<大垣>
(おおがき)岐阜県大垣市

旅行日 98/12

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 大垣は戸田氏十万石の城下町。また陸路(美濃路)と水路(水門川)が通じる物資の集散地であり、西濃地方最大の都市として繁栄しました。左写真は水門川と大垣のシンボル住吉灯台。かつての賑わいを偲ばせます。
 芭蕉は八月二十一日(陽暦10月4日)頃に大垣に到着。芭蕉にとって大垣は幾度か訪れたことのある地。未知の地を巡る旅であった「奥の細道」の旅も、ここ大垣が結びの地ということになりました。

 駒にたすけられて、大垣の庄に入れば、曽良も伊勢よりかけ合ひ、越人(えつじん)も馬をとばせて、如行(じょこう)が家に入り集まる。
<現代語訳>馬に(乗って徒歩の苦労を)助けられて、大垣の町に入ると(折から)曽良も伊勢から来合わせ、越人も馬を走らせてきて、如行の家に(みんな)入り集まる。


 前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子、其外(そのほか)したしき人々、日夜とぶらひて、ふたたび蘇生のものにあふがごとく、且(かつ)よろこび、且(かつ)いたわる。
<現代語訳>前川子、荊口父子(をはじめ)、そのほか親しい人々が昼も夜も訪ね来て、まるで生き返った人に会うかのように(私の無事を)喜んだり疲れをいたわったりしてくれる。

 大垣では、多くの門人・知人から温かいもてなしを受けました。病気治療のため加賀の山中で別れた曽良とも無事再会を果たします。
 「奥の細道」の旅はとりあえずここまで。しかし芭蕉の旅はまだまだ続きます。大垣には半月ほど逗留し、九月六日(陽暦10月18日)には、はやくも次の目的地、伊勢へと向けて旅立つのでした。




 大垣は新たな旅の出発の地になります。木因(ぼくいん:左写真奥が木因の像)らの見送りを受け、舟に乗り込みます。

 旅のもの憂さも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと又ふねに乗りて
<現代語訳>長旅の疲れの重い気分もまだ抜けきっていないうちに、九月六日(陽暦10月18日)になったので、伊勢神宮の遷座式(せんざしき)を拝もうと思い、再び舟に乗って…


続いて、芭蕉の句(↓)へ。



<芭蕉の句>

 蛤の ふたみに別 行秋ぞ
(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)

<句意>
蛤の(離れがたい)ふたと身とが別れるように尽きぬ名残を惜しみつつ、(私は伊勢の二見ガ浦へと出発することになったけれども)秋もまた去ろうとしている。

三省堂・新明解シリーズ「奥の細道」(桑原博史監修)より




 最後までご覧いただきありがとうございました。
 (ここまでたどり着いた方、どれだけいるかしら?)
 お疲れさまでした。私も疲れました(^^;


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