メッセージ

〈25〉アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

聖書
 「復活ということはないと言い張っていたサドカイ人のある者たちが、イエスに近寄ってきて質問した、

 『先生、モーセは、私たちのためにこう書いています、
 「もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけなければならない」。
 ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、そして二男、三男と、次々に、その女をめとり、七人とも同様に、子をもうけずに死にました。後に、その女も死にました。
 さて、復活の時には、この女は七人のうち、誰の妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが』

 イエスは彼らに言われた、『この世の子らは、めとったり、嫁いだりするが、かの世に入って死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きる者だからである』。

 律法学者のうちのある人々が答えて言った、『先生、仰せのと通りです』。彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった」。

 
ルカ20:27〜40

T.サドカイ人について

 
★パリサイ人と並んで主イエスの時代に政治と宗教にかかわっていた党派所属の人々で、その名称はダビデ時代の大祭司ザドク(Uサムエル15:24)に由来すると言われます。
 ★彼らはユダヤ社会の富裕層に属する少数派で、世俗的でした。肉体の復活はもちろんのこと天使や霊の存在も否定していました。
 ★現代のキリスト教界にキリストの肉体の復活を信じない現代主義者と呼ばれる哀れな
(Tコリント15:17〜19)神学者や牧師と彼らが率いる教会があるように、新約聖書の時代にもサドカイ人のように肉体の復活を信じない自称信仰者と言われる人々がいました。
 ★バプテスマのヨハネは、パリサイ人と一緒に彼らを「マムシの子ら」と呼び、主イエスも偽善のパリサイ人と世俗的サドカイ人との両者に警戒するように弟子たちに警告しておられます
(マタイ16:6〜12)


U.主イエスのお答え
 
a.かの世に入って死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちとは
 
★「あずかるにふさわしい者たち」と訳されているギリシャ語は、ギリシャ語独特の時制アオリスト(不定過去/過去の一っ時に終了した行為を表す)の分詞形で表現されていますから、「あずかるにふさわしいと認められた者たち」ということになります。
 ★すなわち、「終わりの日の復活にあずかり新天新地に入国を許された人たち」ということです。


 b.結婚することも死ぬこともない

 
★永遠至福の新天新地での新生活を今の私たちには十分に理解することは出来ないかも知れません。
 ★今はごく少数の選ばれた人々しか体験できない宇宙旅行でさえ、想像と実体験とでは大きく違っていることでしょう。
 ★ましてや、キリスト再臨後の新天新地は今の世界とは次元の違う世界です。宇宙旅行とは比較にならない驚くべき感動の連続の体験となることでしょう。
 ★赤ちゃんたちがこの世に生れて初めて見るものに「これ何?」「あれ何?」と興味しんしんの顔で眺めまわし、触りまくる以上の感動と感激と興奮の中で日々を過ごすことになることでしょう。
 ★この世では、病気になり、けがをし、年をとり、体力も気力も衰え、そして死にます。しかし、新天新地では体力も気力も若者の活力以上の活力と元気で、死ぬことなく永遠に過ごせるのです。
 ★キリストの栄光のからだと同じからだで、障害物を通過し、瞬時に行きたいところに行けることでしょう。
 ★「結婚がない」という点が、まだ結婚していない人々には唯一物足りない点かも知れません。しかし、これは新天新地をこの世の判断基準で見ているための誤解です。
 ★それは、幼稚園の子供が大人の生活を見て、オモチャで遊べないから「大人の生活はつまらなそう!」と思うようなものです。
 ★新天新地の楽しみに比べたら、この世の楽しみはオモチャに等しいと言えるでしょう。


