粉川哲夫 

霜田誠二とペーター・コヴァルトとぼくの『楽しくて真剣な夜』
 
仁王立ち倶楽部014(1986年12月発売)

 霜田誠二という男はアナーキーな男だ。彼はチャンスさえあれば、レーガンやヒロヒトとだってパフォーマンスをやるだろうし、トラやヘビとだってパフォーマンスをやるだろう。

 だから、そんなアナーキーな男がパフォーマンスの企画をした日には、とてつもないことが起こる。ぼくは、彼のアナーキーさの心酔者だから、彼にさそわれれば何でもやるつもりでいるが、けっこう“犠牲者”もいるのではないか?

 先日、キッド・アイラック・ホールで霜田とぼくにつきあったペーター・コヴァルトは、やはりそうした“犠牲者”の一人だったのだと思う。

 最初霜田から三人でパフォーマンスをやらないかという話をきいたとき、一瞬耳を疑うと同時に、西ドイツにも霜田みたいなメチャクチャな奴がいるのだなあと思い、勝手に納得した。ぼくはペーター・コヴァルトには会ったことがなく、その音は人からもらったカセット・テープで聞いたことがあるにすぎなかった。その音の印象は、知的な伝統主義で、ほとんどニュー・ジャズ的アナーキーさは感じられなかった。だから、その彼がぼくのような未経験の人物といっしょにパフォーマンスをやるということは、よほどの実験精神がなければできないはずだ。彼はきっと西ドイツの霜田誠二なのだ--ぼくはそう勝手に考えた。

 しかし、それはどうもちがっていたようだ。ペータ・コヴァルトは、ぼくを一応名の通った−かどうかは別としても、一応経験のある−パフォーマーだと思っていたらしい。11月10日の6時すぎ、キッド・アイラック・ホールへ行ったら、彼はホールの片すみに座ってミカンを食べていた。話しかけて自己紹介すると、皮をむいたばかりのミカンを半分に割ってぼくに差し出した。音から想像したペーター・コヴァルトは、小柄で髪の長いヨーロッパ人だったが、本物のコヴァルトは大柄でユル・ブリンナー・カットのいかつい人物だった。が、彼のものごしとしゃべり方には、ニューヨークあたりのパフォーマーによくあるストリート・ワイズ的なしたたかさはなく、チューリッヒの郊外で畑をたがやしている『ジョナスは2000年に25才になる』のマルセルのような素朴な誠実さがただよっていた。

 彼が明らかにぼくを買いかぶっていたと思うのは、ぼくが八四年にベルリンに行ったことを告げると、彼がすかさず「どこでパフォーマンスをやったの?」ときいたからだ。その当時ぼくはまだ自分ではパフォーマンスをやってはいなかった。ベルリンには自由ラジオの集りで行ったのであり、スクウォッターたちの“スペース運動”の現場を見に行ったのだった。

 ぼくが自分でパフォーマンスをやるようになったのは、85年の2月からだ。まあ、その前年からヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティヴァルに首をつっこむようになっていたから、すべては時間の問題だったかもしれないとしても、このときも、ヒグマ春夫の霜田誠二に劣らぬいいかげんさのおかげでズブの素人のぼくがパフォーマンスをすることになったのだった。

 ただし、『ブック・メディア・パフォーム1985』で書いたように、85年にやった5回のパフォーマンスを通じて、ぼくは自分自身のパフォーマンスの当面の方向を見出した。それは、生身の身体とエレクトロニックスによって構成される準身体(エレクトロ・ボディ)との関係をさぐることであり、自分の手でエレクトロニックスの装置(電子的器官)を作ることとそれを操作すること自身をパフォーマンスにすることである。

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 「霜田誠二・ペーター・コヴァルト・粉川哲夫の楽しくて真剣な夜」(当日のチラシから)でペーターがとまどったとすれば、ぼくの装置(マネキンの上半身に四種類のマイク--すべて周波数帯域がちがう--を仕掛け、それをアンプとフランジャーに接続してある)から出る音の不確定さのためだったのではないかと思う。パフォーマンスをはじめるまえに、ぼくは「ぼくのは全部ノイズだからね」と彼に告げておいたのだが、ふたを開いてみたら、この装置はいわゆる「ノイズ」だけでなく、サックスやベースやドラムに似た音まで出してしまった。

 「ノイズ」ではなくて「楽器」の音だとすれば、その音は「音楽」としてのある種の論理に従っていなければならない--とペーターは考えているようだ。だから、彼は、ぼくにはノイズでしかない「楽音」に対して最初のうち本気でインタープレイしようとしたようだ。しかし、ジャズ・プレイなどやったことのない人間が出す「楽音」に「音楽」の論理があるはずもない。だからそのうち、ペーターは、「こいつ何なのだ?」と思いはじめた。そしてついに、彼の美しいフレーズがぼくのノイズの介入を受けたとき(折りしもこのとき、甲州街道を通るパトカーの無線通信がペーターのギター・アンプに混入した--彼はこれもぼくの操作だと思ったらしい)、それ以上プレイを続ける気持ちを失った。

