東海道57次守口宿

 東海道57番目の宿として栄えた守口宿。街角に立つと歴史が見えてきます

                                   コンテンツ

 大塩平八郎ゆかりの書院  大塩平八郎の乱(天保8年)と守口門真の人々 (時代が見えてくる町)
 奥女中おきくの冒険と守口門真 元和元年(1615年)大坂夏の陣と守口門真
 名探偵明智小五郎と守口門真 日本探偵小説のあけぼのと守口門真

             守口宿景観虫籠窓が美しい                  
 
大塩の乱ゆかりの書院
                 大塩平八郎の乱(天保8年)
    守口門真の人々は大塩勢の大きな戦力でした。大塩書院を残す「白井家」は大塩を支えた中心メンバーでした。この当時、幕府に逆らう人々の前には過酷な刑罰が待ち受けていました。覚悟の行動でしょうが、それにしても乱後の幕府の弾圧は大変厳しいものでした。しかし、決起は30年後の大変革である明治維新の先駆けの役割を果たし、近代国家日本の誕生に結びつきます。このような時代がみえるとでもいうべき役割については、近現代日本のもうひとつの大変革にも当地域が深くかかわっているという興味深い事実があります。つまり、1945年の敗戦に伴う新生日本の初代総理大臣「幣原喜重郎」は門真の出身であり、また、土佐との関係が深いことでも知られています。幣原喜重郎が新生日本の舵を取るに際して坂本竜馬を意識していたであろうことが推測されています。「大塩平八郎ゆかりの書院」は、守口門真が近現代日本社会形成に深くかかわってきたという歴史事実を物語るモニュメントです。  


 
守口宿中心部所在。
 江戸時代には近くに本陣、高札場









奥女中おきくの冒険と守口



紙芝居



 
                  大坂夏の陣(元和元年)
 大坂夏の陣で豊臣家は滅びます。 元和元年(1615年)5月7日が最後の日とされています。この5月7日は旧暦ですから私たちが使う暦ですと、6月の初めです。
 戦いの様相についてはさまざまな情報が溢れています。このような情報の中から私たちは落城に際して落ち延びることができたひとりである「おきく」という「淀殿の侍女」に着目して夏の陣と守口の歴史を掘り下げることを試み、新しいおきく像を提起しました。
 新しいおきく像については、歴史ロマン紙芝居「おきく物語」というひとつの作品にまとめて皆様方のご支援を得て公開することができました。
 これまで「おきく物語」は守口から語られることはほとんどなかったのですが、守口から見ることでおきく物語の真相が見えてきたと私たちは考えています。
 たとえば、豊臣家を貶める役割を果たしてきた「おきく物語」を守口から分析すると、主家滅亡をしりめにドライに逃げ出した娘というおきく像が全く逆に見え出しました。
  ※おきく物語紙芝居(10場面構成・現代マンガ資料館制作)





 大坂夏の陣のことなどもう少し詳しくしりたい方はクリックどうぞ

奥女中おきくの冒険と守口







 
 名探偵
明智小五郎守口門真


    
       江戸川乱歩旧宅
           
             
名探偵明智小五郎の故郷守口門真
 意外に深い結びつきがあり、初期の名作のいくつかがここで生まれている。とくに「D坂の殺人事件」が守口で生まれているという事実は重い。
 明智小五郎ファンならば、名探偵の初めての登場がD坂の殺人事件であることは百も承知であろう。守口は明智小五郎誕生の地ということになるのである。
 江戸川乱歩が守口宿界隈をぶらついている様子を想像すると楽しい。この散歩から日本を代表する名探偵が生まれた可能性が少なくないからである。


 江戸川乱歩・明智小五郎のことについてもう少し知りたい方はこちらをクリックして下さい。
 名探偵「明智小五郎」と守口門真


  ※ 2002年10月6日「大塩事件研究会」の研究会に参加し多くのことを学ばせていただきました。白井家ゆかりの皆様にお目にかかれたのは望外の喜びでした。深くお礼申し上げます。