聖書に関するQ&A


 Q.32 死後にキリストを信じて救われるセカンド・チャンスはあるのか?

 Q.31 預言者エリシャが自分をからかった小さい子供たちをのろって熊に襲わせたのは、やり過ぎでは?

 A.質問にある預言者エリシャの出来事が記された聖書の個所を下記に引用します。

聖書
 「彼はそこからベテルにのぼったが、上って行く途中、小さい子供(原語ヘブル語/ナール)等が町から出てきて彼をあざけり、彼に向って『はげ頭よ、昇れ。はげ頭よ、昇れ』と言ったので、彼は振り返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。
 すると林の中から二頭の雌熊が出て来て、その子らのうち42人を裂いた。彼はそこからカルメル山へ行き、そこからサマリヤに帰った」。 U列王2:23〜25


T.「小さい子供ら」は誤訳であること
 ★ヨセフが兄弟たちにイシマエル人の隊商に売り渡された時、17歳でしたが、このヨセフについて創世記37章2節は「17歳の少年(ヘブル語/ナール)」と上記の「小さい子供(ナール)」と同じ語を使っています。聖書協会口語訳も新改訳も共にこの語を訳出していませんが、文語訳は「ヨセフは童子(わらべ)にして」とその語を訳出しています。
 ★また、ソロモンが父ダビデの後を継いで王位に就いた時、彼は自分のことを神への祈りの中で、「小さい子供(ヘブル語/ナール)」と呼んでいます
(T列王3:7)
 ★しかし、この時、彼ソロモンは結婚していて、1歳の息子がいたのです。その証拠は、ソロモンの在位は40年で
(U歴代9:30)、その子レハベアムが王位を継承した時、レハベアムは41歳だったからです(U歴代12:13)
 ★聖書学者によると、旧約聖書は12〜30歳までの男子にこの若者「ナール」という語を用いるそうです。従って、「ナール」は「若者」が適訳でしょう。

U.彼らは、預言者エリシャ個人をからかったのではなく、預言者エリシャを遣わした神を侮辱したのでした
 ★この若者たちは金の子牛の一体が祭られているベテルの宮の偶像に仕える偽預言者学校の神学生たちであったと見られています。
 ★彼らは、わけも分からず預言者をからかっていたのではなく、偶像に仕える偽預言者学校の神学生として、意図的に主の預言者エリシャを侮辱していたのでした。
 ★彼らが言っていた「のぼれ、のぼれ」という言葉は、預言者エリシャの先生である預言者エリヤが火の馬車に乗って天に昇ったように
(U列王2:11)、「お前も昇ってみろ」ということであり、「ここから消えて居無くなれ」という意味でした。
 ★ですから、新改訳の「上って来い」ではなく、共同訳の「上って行け」の方が適訳です。
 ★彼らは、エリシャを遣わした主なる神を拒絶し、預言者エリヤを天に昇らせた主なる神を侮辱したのでした。
 ★また、「はげ頭よ。のぼれ」と人の生来の個性についてあげつらい、からかうなどということは、人間として最低限の常識と道徳心に欠けた最低の言動であると言わねばなりません。

V.この若者たちに2頭の雌熊が危害を加えたことについて
 ★預言者エリシャの主の御名による彼らへのろいが、主なる神に是認されて、主の裁きの道具として2頭の雌熊が用いられました。
 ★エリシャののろいは、個人的恨みの感情から出たものでなく、主に対する熱心と偶像礼拝への怒りから出たもので、その結果は主から下った裁きでした。
 ★エリシャがタイミングよく2頭の熊を彼らに向って放とうと願っても、エリシャが2頭もの熊をペットとして飼っていたわけではないので、そのような事は人であるエリシャにはできなかったことです。

W.エリシャが侮辱を受けたように、キリスト者が世の人からあざけられ迫害を受けることは定まっていると知るべきこと
 ★主イエスは、世の人々のキリスト者に対する思いについてこう言っています。

 
「もしこの世があなた方を憎むならば、あなた方よりも先に私を憎んだことを、知っておくがよい。もしあなた方がこの世から出た者であったなら、この世は、あなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし、あなた方はこの世の者ではない。かえって、私があなた方をこの世から選び出したのである。だから、この世はあなた方を憎むのである」ヨハネ15:15:18,19

