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     メッセージ

〈20〉柔和な者、義に飢え渇く者の幸い

聖書
「柔和な人達は、幸いである、彼らは地を受け継ぐであろう。
 義に飢え渇いている人達は、幸いである、彼らは飽き足りるようになるであろう」 (マタイ5:5,6)。

柔和な者の幸い

a
.聖書が言う柔和とは

 ★世間の人々は、クリスチャンは羊のように従順なおとなしい人達と思っています。そして、日本語で「柔和な人」と言えば、そういう人のことを指します。しかし、新約聖書ギリシャ語の「柔和な」(プラウス)と言う言葉は、飼いならされ、調教によって、以前野生の手に負えない性格が、従順になった時、その動物は「プラウスである」(柔和である)と言われるのです。
 ★従って、聖書が言う「柔和な人」とは、生来が鉄のような固い意志を持ちながらも、神の力によって完全にコントロールされている人を指します。
 ★旧約聖書民数記12:3には「
モーセの人となりの柔和なこと、地上のすべての人に勝っていた」とありますが、その柔和なモーセも、生来は血気にはやる向こう意気の強い人でした。エジプトの王女の養子として宮廷に住んでいた時、同胞のイスラエル人がエジプト人に迫害されているのを見て、そのエジプト人を殺害し、外国に逃亡したと言う前歴の持ち主です。
 ★
「私は柔和な者である」(マタイ11:29)と言っておられる主イエスもその「柔和な」ご性格を獲得されるまでには「涙と叫びによる祈りと苦難」(ヘブル5:7,8)の修練があったのです。
 ★「イスラエルを呪ってはならない」という主のみ言葉を知りながら、イスラエルに呪いを招く方法をモアブの王バラクに教えた預言者バラムのように、「金持ちになりたがる」欲望を戒める下記のような聖句を知りながら、人々に「クリスチャンになると金持ちになれる」という間違ったことを教える説教者は「柔和なキリスト」とは似ても似つかぬ人々と言わざるを得ません。

 
「私たちは何一つ持たないでこの世に来た。また、何一つ持たないでこの世を去ってゆく。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑とわなとに陥り、また、人を滅びと破壊に沈ませる、無分別な恐ろしい様々な情欲に陥るのである。金銭を愛することはあらゆる悪の根である」(Tテモテ6:7〜10)

b.その人は地を受け継ぐ
 ★主は次のみ言葉を想起しつつ語っておられるようです。

 
「11しかし、柔和な者は地を受け継ぎ、豊かな繁栄を楽しむことができる。16正しい者の持ち物が少ないのは、多くの悪しき者の豊かなのにまさる」詩篇37:11,16
 「少しの物を所有して主を畏れるのは、多くの宝を持って苦労するのに勝る」
(箴言15:16)


 ★金持ちになりたがる人々は現状に満足できず、心に安らぎがありません。それに反して、

 
「しかし、信心があって足りることを知るのは、大きな利得である」(聖書協会口語訳)「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(新改訳)共にTテモテ6:6

 ★神に逆らって富を貪る人々より、一皿の食を日々感謝して食する人々の方が地上生活を真に人間らしく生きているのです。
 ★主にあって柔和な人の幸いは、世の終わりの日・キリストの再臨の後に明らかになります。主にあって柔和な人々は、キリストの再臨後に再創造される新天新地を受け継ぐからです。
 ★キリストの救いは、仏教の悟りのように、心の中だけの出来事ではありません。今の世と来るべき世とで現実に起きるできごとです。その確証がキリストの十字架と復活です。

義に飢え渇いている者の幸い
a,義とは何か

 ★「義」とは本来は「神の御心に完全に一致した生活」のことで、この義を完全に成就された方は、神の御子イエス・キリストを置いて他にありません。
 ★アダムの罪を受け継いで生まれてくるすべての人類はみな神の御前に罪人であって義人は一人もいません
(ローマ3:10)
 ★永遠の裁きに定められている私たちを哀れみ救うために父なる神が独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちの救いのために、罪の無いキリストを
「罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)として十字架に死なしめ、罪のあがないを成就して下さいました。
 ★これによって、キリストが私たちの義となり、救いとなられたのです。

b.義に飢え渇くとは
 ★「飢え渇く」という表現には食べ物に対する強烈な願いが表されています。生きている者は日々止むことなく食べ物を求めます。
 ★信仰による義人たちは同様に「神の義」すなわち「キリストにある信仰の義・罪の赦し・救い」を日々止むことなく渇き求めます。
 ★私たちキリスト者から見る時、世の人達のキリストに対する無関心さには、あきれるばかりです。
 ★老後の備えには抜け目の無い世の人達が、もっと重要なはずの死後の備えに関しては、全く関心を示しません。何の根拠も無しに、ただ死人が目の前から消えて居なくなるので、死後の命は無いと勝手に判断しています。
 ★すべての人々が生まれながら霊的に死んでいるので
(エペソ2:1)、神の義・キリストを渇き求めることはありません。死人には肉体的にも霊的にも食欲はないのです。
 ★このような人々が義を渇き求めるとするなら、それは神から来ています。

「天の父なる神が引き寄せてくださらないなら、誰も私のもとに来ることはできない」(ヨハネ6:44)

とある通りです。
 ★神の恵みによって「義に飢え渇く者」とされた人々は幸いです。その人は神の義・救いに満たされるようになるからです。
 
「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失わずに、終わりの日によみがえらせることです」(ヨハネ6:39)

c.パリサイ人の義に勝る義

 ★主は

「あなた方の義が律法学者やパリサイ人の義に勝っていなければ、決して天国に入ることは出来ない」(マタイ5:20)

と言われました。
 ★律法学者やパリサイ人の考える義は外面的な義ですから、内面的義を求める飢え渇きが彼らにはありません。
 ★使徒パウロが渇き求めた義は内面的・霊的聖さ、義しさですから地上に居る限り、これで十分ということがなく、

「私がすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとかいうのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである」(ピリピ3:12)

とパウロが述懐している通りです。
 ★使徒パウロは更に

「キリストを知る知識(義)の絶大な価値の故に一切のこと(家柄や地位・名誉)を損と思い、糞土のように思っている」(ピリピ3:7〜9)

と語っています。

d.彼らは飽き足りるようになる
 
「私たちは今は鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかし、その時には、顔と顔とを合わせて見るであろう」(1コリント13:12)

とある通り、義に飢え渇く者が神の義に満ち足りる時が来ます。それは、キリストの再臨後に再創造される新天新地に入れられた後、義への飢え渇きは癒されるのです。すなわち、次の主の約束が完全に成就するのです。

 
「イエスは彼らに言われた、『私が命のパンである。私に来る者は決して飢えることが無く、私を信じる者は決して乾くことがない』」(ヨハネ6:35)



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キリスト紀元2006年 5月 20日公開


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