聖書に関するQ&A

    Q.15 新約聖書のイエス・キリストが柔和な方なのに、旧約聖書の神はなぜ恐ろしいほど厳格な神なのですか?


 Q.14 マタイ福音書1章のイエス・キリストの系図が人としての主イエスと血のつながりのない義父ヨセフの系図なのはどういうわけですか?

 A. マタイ1章の系図は義父ヨセフの系図ですが、ルカ3章の系図は血のつながりのある母マリヤの系図です。共にダビデ王の家系です。マタイの系図は神の選民イスラエル民族の始祖アブラハムから始められて、義父ヨセフに至っています。
 ★マタイ福音書はイエスがイスラエル民族の待ち望んでいたメシヤ・王なるキリストであることを示すために、法律上の父ヨセフがダビデ王の子孫であることを特にユダヤ人に明示しています。しかし、11節に登場するエコニヤは、エレミヤ書22:30で、「彼の子孫の中からダビデの王座に着いてユダヤを治める者は出ない」と預言されています。従って、人の子としての主イエスがヨセフの血をひいていたと仮定するとダビデの王座に着けなかったことになります。
 ★ルカ福音書はヨセフの義父つまりマリヤの父ヘリからさかのぼってダビデ王、アブラハムを通って人類の始祖アダムに至っています。ルカ3:23でヘリはヨセフの父とされていますが、マタイではヨセフの父はヤコブとなっています。これは、次の理由からルカの記すヘリがマリヤの実父であり、ヨセフの義父であることが分かります。すなわち、マタイとルカの二つの系図はヨセフからダビデまでの間でサラテルとゾロバベルの二人の名が共通しているほか、両系図は全然違う先祖達の名が記されているからです。
 ★マタイ福音書が主イエスをユダヤ人の待望していた王なるメシヤとしてユダヤ人に提示しているのに対して、ルカ福音書は我々日本人を含めた異邦人に、人の子となられたキリストを提示しています。そのためルカ福音書の系図はマリヤの実父ヘリから始まってダビデ・アブラハムを通過して人類の始祖アダムにまで至っています。すなわち、それによって、主イエスがユダヤ一国の王ではなく、全人類の救い主であることを証言しています。
 ★ついでながら、マルコ福音書はへりくだった主のしもべとしてのイエスを描いています。そして、ヨハネ福音書は神の1人子としての主イエスを語っています。4つの福音書はこのようにそれぞれ別の視点からイエス・キリストとその生涯を立体的に描き上げているのです。


 Q.15 新約聖書のイエス・キリストが柔和な方なのに、旧約聖書の神はなぜ恐ろしいほど厳格な神なのですか?

 A. 
主イエスは「私と父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言われました。それは、御子キリストが父と同質の神性を持っておられることの証言です。また、主イエスはご自身の業は、御父の業を見てその通りに行なっているのであって、父の業と御子の業も一つであり、同質のものである(ヨハネ5:19)と言っておられます。従って、旧約の神と新約のキリストとは根本的に一体であって、ご性質に違いはないのです。
 ★それでは、両者が違うように見える原因は何でしょう。旧新約全聖書という完成した神の啓示をもつ私達にして言えることは、十戒の第一戒、二戒
(この戒の違反の代表的なものがカトリック教会のマリヤ崇拝です)に示された偶像礼拝の罪を、如何に神が憎んでおられるかを旧約の神は、異邦人の絶滅命令において表し、この恐ろしい罪と裁きからの救いの道がイエス・キリストのほかにないことを示すために、新約聖書の神は御子キリストにおいて、柔和と謙遜の限りを尽くして私達にこの唯一の救い主を信じてもらおうと切望して居られるのだ(2コリント5:18〜20)という事です。旧約の神もニネベの人々がヨナの説教によって悔い改めた時、彼らを憐れみ、彼らに対する裁きを思いとどまられたのです(ヨナ3:10)
 ★今日の私達の同胞が平気で行なっている偶像礼拝(一例として神社仏閣や仏壇の前での礼拝行為)が地獄の火と硫黄の燃える池で永遠にもだえ苦しむ裁きに価するほどの恐ろしい罪であること(黙示21:8)を、私達に分からせるために、当時悔い改めなかった偶像礼拝者である異邦人に死刑を執行することで明示されたのです。「これらの事が彼らに起こったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいる私達に対する訓戒のためである」
(1コリント10:11)
 ★神は悪人(偶像礼拝者)の滅びを喜ばれません
(エゼキエル33:11)。彼らがその道を悔い改めて、主イエスを信じて救われることを願っておられます(2ペテロ3:9)。神は、この救いの道についての「よい知らせ」(ゴスペル・福音)を私達に強制されることもなく、キリスト教会の伝道活動に任せられたのです1コリント1:21)。信じるも信じないで通すのも全く福音を聞く本人の自由なのです。しかし、その結果は本人が刈り取ることになります。
 ★「旧約の神による異邦人虐殺命令は世界人類史上にしばしば行なわれてきた民族対民族の大量虐殺の一つに過ぎない。旧約の神は残虐だ。」と非難する人々は、偶像礼拝とそれにまつわる罪の恐ろしさを全く知らない人々です。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すと死を生みます」(ヤコブ1:15)と聖書は言っています。肉の欲から生まれた罪は、無邪気な子供のように見える初期段階から醜悪なものへと長年月をかけて変貌を遂げて行くものなのです。「うそは泥棒の始まり」と言う諺にある通りです。
 ★アブラハムが約束の土地カナンにたどり着いたころは、この地の人々は、偶像礼拝者とは言えソドム・ゴモラなどの例外もありますが、比較的善良でした。しかし、それから約500年後にモーゼがエジプトからイスラエル民族を率いて出てシナイの荒野を40年さまよった後、世代がモーゼからヨシュアに移った頃のカナンの地での偶像礼拝の罪は爛熟し、その醜い姿をさらけ出していました。神殿付き男娼との男色行為が礼拝行為とされ、幼子を礼拝の中でいけにえにする等の目に余る行為が行なわれていました。遺跡の発掘調査によってそのことを知った考古学者が、神は何故もっと早く彼らを滅ぼされなかったのかといぶかるほどの堕落ぶりだったのです。
 ★今日の世界の霊的・道徳的状況は古代のカナンの状況に等しいか、少なくともそれに近い状況にあると思われます。キリスト再臨(世の終りの日)が真近であるといわれる所以です。
 
「それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」
(1コリント10:14)



URL http://31church.net
キリスト紀元2004年 12月  30日公開


6
ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net