夢を見るということ

 


    ワキ 不思議やな鳧鐘を鳴らし法事をなして、まどろむ隙もなきところに、敦盛の来たり給ふぞや、さては夢にてあるやらん。
  シテ 何しに夢にてあるべきぞ、現の因果を晴らさんために、これまであらはれ来たりたり。
  (ワキ 不思議だ。鐘を鳴らし法事をして、まどろむ時間もないところに敦盛がいらっしゃったことだ。さては夢であるのだろうか。
   シテ どうして夢であるだろうことか。現世の因果を晴らそうとするためにここにまで現れ来たのだ。)
 ワキの直実蓮生は敦盛が現れたのを夢かと考える。それに対して、シテの敦盛は現であると答える。表層の読みからするとどうやらこれは現実のようである。が、ワキの台詞をより深く考えていく時、次のようなことがわかる。
 ワキは敦盛の現れたのを不思議だと言っている。不思議は不可思議でもあり、思議すべからざる物事、つまり、人知の及ばない物事である。もともと密教用語であるから、当然、意識の深淵にダイブして涅槃の境地に至った者には不思議はないということを踏まえなくてはならない。すると不思議という言葉は日常の思考レベルでは及ばないということにでもなろうか。この場面、敦盛の登場が日常の思考では及ばないことだと言っている。それはそうだ。自分の殺した人間が現実に生きていようはずがない。日常の思考の及ばないことでかつ自分に体験できることは夢であろうと直実は考えているのだ。いずれにしろこの状況が日常の思考レベルを超越したものであることは確かだ。そして、今、直実がこの状況に遭遇できたのは彼が敦盛の鎮魂譚を担うべきものであるからだ。
 直実であるワキはこの状況を真似ぶ。このときワキは日常と非日常の境界にいるのだから、一つのトランス状態に入っていると言ってよい。そのトランス状態は不思議で夢のようなものだ。だから、逆に言うとワキが夢を見るということは一種のトランス状態に入るということなのである。
 トランス状態に入ったワキには目の前に恍惚たる情景が浮かんでくることになる。『平家物語』の語り手は直実となり同時に敦盛となった。語りをしていくうちに彼はおそらく非日常の側から直実の言葉が聞こえそれをどうしても人に伝えたくなる、というよりは非日常の声を日常の側にいる人間に伝えるのが彼の生まれつきの使命なのだ。同様に直実になった彼には敦盛の声が聞こえてくる。こうして彼は違う声色によって二人の人物を登場させる。『平家』の語り手は基本的に盲目である。従って彼らは非日常の側から音声しか引っ張り出すことができなかった。もし、彼らの目が見えたら。その答がワキの役割である。ワキは盲僧と違いトランス状態で映像を見ることができた。すると、日常の側の人間にそれを情景として伝えるべきだ。
 では盲僧に見えなくてワキに見えたその恍惚の情景をどのようにして享受者に伝えるか。人間の目は耳よりも高度にできているためより多くの情報を読みとることができる。ワキが視覚を通して享受者に訴えようとした時、既に多くの登場人物を演ずる複数の役者を用意する素地ができあがっていたと言ってもよいと考える。そして、その素地からワキの夢の内容をシテが演ずる形式まではあと一歩、何かわずかな力が加われば十分であったろう。声色を変えて二人の登場人物を描き分けるのと同じように、ワキが同時に二人の役を演じ分けることも可能であった。だが能は舞台の中にもう一つワキの見た情景を入れ子にして演じてみせた。それを今、我々はワキの夢と言っている。こうして夢幻能という形式が確定する。なるほど世阿弥は夢幻説話への回帰をはかって夢幻能の形式を確定させた。しかし、ワキの見た夢をシテによって演じさせることによってより具体的にワキの見た情景を描くことができ、他の文芸との差異化をはかることができたことが、その最後の一押しとなったのである。

                                        
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