今泉省彦
絵描き共の変てこりんなあれこれの前説12-16

今泉省彦 

犯罪者同盟員の万引きが原因で赤瀬川千円札裁判の幕が切って落とされた
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説12)

仁王立ち倶楽部013(1986年8月発売)

 平岡正明から、彼等の犯罪者同盟機関誌『赤い風船あるいは牝狼の夜』を単行本化するにあたって相談があったのは、1963年の春だった。絵描きを紹介しろというので、赤瀬川原平・高松次郎・中西夏之には電話で、糸井貫二と吉岡康弘には手紙で、それぞれ作品依頼をしてやった。印刷屋は、その頃私を含めて4人ほどでやっていた美術同人雑誌『形象』の印刷を請負ってくれていたひとを紹介した。赤瀬川原平の千円札模型の印刷を頼んだのと同じひとである、絵描き達は中西を除いて作品を私宛に送って来た。赤潮川は千円札の聖徳太子の部分を拡大した写真と、総理大臣池田勇人の写真にハイレッドセンターの!印を赤のスタンプインキで押したもの、糸井はトルコ帽みたいなのをかぶった裸の髭の男が片膝立ちの横向き写真、高松はマルクスだかレーニンだか忘れたが翻訳本の頁の活字をペン線でたどったもの、そして吉岡がこれも又写真で、裸の人間を山と積み上げたものと、男女性器の部分をやたらに拡大して、一見なんだか判らなくなったものなどであった。これがいつ刊行されたか分明でない。私の手元にあった一冊を、誰かが借りていったまま返してこないからである、『美術手帖1972年4・5月号』に『年表・現代美術の五十年』ということで連載されたものは、この手のことをしらべるのに便利なのだが、これには発行日が8月15日となっている。私が絵描き共の作品を平岡達に渡したのが5月だから、まあそんなことかも知れない。出版記念パーティが新宿のどの辺だろうか、地下のバーを借り切って夜通しだった。赤瀬川・高松・川仁宏、そして私も出席した。吉岡も来ていたが、その折りが吉岡との初対面であった。犯罪者同盟の面々とのつきあいもいい加減かったるくて、赤瀬川・川仁・高松と駅に向ったがシャッターが降りていた。仕方がないので会場に戻ったら、女以外は皆上半身裸になって踊っていた。赤瀬川・高松・川仁はやけになって皆と同じスタイルで踊り出した。私はそういうことが大嫌いなので隅のテーブルで酒を飲みながら時計ぱかり眺めていた。電車の動くのを待っているのである。当時住んでいたのは国立で、駅を出たのが5時か6時頃でもあったか、よく晴れたさわやかな朝であった。

 この『赤い風船あるいは牝狼の夜』が司直の手に落ちたのは同年11月であった。同盟員諸富洋治が高田馬場の書店で万引をやりそこねて、戸塚警察署に連行され、所持品検査の際に、この本を見付けられたのである。吉岡の写真でこれはエロ本だと判断したことになっているが、戸塚署が早稲田の犯罪者同盟のことを知らないはずがない。当時の警視総監が年頭訓示で思想的変質者の取締強化を唱えているのだから、この機会に犯罪者同盟を洗ってみようと思ったに違いないのだ。戸塚署は奥付表記の編集者宮原安春と、諸富の自供で浮び上った平岡正明にガサを掛けた。まず寝込みを襲ったのが宮原宅で、アバート住いの彼は同棲中の女と寝ていたのであった。宮原は逮摘され、急を聞いた平岡は風を喰らって逃げた。そして宮原の部屋から赤瀬川の千円札作品が出てきたのであった。宮原は拘留期間を黙秘で通した。しかしながら、奥付には印刷所も明記されているから当然そこも急襲された。困ったことに、そこは赤瀬川の千円札を刷った印刷屋であった。従って千円札印刷用の原版を押収されることになるのである。『赤い風船または牝狼の夜』は、一般の春本の類とは異って、芸術的意図によるものであり、まったく営利目的を持たないものだから、刑法175条違反事例には当らないということになって、起訴猶予、吉岡の写真だけ削除せよということで押収された本も全部返えってきた。ところが収まらないのが赤瀬川の千円札であった。宮原が拘留期限切れで出てくると、平岡が自首した。たいしたことにはならないと分った以上、あることないことしゃペりまくって警察を惑乱させようと思ったのだろう。そんな訳で警察は舞台廻しの今泉という奴のことを知ったのだった。ガサを喰った印刷屋は私を知っていない。そこは下請なのだ。だから元請のひとが任意出頭で呼ばれて事情聴取を受けた。もうそのときは偽造千円札の間題だから、戸塚署の手を離れて、警視庁に移っていた。折りも折り、偽千円札チ-37号が迷宮入りしようとしている時期だから、それとの関連の有無は警視庁の重大関心事であったろう。元請さんは今泉とはどういう男かということをしつこく聞かれたそうである。元請さんはすぐに私に連絡してきた。どこに住んでいるのかって聞くから、いつも向うから電話が掛ってくるので、どこに住んでるのか知りませんって云って置きましたよ、どんな仕事をしているひとかって聞かれたから、よく知りませんけど、たしか電通だって云ってましたよ、どうせ又電話してくるから、おたくで探しているって云いましょうかって云ったら、向うは、いや、いい、吾々がやるから余計なことはしないでいいと云われましたよという話であった。多分警察は電通広告社で今泉を探したのだろうと思うが、あいにく私は電通は電通でも電々公社で働いていたのであった。そして当然赤瀬川のところにも刑事が来た。1964年1月であった。こうして私を見付けないまま、赤瀬川と印刷屋は地検送りとなった。起訴はさらに翌年の11月である。つまり警察官が赤瀬川の作品を発見してまる2年経っていた。処分保留のまま放置されていたのだから、もう事件にならぬまま立ち消えたと思っていた矢先であった。罰条は「通貨及証券模造取締法第一条・第二条」及び「刑法第六〇条」である。「通貨及証券模造取締法」とは、これらを使う目的でなくっても、まぎらわしいものを作ったり売ったりしてはいけないということであり、「刑法六〇条」は共犯を正犯とみる条項であって、これをもって印刷屋を赤瀬川と同罪と考えるわけであった。