 ★世の人々が、神の御子主イエス・キリストを憎んで、十字架にかけたのに、キリストの手足である私たちキリスト者を世の人々が愛し、尊敬してくれることを期待する事は出来ません。
 ★伝道者・牧師・キリスト者で、世の人々から尊敬されているなら、その人々は自分がキリスト者として、み言葉に忠実な生活をしているかどうか、自問して見る必要があります。
 ★世の終わり、終末の時代が近づいて来ると、大迫害の時代が来ると聖書は予告しています
(マタイ24:21)
 ★迫害と患難の時代が来ても驚きあわてることなく、主にあって静かに耐え忍ぶことのできる信仰を今の時代に養っておきたいものです。

 「またあなた方は、私の名の故にすべての人々に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ10:22)。


キリスト紀元2007年 9月 30日公開


 Q.32
死後にキリストを信じて救われるセカンド・チャンスはあるのか?

 A.久保有政著「聖書的セカンドチャンス論/無料進呈版」という小冊子が当教会宛てにも送られて来ましたので、読んだついでに書評かたがた、このセカンドチャンス問題を論じることにします。
 ★セカンドチャンスとはキリストを信じないで死んだ人が死後キリスト信仰を与えられて救われるチャンスのことです。
T.本書は著者の聖書の読み不足を露呈していること
 ★著者久保氏が挙げているその根拠とする聖句のすべてはこの説を立証するには不十分であり、キリスト教会正統派の「人は地上に生きている間だけキリスト信仰によって救われるチャンスがある」という教理をくつがえすだけの説得力は全くありません。
 ★この著者は一見聖書を理解しているように見えますが、この書に影響されてこの説を支持するようになった牧師たち同様、聖書の読みが足りないことをこの小冊子は暴露しています。

 ★聖書には占いを厳禁している聖句がある(申命記18:10〜14;レビ20:27にもかかわらず、教会のホームページに占いの広告を載せて平気でいるキリスト教会やその牧師たちがいるように、聖書読みの聖書知らずのキリスト教会や牧師たちがいるのは残念なことです。

 ★筆者が言う「聖書読みの聖書知らず」とは、聖書全体を御霊に導かれて謙虚に繰り返し読む日常の習慣を持っている人なら当然分かる真理が、見えない聖書読者のことです。
 ★こういう人々の中で、自分の信じたい教えを聖書から造り出したいと願っている人々は、一部の特殊な聖句などが自己流の新説を擁護してくれていると思い込んでしまうのです。
 ★聖書を使って、新説を造り出すこのやり方は、荒野の誘惑において、サタンが用いた聖書の使用法であり、異端の人々の聖書使用法でもあります。

U.義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人はどうなることか
 ★この小冊子の著者が重要な証拠聖句の一つとしているTペテロ3:19,20が書かれているこの同じTペテロの4:17,18にはこういうみ言葉があります。

 「裁きが神の家から始められる時が来た。それが、私たちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか」Tペテロ4:17,18

 ★上記の聖句が語ることは、キリスト教会やキリスト者に対する神の裁きがあり、彼らさえかろうじて救われるなら、世の不信仰な人々や罪人はどれだけ厳しく裁かれることだろうか、ということです。
 ★「主イエスを信じる者は裁かれることがなく、永遠の命を持つ」
(ヨハネ5:24)という聖句がありますが、キリスト信仰者も裁かれるという聖句もあるのです(ローマ14:10;Uコリント5:10)
 ★キリスト信仰者の中にも、イスカリオテのユダのように主を裏切る人々がいるのです。信仰を行いで示せなかった人々はその行いが裁かれるのです。
 ★久保氏はユダの救いのために現在祈っており、死後も神に祈って行くつもりだと言っています。しかし、このユダについては主が「彼は生まれない方が良かった」と言っておられるのです
(マタイ26:24)。そのユダの救いを祈る久保氏に対する主の御言葉は恐らく、「ユダに対する私の処遇があなたと何の係わりがあるのか。あなたは自分のことを心配していなさい」と言うところでしょう(ヨハネ21:20〜22)
 ★久保氏の書を読む限り、キリスト教会とキリスト者に対する世の終わりの神の裁きの事実が欠落し、キリストを信じた者は無条件に皆救われると、著者は信じ切っているように見えます。
 ★しかし、キリスト信仰を告白するすべてのキリスト者は神の裁きの座の前に呼び出されます。試練に耐えて純正な信仰をもつ人々は裁きを免除されますが、偽りの信仰者は裁きに会い、それ相応の報いを受けるのです。久保氏のように聖書にない新説を流布して人々の道を誤らせる人々はそれなりの裁きを受けることになるのです。

