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      主イエスのたとえ話

  
〈7〉ぶどう園の労働者のたとえ

 ★聖書

 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者達と、1日1デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから9時頃に出て行って、他の人々が何もせずに市場に立っているのを見た。そして、その人達に言った、「あなた方も、ぶどう園に行きなさい。相当な賃金を払うから」。そこで、彼らは出掛けて行った。主人はまた、12時頃と3時頃とに出て行って、同じようにした。5時頃また出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、「何故、何もしないで、一日中ここに立っていたのか」。彼らが「誰も私達を雇ってくれませんから」と答えたので、その人々に言った、「あなた方もぶどう園に行きなさい」。
 ★さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、「労働者達を呼びなさい。そして、最後に来た人々から始めて順々に最初に来た人々に渡るように、賃金を払ってやりなさい」。そこで、5時頃に雇われた人々が来て、それぞれ1デナリずつもらった。ところが、最初の人々が来てもっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも1デナリずつもらっただけであった。もらった時、家の主人に向かって不平をもらして、言った、「この最後の者達は1時間しか働かなかったのに、あなたは一日中、労苦と暑さを辛抱した私達と同じ扱いをなさいました」。そこで彼はその一人に答えて言った、「友よ、私はあなたに対して不正をしてはいない。あなたは私と1日1デナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらって行きなさい。私はこの最後の者達にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の者を自分がしたいようにするのは、当たり前ではないか。それとも私が気前よくしているので、ねたましく思うのか」。このように、後の者は先になり、先の者は後になるであろう。  マタイ20:1〜16


 ★はじめに 旧約聖書ではイスラエル民族がぶどうの木にたとえられ
(詩篇80:8;エレミヤ2:21)、新約聖書ではキリストの公生涯と共に地上に始められた神の御国・広い意味でのキリスト教会がぶどう園として描かれています(ヨハネ15:1〜8)。ぶどうの木もぶどう園も共に良い実と収穫を期待されます。このたとえ話ではぶどう園の労働者の心の在り方に焦点が当てられます。

 ★たとえ話の要約  ぶどう園の主人が労働者を雇いに出かけ、1日1デナリの約束で労働者をぶどう園に送りました。6時、9時、12時、3時、そして1日の労働時間が終わる1時間前の5時にも雇いました。夕方6時に主人はぶどう園の管理人に「労働者を集めて、最後の者から順番に賃金を支払ってやりなさい」と言いました。1日の初めの朝6時から12時間働いた者達は一時間しか働いていない者達より多くもらえると思っていたら、彼らと同じ1デナリだったので文句を言いました。すると主人は、「私はあなたと1デナリの約束をしたではないか。私はこの最後の者達にもあなた方と同様に支払ってやりたいのだ。自分のものを、自分がしたいようにするのは当然ではないか」と言って、彼らの抗議を一蹴しました。 

 ★解説
 Aこのたとえ話のキーワード このたとえ話は「先の者が後に、そして後の者が先になることが多い」
(19:30と20:16)と言う言葉によって、サンドイッチのようにはさまれていることに注目してください。このたとえ話はこのキーワードによって解き明かすことが出来ます。
 B天国では「ギブ・アンド・テイク」のやり方は通用しない このたとえ話の直前に、主は「天国は幼子のような者らの国である」
(19:14)と語り、「永遠の命を得るには、どんな良いことをしたらいいでしょうか」(19:16)と質問してきた金持ちの若い役人に答えた後、今度は弟子達に「私達は一切を捨ててあなたに従いました、つきましては、何が頂けるでしょうか」と質問されています(19:27)
 ★主イエスが幼子と言われる時、本物の幼児よりむしろ、心のへりくだった、心の純粋な人、幼子が親を慕い求めるように、主を慕い求める人のことを指します。天国は金持ちの若い役人や弟子達の質問に見られる「ギブ・アンド・テイク」の精神では測れない性質を持っていることを、主は、このたとえ話の中で教えようとしておられます。
 C新約聖書の時代のユダヤの労働事情 この時代のユダヤのぶどう園の労働時間は日の出の6時から日没の午後6時までの12時間でした。このたとえ話は、ぶどうの収穫期の労働力需要の急増する時期の労働者と雇い主の話を題材にしています。
 D永遠の命(1デナリの賃金が象徴するもの)はすべてのキリスト者に平等に与えられる ぶどう園は地上に来た天の御国、すなわちキリスト教会とキリストの御業が行なわれている場
(ルカ11:20)を、そこで働く労働者はキリスト者を、市場はこの世を表します。主はこの世から人々を呼び出し、キリスト教会でキリストの業を励む労働者として雇い入れます。12使徒のように早くから雇われた人々もいれば、使徒パウロのように遅れて雇われた人々もいます。また、若い時にクリスチャンになって長く信仰人生を送る人々もいれば、老年になって入信し比較的に短い信仰人生で世を去る人々もいます。このたとえ話はキリスト者として長く苦難の奉仕活動をして来た人は、それだけの理由で自分は他の人よりは天国でより多くの報いを受けると単純に期待してはならないことを教えています。
 E最初の労働者たちの無礼な態度と最後の労働者に対する主人のいつくしみ 最初の労働者達の不平に対して主人が言った言葉「自分の賃金をもらって行きなさい」(新改訳:自分の分を取って帰りなさい)は「自分の分を手に取って(あるいは、拾い上げて)帰りなさい」とも訳せます。最初の労働者達はふて腐れて賃金をつき返したか、またはほっぽり投げたと見られます。彼らのように賃金だけを目当てに働く労働者は天の御国に相応しくない人々です。主人の「友よ」という丁重な答え方に対して、彼らは「ご主人様」といった呼びかけ無しに、ぶっきらぼうに抗議しています。
 ★最後の労働者は雇われるチャンスがあったのに遊んでいた人々ではなく、不運にも就職口がなく、必死に職を探して待っていた人々です。賃金を時間割にしたら、彼らは家族を養えなくなることが目に見えているので、主人は哀れんで賃金を同じにしてあげたのです。