 赤瀬川は弁護士の知り合いがなかったので、国選弁護人を頼むことにしたのだが、川仁がそれを聞いて、いいひとがいるから紹介すると云った。それが杉本正純弁護士である。杉本は当時、新左翼系の公安事件を片っばしから無罪にしていて、はなはだ令名の高いひとであった。赤瀬川と私は現代思潮社という出版社に川仁を訪ねていった。川仁はそこで企画部の次長をしていた。連れられて行ったのは、杉本の所属していた三原橋法律事務所であった。彼が云うには、これは対処の方法がふたつあって、いっさいの権力による裁判を認めないということで取調べにも応じない。公判にも出ないという手がひとつ、もうひとつは裁判のなかで無罪を主張することなのであった。私の考えは赤瀬川によるこの種の作品行為を保償することだったから、模造罰則と憲法の思想表現の自由条項とのどちらが優位するかの議論にするしかないと思えた。
 


今泉省彦

今泉を証人に立てると、赤瀬川の千円札が偽造容疑になると杉本弁護士が、おどかした
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説13)

仁王立ち倶楽部014(1986年12月発売)

 赤瀬川原平の表面一色刷り写真製版の千円札が、通貨及証券模造取締法にもとずいて起訴され、辨護士杉本昌純と相談した結論は、思想表現の自由という日本国憲法の大前提に照して、これはあくまで芸術表現でありその自由は保証されなければならないということと、通貨として流通に投込むことが出来ないにきまっている模造品を取り締まるこの法律は、明治政府が、幕藩体制下で各藩ごとに発行されていた藩札を押え、新政府発行通貨だけを全国に強制流通させようという意図のもとに立法されたものであって、(事実、政府発行通貨の信用は、藩札にくらべてきわめて低かった)こんにちのごとき政府独占通貨流通の時代にいくら現行刑法として生きていても、立法の趣旨を無視して適用させるのは公訴権の乱用だということであった。この辨護士と逢ったのは、日韓条約反対闘争の山場の日であった。この日韓闘争を契機として、急速に勢力を伸した反戦青年委員会と、三派全学連が、衆議院議員面会所に突入するという情報が流れていた。赤瀬川・川仁宏と私は、辨護士と別れると野次馬になりにいった。

 

 議員面会所前の道路にデモ隊が坐り込み、先頭部隊は機動隊と対峙して立ち上がっていた。最前列は蒼ざめた顔で、横倒しの青竹を握ってのけぞっていた。この先頭部隊は、その頃最強をうたわれた三多摩反戦の面々だったらしい。議員面会所入口には、社共両党の代議士諸候が大きなタスキを掛けて、坐り込んでいる連中にではなく、その向こうを通過していく総評傘下のデモ隊に、にこやかに手を振っていた。

 赤瀬川と川仁は、向い側のコンクリート塀の上に腰掛けて見物していた。そこは見物人で鈴成であった。私はデモ隊と機動隊の対峙している間をぶらぶら通り抜けた。機動隊の先頭は盾を持たずに、中腰になって、膝に警棒を握ったこぶしを置いて、命令一下、中腰のバネを効かして躍び懸る姿勢であった。3メートル間隔で並んでいる警察官の警戒線を出たり入ったりして見物していたら、三度目にはとうとう警察官に声を掛けられてしまった。電々公社の社員だから、普通の顔をしているし、ひげも伸してはいない。ネクタイを締めてよれよれのレインコートを着て、眼付きが悪いときているから、しばらくは仲間かも知れないと思っていたのだろう。「失礼ですが、どちらさまでしょうか」、まさか野次馬ですとは云えなかった。そのうち野次馬の一勢排除が始まった。「通行人を公道上から排除する法的根拠は一体なんだ」なんてほざいても駄目だった。無闇に押しまくられて、赤瀬川・川仁ともはぐれてしまった。

 そして地下鉄のなかで思案した。機動隊の戦闘力を一時的に麻痺させる妙案が浮んだ。ヘルメットの顔面防御用のプラスチックマスクを降ろして一列に並んでいるのだから、その前を速乾性のスプレー塗料を吹き付けて走り抜けるのはどうか。