 ★ましてや、求めさえすればキリストによる救いを見出すことができたであろう地上の生涯において主を求めず、失われた魂が死後救われるチャンスがあるなどという教説は聖書には全く見出せません。

V.「見よ、今は恵みの時、今は救いの日である」
 ★聖書が明確に証していることは、人の救いのチャンスは今地上にある時であり、他にはないということです。

 
「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」Uコリント6:2後半

 ★キリスト教伝来以前の日本人の場合のように、キリストの福音を全く聞く事の出来ない状況の中で、罪からの救いを誠実に真剣に求めた人がいたとすれば(蓋然性はかなり低いと思いますが)、その人にキリストによる救いの道が死後示され、救いに導かれることが、全くあり得ないとは断言できませんが、必ずあるとも断言できません。
 ★しかし、たとえそのような事例があったとしても、それは例外中の例外であり、これを一般的真理とすることは出来ません。
 ★神の啓示には、我々に明らかにされた面と隠された面とがあります。神に隠された面を人である我々があれこれ詮索し、教理を造り出す事は許されないのです。

 
「隠れたことは我々の神、主に属するものである。しかし現わされたことは長く我々と我々の子孫に属し、我々にこの律法のすべての言葉を行わせるのである」申命記29:29

 ★著者久保氏は、キリストの十字架の死後の陰府下りとそこでの宣教はノアの方舟以前の信じなかった人々に対するものであり、それ以後の死者に対する宣教は黙示録11:3〜12に出て来る二人の預言者がしてくれるであろうと期待していますが、二人の預言者については殉教の死の3日半の後よみがえると預言されているに過ぎず、それ以上の陰府での福音宣教などという事は久保氏の希望的空想に過ぎず、聖書はそのことには一言も触れていません。

 ★久保氏の神と聖書に対する姿勢は聖書で断罪されている陶器の陶器師に対する非難の姿勢であって、神はこうあらねばならないと神を教え、神を指導しようとする不遜な態度と言えます。

 「あなた方は転倒して考えている。陶器師は粘土と同じに思われるだろうか。造られた者がそれを造った者について、『彼は私を造らなかった』と言い、造られた物は形造った者について、『彼は知恵がない』と言うことができようか」。 イザヤ29:16

W.金持ちとラザロの話

 ★久保氏は「
金持ちとラザロの話」において、主イエスはこの金持ちの肉親愛に感動しておられた、と述べています。
 ★しかし、肉親愛、家族愛は映画「ゴッドファーザー」に描かれたマフィアの世界にも見られることで、それがどれほどあつい愛情であろうと、堅気の世界では称賛される価値をもつものではなく、ましてや主イエスの感動を呼ぶものでは決してありません。「金持ちとラザロの話」から、主イエスの感動を読み取ることが出来るという著者の主張には、はなはだ無理があります。
 ★他人に対して悪事を働く、マフィアややくざも身内に対しては優しく接する事が出来るのです。

 ★久保氏のセカンドチャンス論は日本人に福音を受け入れ易くするために福音の形を変えようとする試みであり、ガラテヤ書でパウロが断罪する別の福音を宣べ伝える行為に等しく、呪われるべき行為と言わざるを得ません
(ガラテヤ1:6〜9)

「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳触りの良い話をしてもらおうとして、自分勝手な好みに任せて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれて行く時が来るであろう」 Uテモテ4:3,4

 ★主イエスご自身が「天国への門は狭く、その道は細く、この道を見出す者はまれです」
(マタイ12:14)とはっきり言明しておられる、その門と道幅を無理やりに広げる行為は主なる神への反逆でしかありません。

 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなた方に言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから」。 ルカ13:24

 ★現世でキリストを救い主と選ぶか否かによって、永遠の住処が決定するという厳粛な真理を前にする時、私たちは今と言う時を、主の前に如何に誠実に生きて行かねばならないかを思わされます。



URL http://31church.net
キリスト紀元2007年 10月 20日公開


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