竹田賢一

スクラッチ&レボリュショナリー Cornelious Cardew
(同時代音楽違人列伝8)

仁王立ち倶楽部@CHRIS008(1986年1月発売)

 以前に、間章の『時代の未明から来たるべきものへ』の紹介文を書いたおり、彼の命日を一日書き間違える、というミスを犯したことがあった。12月12日のところを13日と記してしまったのだ。どうして誤ったのか、長いこと自分でもわけがわからないでいた。

 その書き誤りがどうやら故なきものではなかった、と気づいたのはごく最近のことだ。

 コーニリアス・カーデューのメモリアル・コンサートのライヴ盤を最近手に入れて、はたと思い到ったのである。例の原稿を書いたほぼ1年前の、1981年12月13日、コーニリアス・カーデューはイースト・ロンドンの自宅近くの歩道を歩いていたとき、歩道にまで乗り上げるほど乱暴な運転をする車にひく轢き殺されたのだ。ちょうど一周忌には、ヴェッダ・ミュージック・ワークショップの友人たちが、法政大学の学館ホールで世界初の追悼コンサートを開いたばかリであった(ぼくは飛行機の便の都合でそのコンサートに間に合わなかったが)。ぼくは無意識の裡に、間章の死とコーニリアス・カーデューの死を重ね合わせていたのに違いないのだ。

 1936年5月7日、イギリスのグルーセスターシャーに生まれたコーニリアス・カーデューは、作曲家であると同時に政治家でもあった。というと、英国首相でありながら指揮もしたヒースや、ドイツ共産党員だった作曲家のハンス・アイスラーのようなケースを思い浮かべるかもしれない。後者にいくらか近いかもしれないが、カーデューの場合はよりエクセントリックだ。なにしろ1979年には、イギリス革命的共産党(マルクス・レーニン主義派)を創設して、その中央委員を務めていたのだから。

 ミュージシャンとしてのスタートは、全くエリートそのものだった。カンタベリー大聖堂の聖歌隊から王立音楽院に学び、57年にはケルンに留学して電子音楽を勉強し、シュトックハウゼンのアシスタントとして、4つのオーケストラと4つの混声合唱のための「カレ」の制作に協力したりする。

 このころまでのカーデューの作品、たとえば「ピアニストのための二冊の学習書」(1958)は、当時のヨーロッパ前衛音楽の主流をなすミュジーク・セリエルの技法で書かれていた。シュトックハウゼンやブーレーズどころか、シェーンベルクの音楽でさえ白い眼で見られたイギリス人の間では、すでに彼は革命的であったといえるかもしれない。

 61年にロンドンに帰ったカーデューは、グラフィック・デザイナーとして働くかたわら、ジョン・ケージをはじめとするアメリカの作曲家やアクション・ペインティングの美術家たちに触発されて、即興演奏への関心を深めていく。

 この時期の彼の活動を特徴づける大作が「トリータイズ」。1967年に全体が完成したこの作品は、193ぺージに及ぷグラフィック・スコア(図形楽譜)で、一切の指示がない、もちろん図上の三角形や円などを、音程や持続、強さ等の一般的な音のバラメーターに解釈することも可能だが、一切の解釈は演奏する者に任されている。彼の音楽と反応することによって、各目が自分の音楽をつくリ出していくこと、を力ーデューは求めたのだ。

 もう一つの重要な活動は、即興演奏グループ AMMの結成。キース・ロウ、エデイ・ブレヴォスト、ルー・ゲア、ローレンス・シーフというジャズから出発したミュージシャンとともに始めたこのグループは、音楽と社会の関係に眼を開かせることになる。他のミュージシャンと反応し含うことで、その場で即時に音楽をつくり出していくこと。社会的作業としての音楽の制作。その過程には、一人一人の、そしてメンバー全体を規定する文化の歴史的段階が透視され、各々の精神界も含めた生活が反応される。

 1968年、彼はモーリー・カレッジで教鞭を取りはじめる。そして彼の代表作ともいえる連作「ザ・グレイト・ラーニング」をつくりはじめる。孔子の『大学』の第一章をテクストにしたこの作品は、最初、大人数のアンサンブル用の作品として委嘱された。カーデューはその「パラグラフ1」から「7」までに、漢字を解体したグラフイックな記譜法、オルガンや低音楽器等の楽器、石片などの素材、声、言葉による指示、マイム的な動作、ゲーム、即興演奏、歌など、あらゆる実験的な方法を導入すると同時に、この作品を訓練を受けたミュージシャンだけで演奏するのではなく、全く音楽的素養のない人をも含めて、それぞれの能力から最大限の創造的な関わりのできる作品として構想したのだ。

 この作品は、ザ・スクラッチ・オーケストラという集団に発展する。カーデューに加えて、マイクル・パースンズ、ハワード・スケンプトンという作曲家を中心に、モーリー大の学生たちやいろいろな経歴の人たちを含めたおよそ40人のこのオーケストラは、同時代の作曲家の作品の演奏をはじめ、自分たちの作品をつくったり、ハプニングのような行為をしたり、徹底した民主主義的運営の中で、音楽的社会的実践を行う。

 カーデューは「もし音楽が純粋に美学的体験だとしたら、我々の関心の中心を占めることはないだろうと思う。環境に波紋をつくリだし、コンサート・ホールを超えて反響を及ぼさなくてはならない」という。そして彼の関心はさらに音楽を取り卷く社会へと向かい、マルクス・レーニン主義に接近する。 

 彼とスクラッチ・オーケストラの一部のメンバーは、マルクス・レーニン主義および毛沢東主義の立場から、これまでの作品や活動を再検討し、自己批判を加える。その記録が1974年に出版された『シュトックハウゼンは帝国主義に奉仕する』だった。

 彼のマルクス主義美学を一言に要約すると、クリストファー・コールドウェルの次のような言葉になるのだろう。「芸術は物への関係の中に存在するわけでは決してない。人間と人間の間の関係、芸術家と享受者の間に存在するのだ。そして芸術作品とは、単なる機械のようなもので、(芸術)過程の中で両者が手がかりを得るための部分品である」。60年代に力ーデューが発展させた“作曲活動”は、何よりも、人と人のありうべき関係を創出すること、であった。

 73年に奨学金を得てベルリンヘ赴けば、アーティスト・ハウスを造るために取り壊されそうになっていた、労働者向け小児病院を守る運動に参加し、ロンドンに帰れば、革命的ロック・グループ、ピープルズ・リベレーション・ミュージックを結成し、80年にはナショナル・フロントに対する反ファシズムのデモで逮捕されてもいる。1981年には、人民民主主義戦線の総書記に任命される一方、ヴァンクーバーで開かれた第1回国際スポーツ・文化祭にも参加するなど、音楽家としての活動と政治活動を同一平面で実行しつづけていた。

 駆け足で辿ったコーニリアス・カーデューの短い一生には、汲みども尽きない“作曲家”のあり方がぼくには観ぜられる。音符を並べることが作曲だなんて、発想が矮小だ。世の流れに曲をつける、方向を変える力を持つことが、作曲の本源的な語義ではないか。とりあえずコーニリアス・カーデューの音楽作品を聞くには、『コーニリアス・力ーデュー・メモリアル・コンサート』(IMPETUS IMP28204)に針を落とすことだ。ミュージック・セリエルと偶然性の音楽が同居した「弦楽四重奏曲」から、晩年の革命歌まで、美しい、の一言。


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