 議員面会所突入は陽動作戦で全学連の諸君は東京駅八重洲口であばれていた。

 翌日から、裁判対策の委員会作りが始った。第一回の会合は12月に目白にあったモダンアートセンター・オブ・ジャパンでだったと思う。誰に出席してもらうかについては、川仁と赤瀬川で相談してきめた。私は雑誌『機関』10号の編集に全力を傾けた。なにしろこの事件を特集しなければならない。『機関』とは、雑誌『形象』を9号で改題したものであって、『形象』『機関』を通して、これほど早く編集を終えたものは他にない。赤瀬川が起訴状を受けたのが11月1日、『機関』10号の発行は1966年1月31日である。実際は3月に入っているとは思うが、わずか4ケ月あまりで発行するなんていうことはかってなかったことであった。

 この特集号の事件関係の目次は以下の通り。東京地検の起訴状、警察官調書2通、押収品目録2通、機関編集部による「事件の経過と見通し」と題する文章(これは私が書いた)そして赤瀬川本人による「行為の意図による行為の意図---法廷を通過する前に---」と題するエッセーである。ここでの私の記述によると、66年1月10日に千円札事件懇談会が発足したとある。参加メンバーは現在のところ、瀧口修造・中原佑介・針生一郎・三木多聞・ヨシダヨシエと、杉本辨護士、ハイレッドセンターならびに機関編集部数名である、と書いてある。対策委員会とか対策会議としなかったのは、辨護人の臨機応変の対処をしばらないことと、いずれにせよ忙しいにきまっている参加メンバーの日程ぐりで、事務局がいらざる苦労をしないようにという配慮であり、実際に会議を開くたびにいろんなひとが出入した。上記メンバーのなかで、懇談会のたびごとに必ず出席したのは、被告・辨護士・事務局員・ハイレッドセンターを別にするならば、瀧口修造、針生一郎、中原佑介、ヨシダヨシエではなかったか、このヨシダヨシエのやっていたモダンアートセンター・オブ・ジャパンが連絡事務所となり、その後、ここがなくなっておぎくぼ画廊に連絡場所を移したと記憶している。事務局長には川仁宏を選任した。その後の懇談会には、評論家石子順造・大島辰雄・東野芳明・音楽家刀根康尚等が毎回出席したと思う。事務局員は私、遠藤昭、佐藤和男、共に雑誌『機関』の編集員であった。懇談会会場はもっぱら三原橋法律事務所か事務局員佐藤和男の紹介で湯島会館を使った。お茶の水駅を降り聖橋を渡って、東京医科歯科大学の北側にあった。こまかいことを書くのはこのスペースとして適当でない。赤瀬川の『オブジェを持った無産者』現代思潮社刊を読んでいただきたい。赤瀬川の事件対処の考え、公判での辨護人辨論、特別辨護人の意見陳述、主要証言などが含まれて、本事件に興味を持つひとの必読の書である。

 辨護側証人申請は地裁段階で18名、高裁で3名。懇談会メンバーも総出で証人台に立った。出なかったのは私ひとりであった。今泉はどうするんだと誰かが聞いた「いや、このひとは不味いんです」杉本辨護士はそう云った。今泉を出すと模造が偽造容疑に変る怖れがある。最高刑は終身刑だぞとおどかした。こんなもんでまさか終身刑になんぞなりはしないが、求刑が厳しくなるのはたしかで、執行猶予なしの実刑判決の可能性が出てくると云うのだ。そんなわけで徹頭徹尾今泉を隠すということになった。問題は私が編集した雑誌『形象』8号に綴じ込んだ千円札の、のど元に打たれたミシン穴であった。この切り取り線は千円札を使うことをそそのかしていたからである。


今泉省彦

スリやカッパライと同断の刑事事件として赤瀬川千円札裁判を考えよと八百長、工藤(=今泉)は言った。
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説14)

仁王立ち倶楽部015(1987年4月発売)

 赤瀬川原平の千円札作品にかかわる、通貨及証券模造被疑事件の第一回公判は1966年の8月だったが、それに先立って新宿の椿近代画廊で裁判資金集めの『現代美術小品即売会』を開いた。7月である。そしてその前日に、同じ画廊で事情説明会をやった。5、60人も集っただろうか、どうせ時間を作っても、ろくに質問は出なかろうという、事務局の読みで、聴衆にあらかじめ紙をくばって置いた。回収したら面白い質問がひとつ混じっていた。大意はこうである。表現の自由の問題として、赤瀬川は無罪だという主張のようだが、芸術表現として人を殺した場合、やはり表現の自由を主張し、無罪だというのか。私はこれは面白れえとほくそえんだ。こういういじわるな質問をするのは誰だろうと見回した。宮川淳が最前列に長いあごをぶらさげて坐っていた。無記名で頼んだことだから、彼だったかどうか私は知らない。

