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       メッセージ


〈7〉キリストにある成人を目指そう

 ★「私たちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついにキリストの満ち満ちた徳の高さにまで至るためである。」(エペソ4:13〜15)
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「兄弟たちよ。物の考え方では、子供となってはいけない。悪事については幼子となるのは良いが、考え方では大人となりなさい。」(1コリント14:20)。


 ★生来の人間に幼子から大人までいるように、霊的人間にも霊的幼子から霊的大人までいることを聖書は語っています。肉体年齢は十二分に大人であっても、精神的に大人になり切っていない人々がいるように、霊的人間でも信仰年齢は十二分に重ねているはずなのに、霊的大人の域に達していないどころか、霊的幼子のままの人々がいます。
 ★肉体の親たちが子供の成長を願い、成長の遅れた子供を見れば悲しむように、霊の父も私たち信仰者の霊的成長を願い、霊的成長のストップしているクリスチャンをご覧になるとはなはだ悲しまれるのです。
 ★霊的成人の手本はイエス・キリストですから
(ローマ8:29)、私たちの内なる人が、キリストの満ち満ちた背丈に達するまで、世にある限り成長を続けて行かねばなりません。キリストにある幼子はキリストに似ている度合いが低く、キリストにある成人はその度合いが高いということになります。大人としてのキリストの一大特徴は人を赦すことにあります。それは、十字架上のみことば「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです。」(ルカ23:34))に表されています。
 ★出エジプト記32章に描かれているシナイの荒野におけるイスラエルの金の子牛事件での、罪を犯した民と彼らのために執り成しの祈りを捧げるモーセとは、主にある幼子と成人の好対照を示しています。モーセがシナイ山に登って40日40夜断食して主から律法を授かっている間、それに待ちくたびれた民は祭司アロンに強要して、イスラエルの神として金の子牛の像を造らせました。これにお怒りになった主は、「この民を滅ぼしてあなた(モーセ)の子孫を大いなる国民にする。」と語られましたが、モーセは「もし民をお赦しにならないなら、あなたのいのちの書から私の名を消し去ってください。」と祈っております。ここに、心の定まらない幼子のようなイスラエルの民と民の救いと神の栄光のためには自分が滅びることもいとわないキリストのような崇高なモーセとの対照的姿が描き出されています。
 ★田崎健作牧師がその著「捨身で生きる」(1964年日本YMCA同盟出版部版)の中で、倉敷教会の青年牧師時代のご自身の体験を語っておられます。ある日の公同礼拝説教がどうしても出来ず、止むを得ず有名な説教者の説教を借用することにしました。その説教の中にイザヤ書35章1、2節の「荒野とかわいた地とは楽しみ、砂漠は喜びて花咲き、サフランのように、盛んに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」という有名な聖句が十回ほど繰り返し出てきました。そうだ、良い説教は聖書のみことばを生涯忘れないように何度も会衆の耳にたたきこむことだと、この聖句を暗証して堂々と説教をやってのけました。
 ★翌月曜日の朝、白髪の木村和吉長老が植木鉢持参で尋ねて来られ、「早朝お休みのところお尋ねして申し訳ありませんが、昨日の説教のお礼にこの花を持参いたしました。この花はサフランと申します。」とサフランの花の名を強調されました。この時、田崎牧師はハッと自分の間違いに気付きました。その当時本人は「サフランの花」の名を知らず、これを「ソーラン」と読み、説教の間中「ソーラン」「ソーラン」と連発していたのでした。長老はそのソーランの間違いを正しに来られたのでしたが、田崎師は説教盗作の罪を示すため主が長老をお遣わしになったのだと悟り、長老の前で正直に自分の罪を告白しました。すると、長老は直ちにいすからすべりおり、床にひざまずいて「主よ、願わくば、この若き先生の過ちを赦し、先生を祝福し、ますます立派な牧師となられるようにご聖別ください。」と祈られ、侘びの言葉と共に帰って行かれました。
 ★若い牧師の成長を願って、忍耐と寛容の中に、祈りをもって仕えて行こうとしておられる木村長老の謙虚な姿には、主にある成人の域に達した人の風格がそこはかとなく伝わってくる感があります。


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キリスト紀元2003年 6月 1日公開