[次第]の読み

 


 夢幻能においてワキが夢見るということがどういう意味を持つか考えるために、まず「敦盛」を読んでいきたい。能「敦盛」は平家の公達の一人である平敦盛の最後を語ったもので、複式夢幻能の代表作である。『申楽談儀』に「世子作」と見えることから世阿弥の作とされている。ワキは蓮生法師、シテは草刈男、後シテは敦盛である。それでは具体的に作品の読みを行っていこう。
 始まりは[次第]の囃子である。旅僧姿のワキの登場である。ワキの謡う〈次第〉は次のようになっている。

  夢の世なれば驚きて、夢の世なれば驚きて、捨つるや現なるらん。
(この世は夢の世なのでその事にはっと気づいて、この世は夢の世なのでその事にはっと気づいて、この身を捨てて出家したのは現実であるのだろうか。)

この始まりの部分でこの世が夢であることを言っている。もちろんそこには仏教的な背景がみられる。『平家物語』が冒頭で諸行無常、盛者必衰を掲げ、全ての存在するもの、盛んなるものも春の夢のようにはかないものであると言っているのと軌を一にしているのだ。しかし『平家物語』に比べ、能「敦盛」はより夢と現の境界に重きを置こうとしているように思える。この作品が夢と現の境目にあることを述べることによって、ワキが夢と現の境界の者であることを示しているといってよい。つまりワキは現実と非現実の境界にいる者だということを、この〈次第〉の部分から読みとることができるのである。

                                        
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