直実像の造形
ではこの作品の中でのワキは何者であるのか。それが次の〈名ノリ〉に現れてくる。
これは武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実出家し蓮生と申す法師にて候。さても一の谷の合戦において、敦盛を手にかけ申し、あまりに御いたはしく存じ、かやうの姿となりて候。またこのたび思い立ち一の谷に下り、敦盛の御菩提を弔ひ申さばやと存じ候。
(私は、武蔵の国の住人熊谷次郎直実が出家した蓮生と申す法師す。それにしても一の谷の合戦で敦盛を手にかけ申し上げてあまりに痛々しく存じて、このような姿になりました。そのうえまた今回、思いを起こして、一の谷に下り、敦盛の御菩提を弔い申し上げようと存じます。)
ここに熊谷次郎直実の人物造形がある。『平家物語』の直実像が能「敦盛」の人物造形に大きく関わってきているので先に『平家』の直実像の生成を簡単に考察しておく。
『平家物語』の直実は一の谷の合戦に至る「一二の懸」の章段ではすぐれた武人として功を急ぐ落qが浮ゥれている。ところが「敦盛最期」の章段で彼はものの道理をわきまえた人物に変わり、せっかく功を得たにもかかわらず、敦盛の死を痛んで出家する。これは、『平家』以前の直実説話とでもいうべきものが二系統あったことを意味していると考えられる。『吾妻鏡』に収録された直実に関する記事によれば、彼の出家の理由は裁判に対する不服で、
猶不堪忿怒、於西侍自取刀除髻、吐詞云(建久三年十一月二十五日)
[猶ほ忿怒に堪えず、西侍に於いて自ら刀を取りて髻を除き、詞を吐くと云ふ。]
(まだ憤怒に堪えられなくて、西の控えで自分から刀を取ってもとどりを切り、悪口を吐いたということだ。)
と裁判の最中に自分の髪を切り、そのまま逐電してしまうのだ。これは『平家』の「一二の懸」の直実に近い無骨な武人像である。一方、「敦盛最期」の章段に描かれた直実像は敦盛の霊を弔う高野聖の一団によって語り継がれた際に形作られた像であるとされる。『平家』はそれらを取り込む際に直実の心理の変化として表現しているのである。
それでは能「敦盛」はどうか。世阿弥の『三道』には三体の一つとして軍体を挙げている。軍体とは修羅能のことを指すが、その軍体について世阿弥は次のように述べる。
軍体の能姿。仮令、源平の名将の人体の本説ならば、ことにことに平家の物語のままに書くべし。
(軍体の能姿は、もし源平の名将である人物を本説とするならば、格別に平家の物語の通りに書くのがよい。)
つまり、敦盛は修羅物であるから「平家のままに」書かなくてはならない。しかし『平家』の直実像は二通りあった。そこで、能「敦盛」は蓮生法師を造形する上で『平家』の採った心理の変化した直実という像を拝借した。「敦盛最期」の章段では既に直実は心ある人物であった。その意味で「平家のままに」という世阿弥の言葉に相違はないのである。
『平家物語』は能の享受者にとって既によく知られた世界である。既に知られた文芸をそのまま写しても新しい文芸にはならない。ではどうするか。能は先行文芸である『平家』の世界を作品上の「現実」として取り入れた。『平家』に対する厚い享受者層は現実世界と同じように源平の武将の活躍する修羅能の世界を受け入れることができたのである。
したがって、このワキの〈名ノリ〉のところが『平家』の通りであるということは、この場面が作品上の現実であることをまず意味している。
一方、語り物である『平家』が行われている世界そのものが現実にある。その現実世界を能という舞台で上演していると考えるとわかりやすい。それを世阿弥にとっての「平家のままに」と考えれば能の世界はより広くなる。だから、この場面は作品上の現実であるというだけでなく、蓮生である法師によって『平家』が語られている場、『平家』という鎮魂の場に享受者を立ち会わせようとしていることにもなるのである。
さて、ワキは都を出て一の谷に着く。〈着キゼリフ〉は次の通りである。
急ぎ候ふほどに津の国一の谷に着きて候。まことに昔の有様、今のやうに思い出でられて候。(後略)
(急ぎましたので摂津の国の一の谷に着きました。本当に昔のありさまが今のことのように思い出されます。)
〈着キゼリフ〉でワキは京から一の谷へ一瞬にして移動する。これはもちろん、作品の中で重要でないところを手短に語るためよく用いられる手段なのである。が、作品の読みという点から考えるとこれは空間の歪みを意味していると考えられる。また、それに続く部分は昔と今の対比を行っており、これは時間の混乱への布石である。先に夢現の境目を暗示したのに続いて、ここで時間と空間を超越した物語世界を形作ろうとしている。そのことはすなわち、ワキが夢現の境界者であると同時に時空の超越者でもあるという読み方ができるということなのである。