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     メッセージ

〈35〉ナアマン将軍と預言者エリシャ


聖書
 1スリヤの将軍ナアマンはその主君に重んじられた有力な人であった。主がかつて彼を用いてスリヤに勝利を得させられたからである。彼は大勇士であったが、らい病を患っていた。2さきにスリヤ人が略奪隊を組んで出てきた時、イスラエルの地から一人の少女を捕えて行った。彼女はナアマンの妻に仕えたが、3その女主人に向って、「ああ、ご主人がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はそのらい病を癒したことでしょう」と言ったので、4ナアマンは行って、その主君に、「イスラエルの地から来た娘がこういう事を言いました」と告げると、5スリヤ王は言った、「それでは行きなさい。私はイスラエルの王に手紙を書きましょう」。
 そこで彼は銀10タラントと、金6000シェケルと、晴れ着10着を携えて行った。6彼がイスラエルの王に持って行った手紙には、「この手紙があなたに届いたならば、私の家来ナアマンを、あなたにつかわしたこととご承知ください。あなたに彼のらい病を癒して頂くためです」とあった。7イスラエルの王はその手紙を読んだ時、衣を裂いて言った、「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。どうしてこの人は、らい病人を私につかわして、それを癒せと言うのか。あなた方は、彼が私に争いをしかけているのを知って警戒するがよい」。
 8神の人エリシャは、イスラエルの王がその衣を裂いたことを聞き、王に人を遣わして言った、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼を私のもとに来させなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のいることを知るようになるでしょう」。9そこでナアマンは馬と車とを従えて来て、エリシャの家の入口に立った。10するとエリシャは彼に使者を遣わして言った、「あなたはヨルダンに行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉は元に帰って清くなるでしょう」。11しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「私は、彼がきっと私のもとに出て来て立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病を癒すのだろうと思った。12ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水に勝るではないか。私はこれらの川に身を洗って清まることが出来ないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。13その時、しもべ達は彼に近寄って言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きなことをせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗ってきよくなれ』と言うだけではありませんか」。14そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉が元に返って幼な子の肉のようになり、清くなった。
 U列王5:1〜14

はじめに
 U列王記5章のナアマン将軍と預言者エリシャ物語は旧約聖書の中のとても魅力的な物語の一つです。上記テキストはその物語の前半です。物語はX章の終りの27節まで続きます。

T.ナアマン物語概要

 ★イスラエルの隣国スリヤの将軍ナアマンはらい病を癒してもらいにイスラエルの預言者エリシャのもとにやって来ました。
 ★エリシャに言われた通りヨルダンの水に七回身を浸したところ、らい病は完全に消え去って健康な身体になりました。
 ★ナアマンは、持参した高額の金品を謝礼として支払おうとしましたが、エリシャに断られました。そこで、今後イスラエルの神・主にのみ礼拝を捧げることを決意したナアマンは、自宅に主の祭壇をこしらえるためイスラエルの土をラバに積んで帰りました。
 ★エリシャの弟子ゲハジは、ナアマン一行を追いかけて、嘘をついてナアマンが支払おうとした金品の一部を手に入れました。
 ★神の人エリシャは聖霊の賜物によってそれを見抜き、ナアマンのらい病がゲハジとその子孫に移ることを預言し、ゲハジはただちにらい病を発症しました。

U.エリシャとエリヤ
 ★エリシャの師エリヤは、主イエスの山上の変貌の時に現れた、旧約時代を代表する二人の人物のうちの一人でした。すなわち、律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤでした。エリヤが天に昇る直前、その弟子エリシャは師エリヤに二倍の賜物を願っています。それがかなえられ、エリシャは聖書で見る限り、師であるエリヤの何倍かの奇跡を行っています。
 ★エリシャはエリヤのようにモーセと並ぶ旧約時代の代表的人物ではないけれども、エリヤよりも旧約聖書の中で多くのページで取り上げられ語られています。また、その人格の高潔さはキリストを思わせるものがあります。
 ★主イエスは、旧約時代の預言者たちが、新約聖書に明らかにされているキリストの救いの真理を知りたがっていたと語っておられます
(ルカ10:24)。そういうわけで、イエス・キリストの救いについて、私たち新約時代の信徒程に知識と信仰に恵まれていなかったにもかかわらず、私たち以上にキリストに似た生活を送っていたことを知って感慨深くさせられます。