 或る日、やはり千円札懇談会の帰りに赤瀬川と川仁宏、そして私とで喫茶店に坐っていた。私はそういうときは酒を飲みたいのだが、懇談会事務局長の川仁宏は下戸だし、赤瀬川はその頃酒が弱かった。「どうもすっきりしねえな」と3人とも思っていた。ジャーナリズムはひとわたり記事にしているし、8月公判迄のはざかいをにぎやかしになにかないだろうか、川仁はそのころおぎくぼ画廊を使って映画会をやる気でいた。資金集めとアピールである。私は八百長投書をしようと提案した。ふたりの同意を得てから翌日『日本読書新聞』編集部に電話を入れた。相手はいま北冬書房をやっている高野慎三だったと思う。OKを取ってすぐ原稿を送った。『死した芸術は裁けず』(工藤晋・公務員30歳)としてくれた。なんで工藤晋なんだと高野に聞いたら、なにしろ晋という名前が好きなんだそうで、晋という字に工藤という姓がなんとなく合うからだそうであった。なるほどその後彼は漫画評論をやるにあたって権藤晋というペンネームを名乗った。

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 一昨年の朝日新聞報道以来、どうせ人ごとでもあるが故の野次馬風も少々まじるにしても、赤瀬川氏の事件対処の推移について、とりわけ、いささか昨今影が薄くみえるとはいえ、ハプニング、イベント、ポップアート等、芸術一元論理に近いリアリストの生活対処の指針測定のためのモデルタイプとして注目していたのであるが、いわば、赤瀬川おまえもか、といった感懐を禁じ得なかった。

 私の考えによれば芸術は死んだのであるが、千円札事件懇談会みたいにまだ生きていると思う奴がいるなら、私の理論構築上、そいつらは芸術幻想を後生大事に抱いてるに過ないということになるのであるが、こいう神経症末期の荒廃した連中は、ただ寒空を眺めてしゃがんでいるだけというきわめて衛生無害なしろものであって、その勝手な夢がどうであろうと、社会秩序を犯すことなく、法の側から相手にしてもらえなかったのである。「一般論に還元した」場合に「芸術は裁かれるべきではない」ということは、それらが裁くに値しないからこそ、例えば裸婦の陰毛が黒々と描かれていても、高度に芸術的であるという理由において、すなわち、きわめて無害であるが故に不問に付されていたという事実の裏返しだと理解しなければ、赤瀬川氏がとりわけて裁かれるに至るその意味が消えてしまうのである。赤瀬川氏の問題は芸術一般に還元すべきではない。

 声明文によれば「取調べ検事は執拗に赤瀬川氏の意図を問い」「われわれもまたそれを問うている」そして「えらんで赤瀬川氏の場合を事件化したものの真の意図を問い返さねば片手落ち」だという。私には声明文全体の論脈、なかんずくこの引用個処からして、懇談会は赤瀬川氏は衛生無害だから見逃してくれればいいのに検事さんあんまりだと、愚痴をこぼしているという濃厚な印象を抱くのである。

 赤瀬川氏の模型千円札がそれでは法をもって維持されているところの社会秩序にとって危険であるか、模型千円札がひっそりと展覧会場に収まっているかぎり、それはなにものでもない。ハイ・レッド・センターの中西夏之氏の洗濯バサミが密集してタブローとなっているかぎり、あるいは高松次郎氏の紐の作品が展覧会場内でとぐろを巻いているかぎり、それは無害である。それが危険なものに変わるのは、作家の内心の意図の一端でもあり、同時に作品自体の意図でもある、人の手から人の手へと中継されながら増殖し、芸術なんぞという痴夢とは無縁の人々まで巻き込んでいく流通過程に、作家の手を離れて拡がる可能性を持つが故である。

 裁判対策はいずれ原則論と運動論との微妙なかね合いに触れながら立てられなければならないが、法に触れるところまで結局は行きつかざるを得なかった芸術のありようを、逆に法に触れることを恐れぬ加害者としての前衛に置き換えて行く論理の欠落を、私は千円札事件懇談会に指摘したい。そして赤瀬川氏の栄光のためにはむしろ、お祭り騒ぎなんかなしにして、スリやカッパライと同断の刑事事件として人知れず裁判を通過すべきだったと思うのだ。

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 これは7月25日号に載った。その直後の懇談会でこの投書のことが話題になった。美術評論家の石子順造が、これは真面目な批判だから、懇談会としてちゃんとした対応をすべきだと云った。同じく美術評論家の中原佑介がちょっといじわるな顔をして「今泉くんがやったら」と言った。「えっ、おれがあ……」いくらなんでも自分が書いたものである。しばらく考えた。そうか、自分で書いたものに自分で反論するのも悪くないな、どうせ賑やかしに仕掛けた罠ならば、自分で落ちたところでどうっていうことはないと思った。そして、なにより、あんまり固辞すると、問いつめられて自分が書いたと白状しないわけにはいかなくなりそうであった。中原は私の仕業だと見抜いていたに違いないのだ。「いやあやるよ」とは云ったけれど、やっぱりどうも面白くない。私の投書に私が反論すればそこで終ってしまう。続けなければ意味がないのだ。

 翌日、懇談会を欠席した高松次郎に電話した、「読書新聞の投書読んだか」読んだと云った。「あれは真面目なちゃんとした議論だし、懇談会としてきちんと対応すべきだということになったんだけど、君、書かないか」ほかに誰かいないのかと聞くから、今泉が書けということになったのだけど、君の方がいいと思うと云った。高松はしばらく考えてから書くと云った。


今泉省彦

千円札模造と殺人との間に表現の位相差はないのだと私は高松次郎に答えた
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説15)

仁王立ち倶楽部016(1988年5月)

