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      主イエスのたとえ話

  
〈8〉賢い人と愚かな人

 ★聖書

 「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨(みむね)を行なう者だけが、入るのである。その日には、多くの者が、私に向かって『主よ、主よ、私達はあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行なったではありませんか』と言うであろう。その時、私は彼らにはっきり、こう言おう、『あなた方を全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
 それで、私のこれらの言葉を聞いて行なう者を、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、私のこれらの言葉を聞いても行なわない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。マタイ7:21〜27

 ★はじめに
 クリスチャンは天国という神の御国に向かって旅をする旅人であり、地上では一時的な寄留者です
(ヘブル11:13)。天国が人生の本番であり、地上生活は予備校生活のようなものです。予備校生が合格めざして勉学に励むように、キリスト者は御国の民となるに相応しい者となるためにキリスト信仰と御言葉の学びと実践に励むのです。キリストを救い主と信じていさえすれば後はどうでもいいのだと勘違いしていると、終りの日に恐ろしい運命が待っています。
 ★解説
 「賢い人と愚かな人のたとえ」は山上の説教の結びとなる大事なたとえですから、山上の説教全体また聖書全体との係わりの中で解釈する必要があります。特に、直前の7:13〜20を抜きにして語ることは出来ません。そこには、天国に通じる門は狭く、その道は細く、決して安易な道ではないこと、ニセ預言者に注意すべきこと、彼らを見分ける方法はその人の結ぶ実に注目するべきことなどが記されています。
 ★賢い人と愚かな人との違いは「み言葉を聞いて、それを実行したか否か」にあります。その違いが人生の家を岩の上に建てた人と砂の上に建てた人との違いに等しいという教えです。
それでは、賢い人と愚かな人について順に学んで行きましょう。
 ★賢い人
 ヨハネの福音書の中で、主は「私の戒めを心にいだいてこれを守る者は、私を愛する者である。私を愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。私もその人を愛し、その人に私自身を現すであろう。」
(14:21)と言われました。すなわち、み言葉を行なう人は、父なる神と御子との交わりを持っている人です(1ヨハネ1:3)。その交わりを通して御霊の実を結んでいる人です(ガラテヤ5:22,23;ヨハネ15:5)。ルカの福音書6:48では賢い人は「地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人」と言われています。「地を深く掘る」と言う表現によって主は、人生の家の基礎工事は重要なので慎重に細心の注意が払われねばならないことを教えて居られます。1コリント11:28では聖餐式に参加するに先立って「自分を吟味すること」が勧められています。また、2コリント13:5では「あなた方は信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」と言われています。み言葉と御霊によって祈りの内に自己吟味し、人生の軌道修正に絶えず心がけている人は決して終りの日に主から「私はあなたを知らない」と言われることはないでしょう。
 ★信仰義認(キリスト信仰によって神のみ前で罪を赦され義〈ただ〉しい人とみなされること)の教理を正しく理解していない人は、キリストを信じて受洗した後はどんな生活をしてもいいのだという訳で、極端な場合は受洗日を境に教会生活を卒業してしまいます。このような人々を卒業信者と言います。受洗後教会生活を続ける人々が、みんなみ言葉を実践する生活に励む人々ばかりかというと、そうでもありません。天国への門は狭く、道は細いのです。この道を最後まで耐え忍んで歩き通すことは至難のわざなのです。多くの脱落者が出るのです。けれども、父なる神と御子イエス・キリストとの御霊による親しい交わりによって主を知り主に知られている人は最後まで耐え忍ぶ人なのです。
 ★賢い人がその上に家を建てた岩とは勿論キリストです