V.エリシャとゲハジ
 ★エリシャがエリヤに仕えていたように、ゲハジはエリシャに仕えていました。しかし、ゲハジには師エリシャのような清廉潔白な品性に欠けていました。ナアマンが持ってきた謝礼の金品をエリシャが受け取ろうとしなかったことが全く理解が出来ませんでした。それで、帰国途上のナアマン将軍に追いついて、嘘をついて金品をせしめました。
 ★このことのために、ゲハジはナアマンが患っていたらい病を引き継ぐことになり、彼はエリシャの言葉通り、「らい病に侵され雪のように白くなり」ました。
 ★「金銭を愛することはあらゆる悪の根である」と聖書は言っております
(Tテモテ6:10)。ゲハジの金銭愛は彼自身と子孫に不幸をもたらしました。
 ★エリシャはなぜナアマンから謝礼を受け取らなかったのだろうか。それを考える前に、預言者エリシャはどのようにして生計を立てていたのかを見てみましょう。
 ★彼は、イスラエルの一般市民の中で、篤信な人によって提供された家に住んでいました。師であるエリヤのように、主を恐れる一般市民の提供する支援物資を受けつつも、通常は自給自足の生活を送っていたと思われます。
 ★王侯貴族に、歯に衣着せぬ大胆さで、主なる神の言葉を語る主の預言者は、レビ人や祭司たちのように宗教国家イスラエルの国家的支援と生活保障を受けられません。彼ら預言者たちはみな貧しい生活を余儀なくさせられていました。
 ★U列王4:1〜7を読みますと、預言者仲間の一人の妻が、エリシャのもとに来て、「あなたのしもべである私の夫が死んだ後、借金とりが来て、二人の子供を奴隷にしようとしています」と助けを求めて訴えています。U列王6:1〜7では、預言者仲間の一人が木材を伐採する際、斧の頭が取れて池の中に落ちてしまった時、「ああ、わが主よ。あの斧は借り物です」と叫んでいます。当時、預言者たちは人から金品を借りなければやっていけないほど貧しい生活を送っていたようです。上記の預言者の妻と預言者はエリシャの行った奇跡によって窮状を脱しています。
 ★このような預言者仲間の生活を知っているエリシャの立場からすれば、ナアマンの謝礼を受け取って、貧しい仲間を助けてやりたい思いが全くないとは言えなかったと思いますが、エリシャはナアマンの高額な謝礼をきっぱりと断りました。エリシャはゲハジに言いました。「今は金品を受け取る時であろうか」
(U列王5:27)
 ★その言葉の意味は、「この地上に生きている今と言う時は、人から謝礼を受けて、神の業を行ったり、神の言葉を語る時ではない、報酬のすべては、来たるべき世で神から直接受けることが出来るのだ。金もうけのために、病の癒しを祈ったり、人を喜ばす言葉を語ることは、主の預言者のすることではない」ということでした。

W.ナアマンとエリシャ
 A,ナアマンの改心

 ★ナアマンは自分のらい病はイスラエルの預言者エリシャによって癒されるという希望を今は自分の妻の召使であるイスラエルの娘によって与えられました。
 ★イスラエルの娘が拉致された身でありながら、その置かれた所で、神の人エリシャのことを語ったように、私たちは行った先々でキリストのことを語ることが出来ます。それによって、ナアマンのような改心者が起こされることを期待することが出来ます。
 ★ナアマンは自分の仕えている王以外の者から指図される筋合いはないと考えていたので、エリシャから「ヨルダンの水で七回体を清めよ」言われた時は腹を立てました。
 ★しかし、ナアマンには賢明な家来達がいました。彼らは、ナアマンに助言して言いました、「預言者がもっと難しい要求をしても、あなたは聞き入れ従ったことでしょう。まして、預言者は『ヨルダンで七たび身を清めよ』と言っただけではありませんか」。
 ★ナアマンもこの賢明な家来の忠告に耳を傾けないほど頑固者ではありませんでした。彼は、家来の忠告に従って、言われた通りヨルダンで神妙に七度身を浸しました。すると、ナアマンの体は幼な子の肌のように健康を回復しました。ナアマンはエリシャの口を通して語られた神の言葉を実践することによって心身共に救われたのでした。

 B.ナアマンの願いとヨシュアの回答
 ★ナアマンは自分の難病の癒しによってイスラエルの神・主こそ真の神であることを悟り、今後ほかの神々ではなく主にのみ礼拝をささげることを誓いました。しかし、彼のその時の信仰では、エリシャの神・主はイスラエルという土地以外にいない神
(U列王5:15)なので、イスラエルの土で祭壇を造って礼拝したいと思い、「イスラエルの土を騾馬に二駄分ください」と願い出ました。
 ★次に、「主君が偶像の宮に入って礼拝する時、主君が私の腕に寄りかかって礼拝し、私もその宮で身をかがめる時があるので、主がそれを許してくださるように」という願いでした。
 ★聖書の神は多く与えられた者からは多くを求めるが、少なく与えられた者から、多くを求められません
(ルカ12:48)。ダニエルとその三人の友人たちが、偶像礼拝を拒否し、ナアマンとは違って形式上の妥協もしなかったのは、彼らが成長した信仰をもっていたためであり、改心したばかりのナアマンにそれを求めるのは無理だったでしょう。エリシャはナアマンの願いを受け入れ、「安心して行きなさい」と答えています。
 ★新約聖書と言う豊かな神の啓示を頂いている私たち新約時代のクリスチャンは、ナアマン・レベルの信仰に留まる事は許されません。心をつくし、思いを尽くし、力をつくして神を愛し
(マタイ22:36〜38)礼拝する者は、形だけならいいだろうという妥協した態度を偶像礼拝に対して取ることは出来ません。

結び
 ★人はまことの神と富(金銭)とに兼ね仕えることはできません
(マタイ6:24)。聖書の中にも両方を求めて破滅した人々が登場してきます。バラム、ゲハジ、イスカリオテのユダなどがそうです。そういう悪しき前例を見て、私たちも同じ過ちに陥らないように気を付けたいものです。
 ★また、偶像礼拝に対し妥協のない、断固とした姿勢で、主なる神の礼拝者としての証を貫きたいものです。すなわち、ダニエルと3人の友人たちのように心も体の姿勢も明白な主の礼拝者として疑問の余地のない明白な証しを貫きたいものです。


URL http://31church.net
キリスト紀元2008年 9月 1日公開


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