 ★適用
 A信仰者すべてに同じ永遠の命が 信仰による救いの道は「恵みの契約」とも呼ばれ、神と信仰者との間の約束事です。私達キリスト者は自分の罪を悔い改め、キリストの十字架と復活による罪のあがないを信じて、生涯神の御言葉を守って、キリストと共に歩む約束をして、日々これを実践している者達です。その報いは信仰により新しく生まれることによって地上で始められ、キリストの再臨と共に完成する「永遠の命」です。これは信仰生活の長短とは関係なく、信じる者すべてに与えられます。しかし、天国で与えられる平等の新しい命の在り方、すなわち天国での仕事や地位などは、地上の生活の実績が評価されて、各人に相応しい仕事や地位があてがわれることが「ミナのたとえ」
(ルカ19:11〜27)によって暗示されています。
 B御国の労働者としての私達と主との関係 パウロが好んで自分を「キリストの僕」と呼んでいるように
(ローマ1:1)、ぶどう園の労働者つまり神の御国の奉仕者としての私達キリスト者とキリストとの第一番の関係は僕と主人の関係です。〈1〉僕は主人に、なすべきことを皆行なった後で、「私は役に立たない僕です。なすべきことをしただけです」と言わなければなりません。これは、「信仰を増してください」と言う弟子の願いに答えて主イエスご自身が語られた言葉です(ルカ17:7〜10)。私達が桑の木に向かって、「動いて海の中に植われ」という時、からし種ほどの信仰でも本物の生きた信仰があるなら、桑の木が私達の言葉に服従するのだ、そのように、私達が小さな信仰でも、主のご命令に服従しているなら、主への信仰と愛とは成長するのだ、と主は教えておられます。
 ★主は「あなた方が私を愛するならば、私の戒めを守るべきである」
(ヨハネ14:15)、「私の戒めを心に抱いてこれを守る者は、私を愛する者である」(同14:21)と言っておられます。ぶどう園の労働として示されたクリスチャン人生を主への愛と感謝とを動機として黙々と働いてくれることを主は求めておられます。
 〈2〉私達が主の再臨の日まで忠実に自分の本分を果たして行くなら、その日には主ご自身が帯を締め、私達を食卓に座らせ、給仕をしてくださると言う約束があります
(ルカ12:35〜37)。弟子達は十字架を目前にした主から足を洗って頂くことによって、その日の栄光の前味を味わっています(ヨハネ13:4〜17)
 C天の御国の国民に相応しくない性質 復活の後、主は弟子達の前に姿を現し、ペテロに彼がどんな死に方で神の栄光を表すかを語られました。その時、ペテロがヨハネを指して「この人はどうなのですか」と尋ねると、主は「それがあなたに何の係わりがあるか、あなたは私に従って来なさい」と言っておられます
(ヨハネ21:20〜22)
 ★初めの労働者が終りの労働者に対する主人の扱い方をねたんだように、他の信仰者に対する主のお取り扱いをねたんだり、あるいは彼をさげすんだりする態度は天の御国の国民に相応しくないので、天国に入る前にその性質を矯正しておいてもらいたいと主は願っておられます。
 D後の人を先の人と同じ扱いにする主の真意 「12時間働いた労働者が1時間しか働かなかった労働者と同じ扱いを受けたのなら、死ぬ直前に信じて救われた犯罪人
(ルカ23:39〜43)のように、私も人生の晩年にクリスチャンになることにしよう」などという考えを、このたとえ話が推奨していると勘違いしてはなりません。最後に雇われた労働者は、雇われるチャンスがあったのに拒否して遊んでいた人々ではなく、雇ってくれる人が現れなかったために失業状態を続けていた人々であって、いわば不運な人々です。人生の境遇によって、やっと晩年に主に巡り合ってクリスチャンになった人をうらやましがって、自分にあるチャンスを蹴って入信を引き伸ばしている人は、永遠にチャンスを失う危険性のある人です。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(2コリント6:2)
 ★初めの人と終りの人とを同じ扱いにした主人の姿は、「今はまだ救いのチャンスがある。この世にいる間は救われるのに遅すぎる事はない。今と言う時に、早く信じて永遠の裁きの火から救われて欲しい」とあなたに懇願しておられる憐れみ深い主の御姿そのものなのです
(2コリント5:20)

 ★おわりに このたとえ話は神のぶどう園に先に入って働いて来たイスラエル民族の、遅く入ってきた異邦人に対する優越感を戒める意味を持つと共に、地上での順位と常識が天の御国では逆転することが多いことを私達キリスト者にも自覚させ、神と人の前に謙虚さを失ってはならないことを教える話でもあります。


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キリスト紀元2004年 7月 30日公開

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