(1コリント3:11;10:4)。このキリストの中には知恵と知識との宝が一切隠されています(コロサイ2:3)。地上生活で堀尽くせない程の宝が隠されています。ですから、地上のクリスチャン生活は来るべき天国での生活のために一生をかけて土台造りをする生活ともいえます。パウロがテモテに「未来に備えて良い土台を自分のために築き上げるように、金持ち達に命じなさい」(1テモテ6:19)と言っているのもこの意味です。
 ★愚かな人
 愚かな人はみ言葉を聞くだけで実行しない人です。書道・華道・茶道といった習い事や柔道・剣道・弓道などのスポーツでもその道の道理を耳で聞くだけで身につけることはできません。必ず自分のからだで実践しなければなりません。「わたしは道である」と言われるキリストの道を自分のものにするためにも同様に理論(み言葉)は実践されなければなりません。それが分からない人は愚かな人と言われてもいたし方在りません。
 ★愚かな人と賢い人の共通点は「み言葉を聞いている人達」だと言う点です。聖書を読み、教会で説教を聞いている人達つまり両方共にクリスチャンです。愚かな人は「鏡に映った自分の顔をすぐに忘れる人」
(ヤコブ1:23,24)の様です。聖書と言う鏡に映された自分の心をすぐに忘れ、同時に自分のきよめ主である主イエスをも忘れるのです。この様な人が御霊の実(ガラテヤ5:22,23/キリスト者の品性、キリストに似た性質)を結べるはずがありません。彼らはこの世の誘惑や欲望に負け、御名のための困難や迫害がやってくるとたちまち挫折してしまいます(マタイ13:21,22)
 ★上記のみ言葉の21〜23に出てくる「主よ、主よ」と言う人達も愚かな人々の仲間です。「主よ、主よ」と口では唱えながら、終りの日には主イエスに見捨てられるのです。彼らは主に何と言っているでしょうか。「主よ、主よ、私達はあなたの御名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡をたくさん行なったではありませんか」と言っています。彼らはこの様な業績を残しているのに何故主に見捨てられねばならないのでしょう。1コリント13:1〜3でパウロは上記のような実績を上げても、さらに全財産を捨て、命を捧げる行為もそこに愛がなければ何の役にも立たないと言っています。クリスチャンとして教会人としてまた牧師・伝道者として偉大な実績を上げた人々でもその心の根底に神と人への愛という動機がなかったと判定されるなら、「私はあなたを知らない。不法を働く者どもよ。行ってしまえ」と厳粛な裁きのみ言葉を聞くことになるのです。
 ★主イエスは「主よ、主よという者ではなく、わが父のみむね(みこころ)を行なう者だけが天国にはいるのだ」と言っておられます。この愚かで哀れな人々は主イエスの父のみこころではなく、「これが神のみこころだという自分流の(あるいは誤った)考え」に従って人生の土台と家とを築いて来たのでした。すなわち、自分免許の(誤った)聖書解釈で自分の人生設計と建築とを進めてきたのです。そして、自分の誤りに気付くことも謙虚に認めることもなく終りの日を迎えたのでした。キリストの父である方のみこころを行なわない者は、主を愛する愛のない者とみなされます
(ヨハネ14:24)。主を愛する愛のない者には神は分かりません。主が「私はあなたを知らない」と言われるのも当然です。愛のない者は主を知らず、主もその人をご存知ないのです。主の御心を行なわない者は、たとえ人の眼に善人と映っても主の御前では「不法を働く者」でしかありません。そして、「主よ、主よ」と唱えながら、主には「不法を働く者」と判定される人々が「多い」と主は言っておられます。
 ★おわりに 
 この世の人生そのものに困難と試練が満ちています。この困難と試練の中で鍛錬され磨かれて純金の様な信仰者となる人々は幸いです
(1ペテロ1:7)。しかし、人生経験から学ぶこともなく、聖書を読んでも悟らない人々は哀れです。その人の人生の家は終りの日の裁きの風に吹き飛ばされ、焼き尽くす火炎に焼き尽くされるからです。旧約聖書創世記のアブラハムの甥ロトのように自分一人の魂だけはかろうじて救われる人は、キリストと言う土台だけはもっていた人です。「不法を働く者よ。行ってしまえ」と言われる人々は、自分は聖書を読んでいたクリスチャン、あるいは講壇から説教していた牧師でありながら、その信仰が単なる自分の思い込みでしかなかった人々です。主イエスの父なる神に是認される信仰者ではなかったということです。



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キリスト紀元2004年 10月 20日公開

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