呪者の夢

 


   ワキは呪者のようにトランス状態になり眼前に非日常の世界から恍惚の情景を引き出した。なぜ恍惚といえるか。日常の側に生きている人間にとってみれば、非日常の世界は常に理想の地、神のいる地である。その理想の地から引き出したものは理想のものである。従って映像ならば愉悦をもたらす恍惚のものであるだろう。鎮魂譚が人の死を見る悲しいものであるはずなのに娯楽として享受されるのはこのためである。また内容も悲壮なものにはなり得ない。世阿弥の他の修羅能を見ても死に至る合戦の様子や舞に重点が置かれ、修羅の苦しみを描き出そうとしているとは言い難い。「敦盛」においてもワキの見る夢の映像はかなりポジティヴなものとなっている。

  これかや、悪人の友をふり捨てて、善人の敵を招けとは、御身のことかありがたや。ありがたしありがたし、とても懺悔の物語、夜すがらいざや申さん、よすがらいざや申さん。
  (これだろうか、「悪人の友を振り捨てて善人の敵を招け」ということわざは。あなたのことだったのか。ありがたいことだ。ありがたい、ありがたい。なんとしても懺悔の物語を夜の間中、さあ、お話し申し上げよう。)

 これは先ほどワキが後シテを呼び出した後の後シテの台詞である。「悪人の友を振り捨てて善人の敵を招け」ということわざが出てくるが、字面通り受け取ってもまさにこの部分はポジティヴである。物語の上で直実は敦盛を殺したことを悔いて供養を続けている。近代に生きる我々の感覚でいけば殺された敦盛は妄執にとらわれているのだから直実をたたり殺してもいいくらいだ。だが、敦盛は直実の念仏によって実にあっさりと救われようとしている。これは、先にもいったようにこの定型が鎮魂譚の構造であり、鎮魂を担う者が呪的な力を持っている証左でもある。鎮魂を担う者が呪的な力を持っているため救われざる者も無事救われるのである。また、後シテの台詞はワキの見た夢であるから、ワキに都合のよい台詞であるのは当然のことであるかもしれない。夢はワキのものなのでワキの見たいように都合よく見ることができる。夢見をコントロールできることも呪者の力である。

                                        
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