 ペーターがプレイをやめて、プィとステージから出て行ったとき、ぼくは、彼が怒っているとはツユしらなかった。だから、それからしばらくのあいだ霜田誠二と共同パフォーマンスを楽しんだ。が、約束の一時間半がすぎて、ノドがカラカラになったのでパフォーマンスをやめ、まだパフォーマンスを続けている霜田をそのままにしてホールに下りて行ったら、そのソファーにペーターがひどくむくれた顔つきですわっていた。

 「ウォッツ・ロング?」
 「君の音は強すぎるよ。ぼくの音は全部消されてしまった。あれじゃいっしょにプレイできないからやめたんだ」

 ぼくは仰天し、「そんなはずがない」と言ったが、ペーターは、「テープを聴いてみればわかるよ」と言い、あいかわらず不機嫌だった。それから、近所の飲み屋での風巻隆(彼はペーターの信奉者だ)との激論(というよりぼくが彼をなじったらしい)を含め、てんやわんやがあって、血のめぐりのわるいぼくはようやくいま、前述のような最終的認識に達したのである。

 考えてみると、やはり犠牲者はペーター・コヴァルトだった。というのも、僕のパフォーマンスには、自分の装置がどのように機能するかをなるべく白紙の状態で経験することも含まれているので、ぼくは、装置が出来上がったときも導通試験以上のことをなるべくしないようにしている。実際のところ、あの装置をあのような音量で鳴らしてみたのは初めてだったし、あのエレクトロ・ボディに対してさまざまな角度から自分の生身の身体を接触させてみたこともあれが初めてだった。それに対して、ペーター・コヴァルトは、自分のベースをほとんど自分の身体器官と化すまでに使いこなしている。彼は、ベースに自分の身体をどう接触させればどのような音が出るかを熟知している。これは大きなちがいである。

 しかし、深夜になって飲み屋を出たとき、ぼくの暴言にもかかわらずたえず冷静さを失わなかった美しい目の風巻隆が、ぼくに向ってこう言った。

 「ぼくらはそんなにちがってはいないと思うんだけれどね」

 そうだ。そうだと思う。それにもかかわらず、ぼくはミクロなちがいに固執したいと思う。重要なのはちがいをつくって行くことではないか? 共感と同一化よりも対立と異化を! その意味では、霜田誠二が仕掛けたパフォーマンスの夕べは、本当に「楽しくて真剣な夜」だった。


粉川哲夫 

ポケットの中のミニFM

仁王立ち倶楽部015(1987年4月発売)

 日本ではサブカルチャーが育たないと言われるが、そうでもないのではないかと最近思いはじめている。印刷メディアに関しては、どこの本屋でも手に入る大量発行部数の雑誌が確実につまらなくなっているのに対して、この『仁王立ち倶楽部』のような雑誌が断然おもしろくなっている。3月はじめに出た『85年度あなたが選ぶ通好みベストテン』という小冊子などは、以前だったら音楽や芸術の“専門誌”がやるようなレベルの高い内容の文章をたくさんのせている。この小冊子は、『仁王立ち倶楽部』よりももっとミニのメディアで、編集長の河内優伸が赤いイタリア製(?)の自転車で配って歩いたところでしか手に入らない。

 ラジオに関しては、ミニがマスにまさるということはまえからわかっていた。ミニFMはまさにそのよい例だ。おそらく、文字メディアでミニFMと似たような現象が出てきたのは、ワープロやコピー・マシーンが普及して、非常に容易に文字メディアを作ることができるようになったからだろう。そのうち商業出版界は、商業レコードが“インディーズ”をとりこんだように、文字のミニメディアをとりこまざるをえなくなるかもしれない。

 しかし、とりこみ問題に関して言えば、“インディーズ”レーベルが商業レコード会社にとりこまれたのは、かつてミニメディアとしての独自性をもっていた“インディーズ”がインディペンデントとしての力を失なったからである。だから、いま、質的には確実にマスのそれをノシているミニの文字メディアは、マスの文字メディアにとりこまれるようなことがあってはならないのだ。商業メディアとはちがう流通回路とコミュニケイション回路を作らなければならないし、それは可能だと思う。そして、それが、商業メディアとは全く別の自主経済をも作って

しまい、自立できるようになればいまの商業メディアはオシマイである。

 ミニFMの場合、そのおもしろさはやる側のおもしろさだと考えられがちだが、それはミニFMを聴かない人のせりふだろう。実のところ、ミニFMをやっている人の多くがあまりミニFMを聴いたことがないという場合が多い。わたしもマイクを握って電波を出した数にくらべればミニFMに耳を傾ける回数はだんぜん少なかった。ところが今年の二月から持続的にミニFMを聴いてみて、こんなにおもしろいものはないと思った。

