も加わり新しい第三セクターをつくって、浅瀬も埋め立て陸置きのスペースも作って、地元の漁協がレジュア船の管理事業を始めたが結果は大成功だった。
 ということを何かの折りに話したら仲間の政治家がそれを聞いて、東京に近い彼の地元の海でも同じような傾向があるので是非参考にしたいということで、私が紹介し彼等の代表がやってきて視察見学し、同じ漁民同士の話し合いの場ももうけられた。
 しばらくして件の政治家にその結果を聞いたら、
「いやあ参りました。あんな面倒なことをするより、ごねて補償をふんだくった方が楽だという結論だそうです。まだまだうちの方は遅れていますなあ」と頭をかいていた。
 しかしそれが日本のほとんど全体に近い、海に関する実情だろう。

 ということで海でのレジュアを政府がいかに奨励しようと、今後国民の嗜好がますます海に傾いていこうと、そのためのもろもろの施設の造成はいつまでたっても整わないことだろう。船を繋ぐにろくな泊地もないのに船を買え買えというのは、行政としては無責任な話でしかない。
 泊地があったらあったでまたその先、船を使う海洋レジュアにはさらにいくつもの難題障害が待ち受けている。そのほとんどが漁民の漁業権がらみのものだ。
 私は海が好きな人間として、ある場合には命がけで海でたつきを立てている本物の漁民には人間として、男として、他の人種以上に共感を覚えるが、最近の、海の天気も読めず自分の手で竿も網もたぐらず、趣味の釣り人を乗せて魚群探知機たよりに船を動かすだけの遊漁船の船頭を漁師と呼ぶ気にはならない。
 しかし大方そうした手合いが一人前の漁民と称して今日なおいたずらな漁業権を主張し、結果としては政府の唱導する海洋レジュアを疎外どころか生命の危機にもさらしている。

 それを論ずる前にもっと基本的な行政の欠陥、というか間違いがある。それはそうした生命の危険に晒されるべく船を買い、それを動かして海へ遊びに出ていく人間の資格を国家が一方的に検定する免許制度の問題である。
 いわゆる小型船舶操縦士の免許で、これが設置される時私たち日本外洋帆走協会はこぞって反対したものだった。その理由は、どんな小型の船だろうとそれが小型ならなるほどいっそう、船を操る者の資格は国が設置した試験の規定などで判断され得るものではないからだ。船は小さくなればなるほど臨機応変の措置が必要とされる。それは当たり前のマニュアルの域を越えた能力であって、あくまで経験が培うものでしかない。それを国家が一級から四級に分けて認定すれば、認定された人間は、もともと日本人はお上の権威に弱いから、自分の経験も顧みずに俺は一級と故もなく信じてしまう。しかし国家の権威が、何が起こるかわからぬ海の上でそれに対処する国民の能力をどう保証出来るものでもありはしない。しかし認定された者はそんなことは露岩えずに、国家の権威に依存して自分の能力を過信、というより盲信して海に出ていってしまう。例えば三年ほど前九十九里浜沖で二家族親子八人を乗せたモーターボートが台風の余波の海に出でいって遭難し、子供ばかり六人が溺れて死んだ。あんな海象の折りに船を出す者も判断が無さ過ぎるが、その後の操船も、詳しく聞けば稚拙というよりテニヲハを全く知らぬとしかいいようないもので、挙げ句、親ばかりが助かり子供全員が犠牲になった。
 事故の後船の持ち主の親が、.愚かな親のために子供を死なせてしまい、なんと申し訳してもおよばないしと嘆いていたが、同じ人の子の親としてその気持ちは痛いようにわかるが、実は愚かなのは親の責任というよりもああした危険な資格を与えて揮らぬ行政の側に責任がある。
 また一方こんな話もある。私のテニスの友人数人がある時そろって小型船舶操縦士の免許のレクチュアを受けた。その教官がどうも頼りなくそのくせ不親切で、いよいよ実技のテストとなったが、明日は風も強そうだしあまり自信がないので後のフォローをしでなんとか免許のおりるようにしてくれないかという。実際の能力もない者に無理に免許を出せというわけにはいかないが、思いついて、
「もし実技の試験で旨くいかなかったら、みんなで試験官に、あなたが実際にやって模範を示してくれといってやれ。多分それでなんとかなるだろう」と知恵をつけてやった。
 後で聞いたらコンディションの悪い海面でみんなさんざんの出来だった後、一人がそう言い出し、他の全員も試験官の模範演技を見せろといいつのって、相手は渋々自ら実技を披露したが、出来は受験者より悪かった。そして結果は、全員合格ということだったそうな。
 そんな手合いが俺は二級、俺は一級と、ゴルフのハンディを自慢するようにして海へ出ていっていったんの時何が起こるかを思うと、海でさんざんな目に遭ってきた人間としては寒心に耐えない。
 日本の海は世界でも最悪の条件ということを、行政の主体者は知りもしないし、政府に督励された俄かのユーザーたちも知りはしない。
 低気圧の発達の原理の上からしても、その途上に高い山脈をそなえた日本列島がそれを阻んで横たわり、その南北を黒潮親潮という大海流が洗い、その水温差は大きく、かてて加えて一年の三分の二の期間は台風がやってくる。こんな厄介な気象海象の国はどこにもない。かつて遣唐使遣隋使の多くを犠牲に屠ったシナ海も、狭いようで並大抵の海ではない。台風を別にしても、とにかく一年通じて一日平均三つ以上の、外国ではストームと呼ばれる低気圧が通過している領海を持つ国は他にありはしまい。それ故にも私は日本の海に愛着するのだが、それはあくまでもそう知った上でのことである。
 そしてまた一方今ではその海もよく知りもせぬ漁民と称する連中が、その海の上で一方的に彼等の水利権を主張し、レジュアに海を楽しもうという人間たちのために危険な罠をそこら中に張り巡らせてかえりみない。
 何度か海へ出ればやたら目につく定置網(いわゆる大謀網)は、はるか以前運輸、農林二者の次官間の了解合意が覚書きとして通達され、ニマイルの距離から視認出来るように網には高さ一兆半以上の標識と夜間のための灯火をそなえなくてはならぬとされ、各県の条例としても告示されているのに、それを満たしている定置網など見たことがない。
 私のホームポートの周辺だけはなんとかそれが見られるのは、いつか有志で、地元の組合に夜間の安全のためにも灯火をつけないなら訴訟を起こすが、ちなみに弁護士に相談して態度を決めてくれと申しこみなんとかなった。同じ相模湾の他の港にいる外国人のヨット仲間に、こちらの方もそちらのようにするよういってくれとよく懇願されるが、本来は行政の責任である。
 私のホームポートの油壷とレースの度フィ二シュラインの設けられる小網代湾とは隣合わせで、ともにたくさんのレジェアボートがいるが、こちらの湾から隣にいこうとすると、慣れぬ船は湾口に張られた定置網にそってわざわざはるか沖まで出て回りこまなくてはならない。湾の岬ぎりぎりに張られた網と岬の間のクリアランスはわずかなもので、そこを抜けるのは危険きわまりない。その網をあと二百米沖に出して張るだけで誰もが助かるのに彼等はがんとして聞かず、どこの役所もレジェアボートの安全のためにそれを調整する気もありそうにない。
 他の水域でも沖に突き出た網をかわして夜間陸に近づこうものなら、網と陸地の間隙を示す明りがないために、下手すれば坐礁遭難ということにもなる。そうした非難を彼等はあくまで漁業権を盾にしてつっぱねるが、海という我々の国土を利用する権利はすべての国民平等であるはずなのに、政府のかけ声に踊らされて海へ出てみれば、そこでの日本国民としての基本的人権を保障し守ってくれる者はどこにもいはしない。
 それどころか、地元の漁師たちが、よく時化の夜に入ってこれるねと感心するほど、彼等が航路にまで張り巡らした定置網や生簀で混雑した油壷の入り口の水路で、冬のある時運悪く網に引っ掛かり横転して、沈没を恐れ船から飛び込んで陸まで泳きついて助かったヨットのクルーたちは、地元の漁師を訴えるどころか、翌朝他の船を頼んで彼等の目のつかぬ内に一部網を切って船を回収し、それが彼等に知れなかったことに安堵するというような惨めな現状である。