 日本読書新聞の工藤晋こと私の八百長投書に対する返事は、同紙1966年8月8日号に載った。高松次郎である。高松は私が書いたとは知らないから、彼の返事は八百長ではない。『限りなき問いのために−工藤晋「死した芸術は裁けず」にふれて』とタイトルされている。この手の文章は掲載紙と共に消えてしまうものだから、この際全文お眼に掛けて置く。

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 7月25日号、本欄、工藤晋の投書に対し、ハイレッド・センター及び、千円札懇談会の一員としてお答えしたいと思います。しかし、この一文は決してそれらの集団の統一的意見ではなくあくまでも私個人の考えであることを前置きしておきます。

 工藤氏の論旨を要約すれば、次のようなことだったと思います。今日、芸術はすでに死滅しており、そういうことをも実証したはずの赤瀬川の活動に対して千円札事件懇談会は、死んだはずの芸術をひきずりだし、その名のもとに法に対処しようとしている。それは、法に触れるところまでいかざるを得なかった「芸術活動」のポイントを棄却してしまっているのではないか。大体こういうことなのだろうと思います。その一文から、工藤氏はハイレッド・センター及び、赤瀬川の活動をよく理解されていることが分かります。しかし、一つの最も重要な点に関しては、あまり理解されていないようです。もっとも、そのことは「理解」されるべきものではないといえるかも知れません。それというのも、それが「問い」という問題だからです。すなわちそれは我々にとって、芸術とか生活とかを分離して考える以前の命題、「自分にとって最も重要なものは何か」という問いであります。「対社会性」というテーマを取りあげたのも、それ以外にグランドやモチーフがないからに過ぎません、そして、工藤氏が指摘されるような「芸術の死」ということは、いまだにハイレッド・センターでは結論ずけられているわけではないのです。問題がそれ以前のところにあるからです。ただ、我々が行なった活動に言葉をあてはめようと思うとき、正確ではないが、しかし「芸術」という言葉が最も近いといえるかもしれません。千円札事件懇談会が「芸術」という場合、その意味を無理なほど拡大していることは確かでしょう。実際は新しい言葉が必要なのです。「問い」は、何らかの回答を要求します。われわれは、そのような問いを問うための数多くの実験の中から、答えは暗い灯台の足元にしかないと思うようになりました。すなわち、答えは問そのものの中にしかない、“問う”というその思考性こそが重要なのだということです。だからそれは、難解なほどよいわけです。赤瀬川の千円札をモチーフにした作品もこのような線にそったものです。しかし解答のないところに解消させることの困難な誤解が生じます。それが人間にとってあまりにも当然の創造であることを論評するには今迄にない言葉、新しい形而上学や法学が必要になるからです。いずれにしろわれわれが大切にしなければならないことは〈創造としての闘い〉にたいする論理の厳密な正確さであります。ですから、ばかばかしい認識のされかたや、つまらない断定、無意味な束縛を受け入れるわけにはいきません。問題は、「表現の自由」ということである以上に、自由そのものの問題であるということを理解していただけないでしょうか。(ハイレッド・センター)

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 私こと工藤晋はすぐに反論を書いた。日本読書新聞というのは書評週刊誌としては名門だが、なにしろ週刊だから、発行されてすぐ反論しても、掲載は翌々週になる。工藤こと私の八百長が載ったときは赤瀬川原平の千円札事件第一回公判の後であった。公務員・30歳の投書は「『あいまいな海』いまいずこ」というタイトルになった。

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 僅かな字数の中でしか、発表出来ないという、読者の宿命を承知の上で、兎角の議論をしようというのだから、委細をつくした話にはならぬのであって、芸術は死んだという断定の根拠を明らかにするためには、私の乏しい力量では一冊の分厚い本が必要であろう。高松氏の「お答え」も、その点では同じ条件にあるので、なるべく揚足とりにならぬようにしたいのだが、私はなにも「“芸術の死”ということ」をハイレッド・センターに公認して貰いたいのではない。ハイレッド・センターについていうなら、その誕生が頗るつきの芸術の卵の殻をお尻につけているとしたとしても、そんなことは無縁なものとして流通する可能性を示唆している点で評価したいと私は考えるのである。この辺の問題については別に緻密な議論をしたいものだと思うのだが、差し当っては「千円札事件想談会が『芸術』という場合」赤瀬川氏の作業の「その意味を無理なほど矮小化していることは確か」だと云っておこう。懇談会は「十人十色」で「統一的意見」が出し難いだろうとは思うが、にも拘らず、千円札事件アピールは懇談会の名において出されているのであって、従って私の指摘に対しては「個人の考え」ではなく、どうせ解答してくれるなら、懇談会の考え方を聞かせて欲しいものである。

 7月15日の椿近代画廊での事情説明会を拝聴したが、その際、誰からだか知らぬが、こういう質間が出された。「表現の自由の問題として、赤瀬川氏は無罪だどいう主張のようだが、芸術表現として人を殺した場合、赤瀬川氏はやはり表現の自由を主張し、懇談会はやはり無罪だというか」   