 きっかけは胸ポケットに入るようなラジオをもらったことだった。しかも、それをわたしにくれたのはNHKなのだ。他愛のない話だが、そのエピソードを少ししておこう。2月の初め、わたしはNHKの取材アナ氏から電話をもらい、CD-ROMについてのコメントを求められた。TVカメラのまえで1分ほどしゃべってほしいというのである。わたしは、そっくり編成もまかしてくれるのでないかぎりテレビには出ないことにしているので当然断わると、その人は逆にねばり強くわたしを説得しにかかった。声の感じも悪くなかったので、じゃあ街角でワンショットだけということで、他の人と待ちあわせていた銀座の喫茶店に来てもらうことにした。しかし、その人はわたしの姿を見るなり後悔したような顔をした。彼は、わたしにせめて背広にネクタイぐらいはしている「メディア評論家」のイメージを期待したらしかったが、わたしはカジュアルなセーターにジーンズばきだった。

 取材アナ氏の顔を見て、わたしは、ああこれで自由になれるなと思ったが、律儀そうなその人はわたしを近くのオフィスに連れて行き、カメラ撮りだけはやった。わたしも、そういうことならと思い、とても「ニュースセンター」では使えそうにない過激なことを1分間口走った。数日後、ぶ厚い封筒が届き、開いてみると問題のラジオと「トーンが他と合わない」のでカットになった旨をわびる手紙が出てきた。

 おかげでその日からわたしはいつもラジオを携帯することになった。取材アナ氏にはちょっと悪い気もするが、彼がわたしに声をかけてきたのは、彼がNHKのなかにいながらマイナーなものへの意識があったからだろう。それは結果的に無駄にはなっていない。なぜなら、彼はNHKには貢献できなかったとしてもミニFMには貢献したからである。1台のポケット・ラジオを与えることによって、ふだんはあまりリスナーのいないミニFMに1人の熱心なリスナーを生み出したのだからその功績は大したものだ。

 おかげでわたしは、NHKの隠れたマイナー支持(?!)にささえられ、毎日ミニFMを聴き歩く悪癖を身につけてし

まった。荻窪にも新宿にも千葉にもミニFMを聴きに行ったし、どこかの駅に降り立つと必ずFMのダイヤルを回わしてミニFM放送をさがすのだが、全部聴いているのは下北沢のラジオ・ホームラン(76メガヘルツ)の放送だ。この局は、わたしの友人たちが4年まえに始めた局で、わたしも色々な関わり方をしているため、一旦聴きはじめたら、欠かすことができなくなってしまった。サービス・エリアはせいぜい1キロだから、新宿では聴えない。そこで、これまでは仕事で人に会うときには新宿の喫茶店を使っていたのだが、最近はもっぱら下北沢駅南口の「ファイブ&ハーフ」を使うことにし、放送日の夜8〜11時はラジオ・ホームランのサービス・エリア内にいる努力をしている。

 まえまえから、わたしは、ミニFMはその放送しかただけではなく、その聴き方もマス・メディアとは異なるのでなければ意味がないと主張してきた。しかし、現状では、わたし自身を含めて、聴き方に関してはこれまでのラジオのそれを無批判に踏襲してきた。それは大体2つのパターンがあり、たまたま聴いてくれたリスナーの自然発生性に頼るか、「地域」住人という幻想にしがみついて、局の近所に番組表を配るといったやり方でリスナーをふやそうとするかのいずれかになりがちだった。その結果は、ミニFMの場合、非常に悲惨である。

 出力が弱いミニFMを誰かがたまたま聴くという確率は非常に少ない。たとえ少しパワーを上げて放送しても、三大紙に番組表ののっているマスのラジオ局のようなわけには行かない。それではリスナーを「地域」に限定してみてはどうかという考えが成り立つが、いまの東京で共通の文化やライフスタイルが存在する「地域」などはどこにもありはしないから、「地域」にリスナーを求めるのは望み薄である。

 ミニFMは、自転車やバイクでひとっ走りすれば情報の伝達を済ませられるような距離で電波を出す。従ってこの送信は非常に意識的・人工的である。そして、その点でミニFMがマス・メディアとの異なる質を生み出しているのだとすると、受信する方も意識的・人工的とならなければならないのではないか?ミニFMの放送は単に聴くのではなくて、聴きに行くべきものなのだ。

 このことは、R・マリー・シェーファーが音楽の聴き方について言っていることと呼応する。彼は、インタヴューのなかで、「われわれは、これまで偉大な作品が再生され、複製されながら世界中を駆けめぐる時代にいた。だが今や、巡礼者が聖地を訪れるように、聴衆は音楽の発祥の地を訪れなければならない」と言っている。電子的な複製技術が発達すればするほど、「生ま」が重要になるというだけではなく、電子テクノロジー自身を単なる複製や反復の技術ではなく、「発祥の地」にひきもどす技術として用いることが必要だ。ミニFMは、その聴き方のレベルでそういうことを可能にする。

 たまたま聴いて間接的につながっている「電子コミュニティ」でもなく、また「地域」のつながりをもう一度電子の紙で結びなおした関係でもなく、あるとき、まさにそのために集まった人々が意識的につくり出す一回的な電子・身体コミュニティこそがミニFMにふさわしいリスナー形態だろう。

 というわけでわたしは、最近、「ねえ、ちょっと下北沢にラジオを聞きに行かない?」という電話をかけて人々を困まらせている。



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