 そもそも、海はいったい誰のものなのかということを、私たちは本気で考えなおす時期にきているのではないだろうか。
 そうした問いかけがないと、さらに信じられない事態が次々に起こってくる。
 伊豆半島の先端下田の沖にある神子元島は私たちのオーシャンレースのマークにもなる大暗礁だが、同時にダイビングのメッカでもある。最近の若者たちの意識調査だと、彼等がこれからしてみたいと思うスポーツの一番はダイビングで、その人口は年ごとに増えている。ということで、ここでの観光ダイビングでの利益を独占するために地元の協会は、神子元島でのダイビングは協会に属した地元の漁民のしたてるダイバーズボートに限るという通達を一方的に布告して、他の漁民の船によるところか、自前の船でやってきて潜ることも認めぬどいいだした。
 該当者が少ないためにまだ大きく問題化はしていないが、これはどう考えても法律違反に違いない。それはそうだろう、ある臼突然山梨県と静岡県の観光協会が、富士山への車での観光登山はあくまで山梨と静岡のタクシー、ハイヤーに限ると宣言するのと同じことではないか。それに真似て近くの島でもそんな動きがあるようだが、海の使用権について新しい時代の新しい認識をこの際作りなおす必要があるのではなかろうか。
 水中でも禁漁とか禁漁区というのはわかるが、彼等の許可なしにはいずれの海でも観光の潜水も出来ぬというのは、国民平等の基本的人権に関わる問題である。、心無いダイバーの貝や海老の乱獲は取り締まられるぺきだが、それをもってすべてのダイバーの日本の海を利用する基本的権利が制約されるべきものではありはしまい。
 ちなみに日本で年間最も死者の多いスポーツもスターバダイビングだが、神子元島周辺の観光ダイビングを見ると、一隻の船に数十人のダイバーを乗せ、数限られたガイドが一人で何人もの客をチャージし、見とれぬまま始終何人かのダイバーが漂流してしまい、それを私たちが見つけて母船に届けるということがよくある。海で権利を主張し利益の独占を願うにしては、杜撰というより無責任で危険な現状でしかない。
 海でのレジュアが、現況、行政の不備のために実は命がけのものでしかないということを、みんなで知りなおす時期にきているような気がする。