聖書に関するQ&A

       Q11 異言とは何ですか?

 Q.10 主イエスがイチジクの木を枯らせた出来事は、キリストの行いとして相応しくないと思えるのですが?

 A.天地の造り主にして裁き主であられる方の行いとしてきわめてふさわしく、かつ妥当な業でした。その訳を説明します。
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「翌日、彼らがベタニヤから出かけて来た時、イエスは空腹を覚えられた。そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからご覧になって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当たらなかった。いちじくの季節でなかったからである。そこで、イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように』と言われた。弟子達はこれを聞いていた。・・・朝早く道を通っていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た」(マルコ11:12〜20)
 ★実がついてそれから葉が茂るのが順序なので、葉を茂らせていたこのいちじくの木は、季節はずれであっても実をならせていることが期待されて当然でした。問題は、主イエスは、なぜ近寄って確かめるまでそれが分からなかったのか、という点です。主は知っておられたが、知らないふりをされたという人がいるかもしれません。
 ★そうではなく、この時主は空腹を覚える人間として行動しておられたので、木に近寄るまで実がないことをご存知なかったのです。主イエスは神性と人性の両性をもつ方、人となった神であられますが
(ヨハネ1:1,14)、地上では「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって己を空しくして僕のかたちを取られた」(ピリピ2:6,7)お方です。空腹や乾きを覚え、疲れては眠る必要のある生身の人間でもあられました。人間としては、スーパーマンではなく、罪は犯されませんでしたが、すべてにおいて私たちと等しい人間であられました(ローマ8:3;ヘブル4:15)
 ★荒野の誘惑でサタンの試みを受けられた時、「神の子ならこれらの石にパンになるよう命じてごらん」
(マタイ4:3)と誘われても、「人はパンだけでいきるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる者である」(同4:4)と答えて、サタンの誘惑を撃退されました。主は神の子としての権威を自分の人間としての欲望を遂げるために使用することをサタンの悪知恵として拒否されたのです。ですから、5000人を5つのパンと2匹の魚で満腹させなさった力(マタイ14:15〜21)をご自分と弟子達の食生活には用いられず、普段の食事は弟子達に買いに行かせています(ヨハネ4:8)。従って、木に近寄るまで実がないことを知らず、実のない木に実をならせるような奇跡(民数記17:8)も起こされませんでした。
 ★主はまたこう言っておられます、「子は父のなさる事を見てする以外、自分からは何事もすることができない」
(ヨハネ5:19)。「私は自分からは何事もせず、ただ父が教えてくださったままを話していたことが、分かってくるであろう」(ヨハネ8:28の後半)。ですから、いちじくに実がないと分かった段階で、父から「木を呪って枯れさせよ。そして、それを教材として弟子たちに説教せよ」との教導を受けてなさったことであって、不信仰な人々が想像するように、腹いせに木を呪ったのでは決してありません。
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ペテロという弟子は主が受難の予告をなさった時は、「主よ。とんでもありません。そんなことはあるはずがありません」と言っては主に叱られたり(マタイ16:21〜23)、長血の婦人が主の衣に触れて癒された時、主が後ろを振り向いて「わたしの衣に触れたのは誰か」と問われると、「主よ。こんなに多くの群集があなたに押し迫っているのに、『触れたのは誰か』と言われるのですか」と真っ先に口出ししています(ルカ8:43〜48;マルコ5:31)。もし、主がその時なさった事が主に相応しくないことであるなら、その場にいたペテロが一言発言するはずですが、ペテロは何の疑問もはさんでいません。
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いちじくの木を枯らす出来事は、二つのことを教えるための実演されたたとえ話であり、教材でした。一つは、この記事と並んで記されている宮清めの業(マルコ11:15〜18)に示されている、葉ばかりで実のないイスラエル民族と未来のキリスト者に対する警告です。もう一つは、信じて祈れば、願いは実現することを教える教訓(マルコ11:21〜25)でした。
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主は当時のユダヤ教の指導者である、律法学者やパリサイ人を断罪してこう語っておられます。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなた方はわざわいである。杯と皿との外側は清めるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側を清めるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう」(マタイ23:25,26)。彼らは形式と言う名の葉を茂らせていながら、愛、善意、誠実、きよさ、正義、寛容、あわれみといった実を結んでいませんでした。主が実を求めて近寄って来られる再臨の日に、私たちキリスト者も同様に裁かれねばなりません(1ペテロ4:17)
 ★もう一つの教訓は、「何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう」(マルコ11:24)、です。これはまた、「私を強くして下さる方(主イエス・キリスト)によって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)、という教訓でもあります。
 ★主は、いちじくの木を枯らすことによって、いちじくの木を無駄にされたのでなく、上記の二つの警告と教訓を人類に示すための教材として、この木を尊く用いられたのです。「神の愚かさは人よりも賢い」(1コリント1:25)のです。聖書を書かれた神の御霊より自分の方が賢いと思わない人は幸いです。


 Q.11異言とは何ですか?

