奥女中おきく冒険守口
                       大坂夏の陣と豊臣家の滅亡
おきく物語とは  豊臣家の侍女(淀殿につかえた)「おきく」の大坂夏の陣の体験記。落城間際に大坂城を脱出したおきくの脱出行。
おきく物語の成立  徳川幕府の規制下で出版された「おきく物語」の話の骨格は、豊臣秀頼や淀殿の身近につかえる侍女が、主家滅亡をしりめにさっさと城から逃げ出したというもので、浮薄な主従関係を印象付けるものになっている。結果として豊臣家をおとしめる役割を果たしている。したがってドライで目端のきく娘というのが一般的おきく像のようである。現代マンガ資料館制作紙芝居「おきく物語」では、おきく像の再評価を試みて全く逆のおきく像を提起。
守口から見たおきく物語  おきく物語の記述を見ると、矛盾、不合理な箇所が少なくない。たとえば、豊臣家の滅亡の日、5月7日のおきくの行動を分析すると、守口関連では守口到着の記載があるのみである。しかし、当日の行動から考えると、守口宿泊の可能性は極めて高いのだが、いっさいふれられていない不自然なものである。
 守口以後の行動では、朋輩と一緒に京都まで落ち延びることになっているが、その行程もあいまいで不可解な部分が少なくない。
不自然な箇所を素直に解釈して「あいまいにしておきたい部分」と考えてみたらどうだろうか。このような方法でおきく物語を分析(守口から見ること)することで、おきくのヒューマンな再評価とおきく物語解釈の新しい視点提示に成功しえたと考えている。
   ※ 詳細は「
おきく物語考察」という冊子にまとめている(現代マンガ資料館発行  2002年)。興味がある方はご連絡ください。


ギャラリー おきく物語

 おきくプロフィール
出陣する軍勢を見送るおきく
(東津 応画)
準備中


   
冬の陣iに徳川方の謀略で堀を埋められた
   豊臣方は、城を出て戦うしかありませんで
   した。




    大坂城天守閣と極楽橋


   本丸・天守閣からの脱出は極楽橋を経て
   京橋口からという道筋でした。
   脱出が遅れた人たちにとって、後刻、極楽
   橋は地獄橋と化しました。





 本丸から見た京橋口方面

  おきくが京橋口を出ると、盗賊が待ち構えて
   いました。
   おきくは機転で危地を逃れます。







   守口から炎上する大坂城
を見るおきく


 


   京街道をたどっておきく達は守口へ逃れます。
    いったいどこに泊まったのか。
    守口ミステリーのひとつに加えましょう。







 京都誓願寺






   おきくは京都「誓願寺」の「松の丸殿」を頼ります。
    松の丸殿は淀殿の従姉妹、おきくの山口家の旧
    主近江「浅井家」ともつながりの深い人でした。
    秀頼の忘れ形見「国松君」の処刑をおきくはここで
    迎えます。国松君の遺骸は誓願寺がひきとります
    が、この影におきくの活躍を推測することができま
    す。



大坂城三の丸堀跡
大阪府文化財協会の2003年発掘調査で発見されました。2003年12月13日現地説明会にて撮影。
周知のように、現在の大坂城は豊臣時代のものではありません。徳川幕府が豊臣氏の大坂城を埋め、その上に新しい
大坂城を築き直しているからです。豊臣時代大坂城はおきくさんとの共有景観です。空堀の底に凹凸の防御措置が施
されています。
冬の陣に備えて豊臣方が整備し、直後に徳川方の手で短期間に埋められたために、当時の様子をリアル
      に残しています(2003年12月13日現地説明会)。
このようなでおきくさんとの共有景観を持てるとは・・全く思いもしませんでした。                        

おきく関連年表

慶長元年1596  0 おきく誕生
慶長 31598  3 3月醍醐の花見 8月豊臣秀吉(62)伏見城で死去
慶長 51600  5 9月関ケ原の戦い 松の丸殿請願寺へ
慶長 81603  8 徳川家康征夷大将軍就任 豊臣秀頼(11)千姫結婚(7
慶長101605 10 徳川秀忠征夷大将軍就任(将軍職を世襲) 淀殿秀頼の上洛を拒否
慶長131608 13 豊臣国松誕生(側室おいちゃ生母)
慶長161611 16 徳川家康秀頼(19)と会見 加藤清正死去 高瀬川開削開始
慶長171612 17 千姫鬢そぎ(おきくもその場にいました)
慶長181613 18 方広寺鐘銘事件
慶長191614 19 大坂冬の陣 高瀬川工事完成 おきくの父山口茂佐衛門戦死
元和 元年1615 20 大坂夏の陣(豊臣家滅亡)  おきく脱出して誓願寺(松の丸殿)
苛烈な残党狩 秀頼遺児国松(8)処刑(523
延宝6 83 死去 備前池田家