 司会者はきわめてラジカルな質問であると云いはしたが、懇談会のメンバーは真っ向から質問に答えることはせず、赤瀬川氏も又、そのときになってみなければ見当がつかないというふうなことを、歯切れ悪くしゃべって躱していた。要するに大人気ない質問だから答えるに値しないとでも思ったのであろうか。高松氏が「“表現の自由”ということである以上に、自由そのものの問題」だというのは、憲法条項としての「表現の自由」ではなしに、自由そのものの間題だという正論なのだろうが、いかにも我々には殺人の自由も又、あるのである。

 この質問者の誤りはここにある。一つは基本条項であろうとなかろうと、法秩序の既存の形態を前提にしているという誤り、ここからして、この裁判対策を質問者も矮小化しているのであって、従って無罪主張が殺人に及ぶかという、低次の議論になってしまうのである。

 我々はまず、憲法に規定されているが故に「表現の自由」があるのではないということを胆に銘じておく必要がある。そんな憲法規定なんぞ豚に喰わしてよろしい、そして殺人は表現だというあたりまえな事実から眼をそらすべきではないのである。千円札模造と殺人との間に表現の位相差を探す必要はない。懇談会は自由に、よしんばそれが殺人であっても、権力による裁判は不当だというべきであった。何故ならばそのアピールには「どだい芸術家がそのモチーフおよびテーマを選択するにあたって法律の規制を蒙ってはならない」とあるのである。そして質問者のもう一つの誤りは云っても無駄な相手に「問い」を発していたのかも知れないということである。さて、「十人十色の異見」という隠れ蓑で誤魔化されては意味がない。説明会で千円札模型についての独自な見解を出しておられた石子順造氏に伺いたい。千円札懇談会の欠陥は私の指摘した点にありや否や、赤瀬川氏の「あいまいな海」いまいずこ(公務員・30歳) 

                  *********


今泉省彦 

そして、赤瀬川千円札裁判が始まった
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説16)
 
仁王立ち倶楽部017(1989年2月発売)

 日本読書新聞に変名で投書したそれへの反論を、お前がやれと云われてこりているから、今度はへまをしない。美術評論家石子順造名指しで返答を要求した。石子の返答は1966年10月3日号に載った。『権力もまた幻想の構造体---工藤晋「“あいまいな海”いまいずこ」に答える』というタイトルである。

                  **********

 御指名により本誌9月5日号本欄の工藤晋氏にお答えします。貴兄は千円札懇談会が、「十人十色」のまさに懇談するための集まりにすぎないことを認められながら、「懇談会の考え方を聞かせて欲しい」と望まれ、「〈十人十色〉という隠れ蓑で誤魔化」すなと釘をさした上で、会の一員である私個人の意見を求めておられます。貴兄の御要望をどのような形で満たせばよいものかと、ぼくもいろいろ考えたのですが、ぼくが会を代弁できるわけでもなく、また会は「隠れ蓑」としてつかえる代物でもありませんから、やはり私見を述ぺるしかないのです。ぼくはハイレッド・センターの諸活動を、ぼくたちの日常感そのものにひそむ不条理性に迫る作用力として評価しております。また赤瀬川原平の千円札模型については、同型同大で粉らわしくかなりの量を印刷したという、検察側の起訴と全く同じ理由で、従来までの芸術とは異質な、独目な機能を果す〈芸術〉作品と見なしています。いわゆる近代主義的な主体論のカテゴリーで捉えられる芸術というのなら、ぼくもそのようなものは死減さすべきだと考えます。制度によってのみ実体化する紙幣は、国家権力を集約的に象徴します。しかもぼくらの生の欲望が紙幣に対する欲望に還元できるほどにも、物によって囲繞され、疎外されているとすれば、存在回復の志向が、紙幣を透過してそこにぴったりはりついた日常性の背後の、現実の幻想性に向うのは当然だと思われます。ぼくはすでに赤瀬川のこの仕事について「〈描く〉という行為をもっとも象徴的に行為した」好例であり「共同体そのものの成立を、権力を軸とした幻想構造として、視線のなかに組みこむような手順で逆倒してみせた」(「眼」12号)と書きました。そこでぼくは、赤瀬川は「スリやカッパライと同断の刑事事件として人知れず裁判を通過すべきだった」といわれる工藤氏には同意できかねます。赤瀬川の作品行為は、スリやカッパライと同じ地平で、なおそれをこえて現実の幻想性、欲望の不条理性にかかわっていこうとする、存在回復のための表現行為だったと思うからです。彼はその本来の筋道からいえば、「人任かせ」で裁判を通過すればよいといえると思うのです。工藤氏は「芸術幻想」といわれますが、権力もまた構造体としての幻想に過ぎず、裁判はその具現である演劇以外の何物でもありますまい。しかし逆倒的には判決によって、被告のかけがえのない肉体でその幻想をあがなわせることで実体化します。であってみれば自ら一個の幻想への権利である表現行為が法によって裁かれるのはそもそも不当です。貴兄の御指摘のとおり、表現の自由は憲法に規定されているからあるのではありません。なお7月8日号本誌に「声明文要旨」とあるのは正確でなく、懇談会事務局で作文した「事件の経緯とアッピール」要旨であることも一言付け加えておきます。