 A.異言とは、聖霊が与える超自然的な九つの賜物の一つであって(1コリント12:4〜11)、聖霊のバプテスマ(使徒1:8;マルコ1:8)によって聖霊に満たされたキリスト者が、自分の知らない(聖霊が語らせて下さる)言語で神を賛美したり、祈ったり、預言を語ったり、神に奥義を語ったりすることです。その異言は現在、地球上で使用されている何千という数の国語や方言の一つである場合もあるし、現在は死語となっていて実社会で使われていない古典ギリシャ語、ラテン語などこれまた無数にある古代語の一つで語られることもあります。
 ★九つの聖霊の賜物の一つに「異言を解き明かす賜物」もあります。異言の解き明かしは通訳や翻訳ではなく、文字通り解き明かしあるいは解説というべきものです。旧約聖書のダニエル書に、異言とその解き明かしの実例を見ることができます。といっても、この異言は人を通して働かれる聖霊の賜物ではなく、神による直接の奇跡であり、語られた言葉でなく、書かれた言葉という違いがあります。
 ★バビロンの王ベルシャザル王は父王がエルサレムの神殿から分捕って来た金銀の器で臣下らと共に酒を酌み交わし偶像の神々を賛美していました。その時突然人の指のようなものが現れて宮殿の壁に見知らぬ外国の文字を書きました
(ダニエル書5章)。この時、バビロンの王宮の高官として仕えていたユダヤ人ダニエルが呼び出されて、壁に書かれた異言を解き明かしております。壁に書かれた異言は「メネ メネ テケル ウパルシン」と短い言語でしたが、ダニエルの解き明かしはその数倍の長さのことばで解説されています。異言とその解き明かしの関係は通常このダニエルの場合のようなものです。
 ★解き明かしの伴った異言はほとんど預言と同じ働き
(1コリント14:3)をしますが、解き明かす者がいない集会や礼拝では、異言は語らないようにと使徒パウロは聖書の中で指導しています(1コリント14:28)。と同時に、異言を語る者はその解き明かしの賜物を祈り求めなさいと、奨励しています(1コリント14:13)
 ★異言を個人のデヴォーション(密室の祈り)の時に用いることを聖書は奨励しています
(1コリント14:28;14:4)。「預言は教会の徳を高め、異言は異言を語る本人の徳を高める」と聖書は言っています(1コリント14:4)。この「徳を高める」という言葉(オイコドメオー)は、家を「建て上げる」、「建設する」という意味です。聖霊の宮としての私たちキリスト者の霊、精神、身体の全体をビルドアップするという意味をもっています。「徳を高める」という訳は精神面だけの効力を表しますが、「オイコドメオー」はもっと大きく強力で深い効果を表す言葉です。他の誰よりも偉大な働きをした使徒パウロが、他の誰よりも多く異言を語ったと言っているのもうなずけます(1コリント14:18)
 ★異言は、百年前にアメリカの聖書学校で再発見されるまで、新約聖書の中に眠らされていた、といわれますが、よく調べて見ると、そうではなく異言は教会の歴史の中で出現しては忘却されることの繰り返しを経てきた事が分かります。有名なフィリップ・シャフの「キリスト教会史」の中でも、異言をはじめとする聖霊の賜物は2〜3世紀まで活用されていたと述べられています。また16世紀の宗教改革者カルヴァンは、1コリント14:5の「わたしは実際、あなたがたが一人残らず異言を語ることを望む」の注解の中で次のように記述しています。「今日、異言の知識は必要以上となり、神は最近、たたうべき恩恵によって、異言を暗黒の状態から引き出し、光のうちに置きたもうたのであったのだが、それにもかかわらず、いまだに異言を悪く言ったり、やっきになって反対論を放つ大神学者は後を絶たない。けれども、今こそ私たちが理解するように、聖霊は、この聖句で異言を不朽の賞賛をもって飾ろうとされたのである」。

 ★今日、異言をはじめ聖霊の賜物は世界のキリスト教会において高く評価され、異言を語る人々はカトリック・プロテスタントの垣根を越えてほとんどすべての教派に存在し、超教派運動となっています。しかし、残念なことに、わが国のキリスト教会には異言にアレルギー反応を示し、聖書の教え(「異言を語ることを妨げたり、禁止したりしてはならない」1コリント14:39)に逆らい、異言を禁止する教会が多くあります。
 ★1コリント14:5で聖霊が使徒パウロを通して「すべてのキリスト者が異言を語ることを望む」とその御心を表明しておられますが、あくまで聖霊の希望であって強制ではありません。異言などの聖霊の賜物はキリスト者生活をパワーアップするために神様が用意してくださったプレゼントであり、道具です。これを無視すると救われないとか、永遠の命を失うとか言うことはありませんが、贈ったプレゼントを無視されれば、贈り主が悲しむように、聖霊を悲しませる態度であることに間違いありません(「神の聖霊を悲しませてはいけない」
エペソ4:30)。異言や預言について更に知りたい方は、第二部メッセージをご覧ください。


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キリスト紀元2003年 8月 30日公開


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