V.アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
 a.主イエスと聖書
 ★「モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで・・・」と主が引用しておられる聖書箇所は旧約聖書出エジプト記3:6で、そこには、主なる神がモーセに向かって、
 「私は、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
と言われたと記されています。
 ★このことは、モーセが書いた文書をキリストが神の言葉と認めておられることを意味します。
 ★主イエスは地上の生活において、聖書をよく読んでおられました。それは、私たちに手本を示すためでもありました。神のことば(ロゴス)ご自身であられた主がみことばを日々読みながら歩まれたように、みことばを読みながら日々を過ごすことは神の民にふさわしい生き方であり
あるべき姿であることを主は教えておられます。

 
b.神は死人の神でなく、生きた者の神です

 ★神は地の泥を用いて、最初の人間アダムを造られました。土を人の形に造り、その鼻の穴に息を吹き込まれると、その死んだ泥人形は生きた人間となったのです。神が、命のない土偶に生命の息を吹き込まれたのです。神の手にかかると死んだ物が生きた者に変化するのです。
 ★このアダムが、神との約束を破り、取って食べてはならない善悪を知る木の実を取って食べた時、アダムは罪を犯し、霊的に死に肉体的にも死ぬべき者となりました。罪を犯す者は神の御前から追放され、サタンの奴隷として死とやみの世界に引き渡されます。
 ★主なる神は罪の支配するヤミと死の世界の神ではなく、光と命の支配する天にいます神です。

 c.私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である
 ★モーセが主からこの言葉を聞いた時、アブラハムもイサクもヤコブも、何百年も前に死んだ過去の人たちでした。しかし、主は「わたしはアブラハムの神でした」ではなく、「アブラハムの神である」と現在形で話すことによって、この三人の族長たちが、今も生きている人たちであることを表しています。
 ★これは、彼ら族長たちが霊的に生きているというだけでなく、来るべき世に肉体的に復活することが約束された人たちであることを表しています。
 ★なぜなら、主が最初の人間アダムを霊・心・体を持つ者に造られたように、主はアブラハムをも霊・心・体を持つ者に造られました。アダムの神はアダムの霊だけの神ではなく、霊・こころ・からだの神であられます。
 ★同様に、主はご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれることによって、主はアブラハムをはじめ他の二人の族長たちを霊・こころ・からだを持つ完全に生きた人間として扱っておられるのです。主は、過去・現在・未来のことを今その全体像を見ておられるのです。すなわち、終わりの日に彼らが、完全な姿で復活することを保証しておられるのです。
 ★主なる神がアダムに身体だけでなく、霊・心・体をワン・セットとして与え、この三つがそろってはじめて人が人であり得る者に御造りになったのです。
 ★主なる神にとって人間の体は、ご自分の栄光を表わさせるためになくてはならない存在なのです。聖書は次のようにそのことを語っています。

 
「食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし、神はそれもこれも滅ぼすであろう。
 からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、私たちをもよみがえらせてくださるであろう」。 (Tコリント6:13,14)


 ★アブラハムら族長たちは、この世では旅人であり、寄留者として天の故郷を望み見ながら、地上の困難な生活を忍耐をもってまっとうしました。

 
「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出てゆけとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、揺るがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都を目論み、また建てたのは、神である」。  へブル11:8〜10

 ★ヤコブは年老いて、息子たちとカナンの地からエジプトに来てパロの前に出た時、パロに「私のたどった年月は130才で、私の齢はわずかで、ふしあわせで、先祖の年齢に及びません」と言っています。
 ★主が「ヤコブの神」と言われた、そのヤコブの地上生活が、本人が告白するように不幸な地上の一生だけで終わるものであるなら、主はご自分を「ヤコブの神」とは、お呼びにならなかったことでしょう。
 ★アブラハムもイサクもヤコブも、新天新地が再創造され、死人の中から主と同じ栄光のからだによみがえった日には、地上の苦難の生涯をつぐない補修し、報いて余りある至福の生活に招き入れられるのです。
 ★主はご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれることによって、この絶大なる祝福を彼らに、そして彼らに続く私たちに保証しておられるのです。




URL http://31church.net
キリスト紀元2007年 3月 1日公開


ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net
25