                 ***********

 石子は後でどうも今泉さんがくさいとは思っていたと云った。

 さて話を8月迄戻さなければならない。赤瀬川原平千円札模造事件の第一回公判は、この投書のやりとりの途中で開かれた。8月10日朝10時からの予定であった。定刻迄に杉本昌純辮護士、特別辮護人瀧口修造・中原佑介・針生一郎、千円札懇談会のメンバー、被告人の印刷屋等事件関係者、そして傍聴者が多数つめかけていた。法廷は701号、傍聴の多い事件に使われる部屋である。皆、廊下で立ち話をしていた。来ないのは肝腎の赤瀬川原平であった。杉本辮護士はあたふたと駆け回って、書記官と話を付けた。確か20分か30分開廷が遅れた。被告人意見陳述の原稿ができなくて、赤瀬川は徹夜したのであった。

 3人の裁判官が入ってくると、廷吏の号令で起立させられる。それから始まった第1回公判の模様については赤瀬川の著書に詳しい。巷間に法廷ハプニングと喧伝された出来事などの詳細はそれで読んでいただく方が、私は手がはぶけて有難い。午前中の審理は裁判官の人定質問から始って、検事の起訴状朗読、辮護人の起訴状に対する求釈明、検事の求釈明に対する釈明、被告人3名の意見陳述と型通り進んだ。昼休み休廷、午後1時再開ということになって、簡単な食事を摂って戻ってきた。廊下のソフアーは関係者で満席だし、居るところがないから法廷の傍聴席に坐って居眠りしていた。ところが意外なことになった。廷吏の声で眼を開けたら、被告席に腰縄を打たれた青年が立っていた。裁判官も検事もいた。いかにも国選辮護人という風のたよりない感じの老辮護士もいた。座っていてはいけないみたいでドアーをみた、廷吏の手で閉められていた。判決云い渡しであった。被告人を強盗致傷道路交通法違反により懲役7年に処する。老辮護士は裁判官に深々と頭を下げた。青年は拘置場から刑務所へ身柄を移される。警務官が手錠を掛け、腰縄を引いて退廷すると、同じ裁判官、検事、辮護士で、別の被告が入ってきた。20代後半のサラリーマン風の男で、鉄道定期券の日付改ザンで捕まったのであった。判決は懲役1年執行猶予3年、いずれも判決云い渡しの後で、本人の将釆をおもんぱかった最低の刑であって、二度とこういうことをしないようにという裁判官の説諭が付いた。午前中のなんら罪の意識のない華やいだ公判とはおよそ別種の、家族や友人・知人の傍聴もまるでない、それは裁判であった。私はうかつに居眠りしていたばかりに、目撃しないわけにはいかなくなったひとの恥じを恥じた。工藤晋こと私が「スリやカッパライと同断の事件として裁判を通過すぺきであった」と書いたばかりの時である。10分ほどの白昼夢のような出来事であった。

 午後1時公判再開。特別辮護人の意見陳述、杉本辮護士の意見陳述、検事の冒頭陳述と進んで、検事側の証拠申請に入る。そこで検察側押収の証拠品が廷内に並べられ、一つ一つが被告人赤瀬川原平のものであるかどうかが裁判官によって確認される。同じく千円札写真製版原版が被告人の印刷屋2名の所持していたものであるかどうかが確認された。次には辮護人の冒頭陳述があって、辮護側の証拠申請となる。辮護側証拠物はそこで法廷内に持ち込まれた。なにしろ量が多いから、傍聴人といえども手伝わないわけにはいかない。千円札懇談会の川仁宏・中西夏之・高松次郎・私は傍聴席を離れて廊下に山積みになっているそれらを法廷内に運び入れた。


今泉省彦

終わりに
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説17)

*以下の部分は80年代に原稿を戴いていたものの仁王立ち倶楽部中断のため発表はされていません。よってこのWebでの初めての発表となります(1999.7.15 荒井記)

 赤瀬川原平千円札模造被疑事件の第一回公判での弁護側証拠申請は、日本の先鋭な現代芸術が一体どんな具合になっているのかということに力点を置いたものであった。そして赤瀬川が美術家だということと、ハイレッド・センターのメンバーだったということもあって、その種の美術家の作品や、ハイレッド・センターの物品などが主たる証拠物であり、したがって、時ならぬ現代美術展が法廷内でくりひろげられることになるのであった。廊下に山積になっていたそれらを、証拠申請となるとはこびこまなけれならない。芸術品となると廷吏よりは傍聴人の吾々の方が得手である。千円札懇談会事務局長の川仁宏、メンバーの中西夏之・高松次郎そして私は傍聴席を離れて廊下から法廷内へ、証拠物を運び込んだ。それらはとりあえず弁護人席の後の長机の上に並べられた。ところが高松次郎の作品は、三尺真四角のベニヤ箱の中でとぐろを巻いていて、外からは見えない。紐の作品なのである。「箱から出せよ」「いいのかなあ」と高松が云った。「いいから出せ」それから私は杉本弁護士に「あの紐を伸ばしていいか」と聞いた。「あの作品は伸ばさないと意味がないんだ」。杉本は「判った」と云った。高松の作品だから本人がやるのが一番いい。高松は法廷から傍聴席へ紐を引っぱっていって、誰かれの首や肩にひっ掛け回した。私は傍聴人席に戻って、高松に紐を掛けてもらった。そして遠慮勝ちに裁判官席の方にも紐は延びて行った。内心、裁判官や検察官に掛けてやればいいのになあと思った。それをきっかけとして、赤瀬川・和泉達・川仁・中西の等身大背面裸体の青写真が法廷内を横断して掲げられたり、中西作品として無数の洗濯ばさみに挟まれた人物が法廷内をうろうろ歩き回ったりという始末になったのであった。公判は11回続いた。11回目は判決公判で1967年6月、赤瀬川は懲役3ヶ月執行猶予1年、印刷屋の2名は懲役1ヶ月執行猶予1年であった。印刷屋の2名はこれに服し、赤瀬川は控訴した。高裁判決が原判決支持で最高裁へ、最高裁も又、控訴棄却で結審したのが、1970年5月であった。

