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      主イエスのたとえ話

  
〈4〉邪悪な農夫のたとえ

 ★
聖書 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある所に、一人の家の主人がいたが、ぶどう園を造り、垣をめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
 ★収穫の季節が来たので、その分け前を受け取ろうとして、しもべ達を農夫の所へ送った。すると、農夫たちは、そのしもべ達をつかまえて、一人を袋叩きにし、一人を殺し、もう一人を石で撃ち殺した。また別に、前より多くのしもべ達を送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、私の子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らのところへ遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て互いに言った、『あれは跡取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。
 ★このぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、  『家造りらの捨てた石が

 
 隅の頭石になった。
  これは主がなされたことで、
  私達の目には不思議に見える』。
 ★それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それが誰かの上に落ちかかるなら、その人は粉みじんにされるであろう」。
 ★祭司長やパリサイ人たちがこのたとえを聞いた時、自分たちのことを指して言っておられることを悟ったので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群集はイエスと預言者だと思っていたからである。  マタイ21:33〜46 参照マルコ12:1〜12;ルカ20:9〜19


 ★はじめに
 祭司長や民の長老達の「何の権威によって、これらのこと(宮清めのわざ)をしておられるのか?」という質問に対する答えの中で、主イエスはこのたとえ話を語られました。

 ★このたとえ話の要約と意味
 〈要約〉

 ぶどう園の主人が、ぶどう園を造って農夫たちに貸し与え、自分は旅に出た。収穫の時が近づいたので、自分の受け取り分を徴収するためしもべ達を遣わしたところ、農夫達は主人のしもべをひどい目に合わせました。主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と思って、息子を派遣したところ、邪悪な農夫らは息子を捕らえて、ぶどう園のそとで殺害しました。園主は、怒ってこの悪党どもを情け容赦なく殺し、きちんと収穫を納める別の農夫たちに貸し与えました。
 〈意味〉
 A
 登場人物らは誰を表しているか
 ぶどう園の主人=聖書の神、 ぶどう園主のしもべ=預言者たち、 園主の息子=主イエス、 農夫=イスラエルの民の指導者たち、 ぶどう園=イスラエル民族
(イザヤ5:7)、他の農夫たち=異邦人キリスト教会
 B 主イエスご自身が神の御子であることの宣言
 宮清めのわざを神の一人子としての権威をもって行なっていることをこのたとえ話で主は表明しておられます。と同時に、ぶどう園の農夫である民の長老や祭司長らの手にかかって、ご自身が殺されること、その結果、イスラエルは国家として滅びることの預言です。
  ぶどう園主としての神の善良さと忍耐深さが示されている ぶどう園を貸し出す前に、垣をめぐらし、酒ぶねを造り、やぐらを建てるなど申し分のない施設を用意して豊かな収穫を十分期待できる状態にしています。その上、しもべ達が虐待され、殺されてもじっと耐えて、自分の息子なら当然敬ってくれるはずだと農夫らの良心を信じようとする底抜けの善良さが見られます。このあわれみ深く、忍耐強く、怒ることの遅い主なる神にも我慢の限界があり、怒りを爆発させる恐ろしい日が来ることの預言でもあります。
 D ぶどう園主である主なる神は、民に実を結ぶことを期待しておられることの表明 神がぶどう園である民から期待しておられる果実とは、第一は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制などの御霊の実です
(ガラテヤ5:22,23)。神のご性質に与ること(2ペテロ1:4)であり、御子イエスに似た者となる(ローマ8:29)です。第二は公義を行い、誠実を愛し、へりくだって主なる神と共に歩むことです(ミカ6:8)。第三は、隣人、同胞の前に良い証しを立て、彼らを主に導くことです(マタイ5:14〜16)

 ★「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなさったことで、私達の目には不思議に見える」(42節)
 神の古い教会であるイスラエル民族の指導者らが見捨てたイエス・キリストが新しい、そして正統なる神の教会の頭石となったのはまことに不思議なる神のみわざです。
 ★イスラエルの民の指導者が神の御子を殺害した同じ過ちを、後世のキリスト教会が繰り返しました。すなわち、ローマ・カトリック教会は伝統を重視し聖書を軽視して、聖書の主人公であり教会の頭であられる主イエスを見捨てました。主が「私のことが書いてある」と証言された聖書
(ヨハネ5:39)をラテン語という死語の中に閉じ込め、人々が聖書を読めないようにしてしまいました。当時の司祭たちでさえ、満足に読める人の少ないラテン語を一般人が読めるはずがありません。その上、聖書を一般人に読めるように現代語に翻訳した宗教改革者たちを火あぶりの刑に処するなど人のすることとは思えない極悪非道の罪を犯して来ました。
 ★今日のプロテスタント教会はというと、聖書が描くままのキリスト教でなく自分達の伝統に縛られたキリスト教に固執しています。すなわち、異言は廃れたとするプロテスタント教会の伝統にしがみつき、「異言を禁じてはならない」という聖書の明白な戒め
(1コリント14:39)を恐れもなく破り、異言を語る者を除名処分にして教会から追放しています。また、互いに愛し合い、教会の一致を涵養せよとのみことば(ヨハネ15:17;17:21)を軽視して、些細な枝葉末節の相違のために教会分裂を繰り返して来ました。
 ★また、ある教派は神が求める果実ではない果実を結んで自己満足に陥っています。すなわち、金持ちになった、この世的に成功したということが立派なキリスト教会のしるしと思い込んでいます。そして、聖書の「あなたがたは、自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もないと言っているが、実は、あなた自身が惨めな者、哀れむべき者、貧しい者、目が見えない者、裸な者であることに気がついていない」
(黙示3:17)という御言葉は自分には関係ないと思っています。

 ★「その石の上に落ちる者は打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちるなら、その人は粉みじんにされるであろう」(44節) 隅のかしら石である主イエスを十字架にかけ殺す者は裁きを受け、世の終りの裁きの日に主は裁き主として、悔い改めない者を徹底的に滅ぼしつくすことの預言です。主イエスとそのみことばを軽視してきた人々は終りの日に怒れる神の子羊の恐ろしさを味わうことになるでしょう。

 ★「多く与えられた者からは多く求められる」
 教会の指導者は特別厳しい裁きが待っていることを十分覚悟をして、今と言う時、謙虚にみことばを恐れの心で拝聴して、実践して行かないと、後で「私はあなたを知らない」という主の御声を聞いて嘆き、悔やむ事になるでしょう。
 ★邪悪な農夫らが主のぶどう園を私物化しようとしたように、今日のキリスト教会の指導者達も、教会を決して私物視してはならず、教会は主のものであることを肝に銘じなければなりません。
 ★キリスト者は誰もがみことばの警告を恐れ従う謙虚さを失ってはなりません。預言者ナタンがダビデを諌めたように、神は目下の者を用いてあなたに忠告なさることがあります。その時、ダビデのようなに謙虚な人だけがそれが神の御声だと気がつくのです。


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キリスト紀元2004年 7月 20日公開

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