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 エロ本出版の大手、アリス出版のアルバイトで、自動販売機用のオナニー雑誌『クリス』の編集をやっていた荒井真一君から、原稿を頼まれたときは驚いてしまった。「ほれさ、ハイレッド・センターの頃のさ、色々あるじゃない、書いてよ」、おまえさんの役に立つならなんでもやるよと引き受けてから原物の雑誌を渡されて、あれれと思った。俗に自販機本と云われるこの手の雑誌を買うのは、にきびの出始める小学校高学年から、中学生、高校生低学年ということになろう。この年代の男の子達が、荒井君が云うようなテーマの文章を読むわけがないではないか。「いいんです、おれだってこんなのやってんの馬鹿々々しいから、自分の興味のある勝手なことをやりたいんです」、竹田賢一氏も書いていた。原稿料も安いけど出すと云われた。何回だ、11回連載です。始めてみると、アリス出版があぶないという噂が耳に入った。そしてこの雑誌『クリス』は私の連載7回目でつぶれてしまった。私は連載物になれていないから、1ヶ月置きにものを書くのは面倒であった。時間がたつと、その次何を書くつもりだったか忘れてしまう。その都度資料を引っぱり出すのは馬鹿らしいから、荒井君からさいそくがある前に勝手にどんどん書き進めていたから、つぶれたときにはあと4回分が荒井君の手元に残ってしまった。私は無理をするこたあない、掲載出来なかった分は返してくれればいいよと云うのだが、彼には彼なりのほかの事情やら自負やらがあるらしかった。雑誌『クリス』はつぶれたけど、好き勝手をやっていた欄『仁王立ち倶楽部』を続けます。そのかわり原稿料は払えませんと云った。そんなことはかまわない。11回では終わらなかったし続けて書くということにした。そんなわけであった。

 

 私は執筆に当たって、あくまでハイレッド・センターとその周辺で私がかかわったことだけに限定して書いた。赤瀬川が東京地検から起訴された時期には、事実上ハイレッド・センターの活動は停止していた。そして赤瀬川の千円札はハイレッド・センター結成以前に意図されたものだから解釈の仕方でははずれてしまうかも知れない。しかしながら、一審裁判はまぎれもなくハイレッド・センター的に動いたとも云えるのである。そんなわけで、この連載はここで終了とするのが至当と判断するのである。

 終わりにのぞんでふたつだけつけ加えることがある。赤瀬川の『東京ミキサー計画』パルコ出版刊は、云ってみればハイレッド・センター総集編であるが、ここにはハイレッド・センターを名乗ってやった仕事について欠落がある。発足頭初、高松次郎のやったことで、6センチ真四角くらいの紙に、渦巻き状の線条が印刷されたシールであって、この線条の先端から任意につなげた落書きを要請する短い文が刷り込まれていた。国電その他の公衆便所の、大便所の壁に貼り回った。あとで高松に結果を聞いたけど、まったく失敗らしい。これは高松の紐の作品の延長にあるのであって、ハイレッド・センターのというよりは、高松のハイレッド・センターへのかかわりよう、あるいは、高松の発想にかかわる重大な鍵だと私は思っている。

 それからもうひとつは、私がハイレッド・センターを名乗ってやろうとした唯一のことである。これは、美術手帖1971年何月号であったか、美術評論家石子順造の書いた論文の後を受けて書いたものの末尾に記載されているから転載する。

 「私はハイレッドセンターのイヴェントの発案や実行に直接かかわったことはないと書きました。それはやったこととして顕在化している。和泉達の作品による101から139までの内にあるイヴェントの発案や実行に直接かかわったことがないという意味です。やらなかったこととして、顕在化せず、和泉達の101から139のリストに含まれていないイヴェントの発案と実行には、ハイレッドセンターの諸君とはかかわりなしで、ハイレッドセンターとしてかかわっています。芸術の卵の殻が尻にはりついてはなれないままに、ハイレッドセンターの活動が終焉に向かいつつあり、日韓闘争が総評、社共指導部のサボで風化するのが見えている時期に、ある集団がアメリカ大使館に乱入する計画をたてていました。私はそのことによって開かれていく情勢の変化は踏めない。これは一場のハプニングでしかないそれと、芸術の卵の殻から抜け切らないハイレッドセンターをごったまぜにしてみたらどうか。〈サイゴ テキハプニング ニサンカサレヨ〇〇ヒゼ 七ジ アメリカタイシカンマエ ハイレッド センター〉ところがその集団は実行日前夜の会議で計画を中止してしまった。」



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