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     メッセージ

〈18〉12才の死と12年の病気からの救い

聖書
 ★21
「イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大勢の群集がみもとに集まって来た。イエスは海辺におられた。
 ★22そこへ、会堂司の一人であるヤイロという者が来て、イエスを見かけるとその足元にひれ伏し、 23しきりに願って言った、『私の幼い娘が死に掛かっています。どうぞ、その子が直って助かりますように、お出でになって、手を置いてやってください』。 24そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大勢の群集もイエスに押し迫りながらついて行った。

 ★25さてここに、12年間も長血をわずらっている女がいた。 26多くの医者に掛かって、散々苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまったが、何の甲斐も無いばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。 27この女がイエスのことを聞いて、群集の中にまぎれ込み、後ろから、御衣にさわった。 28それは、せめて、御衣にでも触れば、直して頂けるだろうと、思っていたからである。
 ★29すると、血の元が直ぐに乾き、女は病気が治ったことをその身に感じた。 30イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気付かれて、群集の中で振り向き、『私の着物に触ったのは誰か』と言われた。 31そこで弟子達が言った、『ご覧の通り、群集があなたに押し迫っていますのに、誰が触ったかと、仰るのですか』。 32しかし、イエスは触った者を見つけようとして、見回しておられた。

 ★33その女は自分の身に起こったことを知って、恐れおののきながら進み出て、御前にひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。 34イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかり直って、達者でいなさい』。

 ★35イエスが、まだ話しておられる内に、会堂司の家から人々が来て言った、『あなたの娘は亡くなりました。この上、先生を煩わすには及びますまい』。 36イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れる事は無い。ただ信じなさい』。 37そして、ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、付いてくる事を、誰にもお許しにならなかった。
 ★38彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをご覧になり、 39内にはいって、彼らに言われた、『何故泣き騒いでいるのか。子供は死んだので無い。眠っているだけである』40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいるところにはいって行かれた。
 ★41そして子供の手を取って、『タリタ、クミ』と言われた。それは、『少女よ、さあ、起きなさい』と言う意味である。 42すると、少女は直ぐに起き上がって、歩き出した。12才にもなっていたからである。彼らは、たちまち非常な驚きに打たれた。 43イエスは、誰にもこのことを知らすな、きびしく彼らに命じ、また、少女に食事を与えるように命じた。」  マルコ5:21〜43; 参考 マタイ9:18〜26; ルカ8:40〜56;


はじめに
 ★すべての出来事が神の御前にあっては偶然に起こることはありません。まして、聖書に記された主のご生涯の出来事が偶然の出来事であるはずがありません。
 ★上記の聖書テキストには二つの出来事が絡み合っています。そして、二つの出来事には12と言う数字の共通点があります。この12と言う数字は、1日を昼と夜に分けた時のその半日の時間12時間を表す数字であり、一年の月数の12ヶ月の数字でもあります。
 ★このように12と言う数字は「時」と深い関係があります。少年イエスが両親にとって行方不明となったエルサレムでの出来事は主イエスが12歳の時でした
(ルカ2:42)。12歳は子供から大人への変わり目、自我に目覚める時と言えましょう。
 ★この少女は子供から大人に移る人生の変わり目に病いに倒れ、華やかな青春時代を迎えることも無く、人生に別れを告げざるを得なかったのでした。
 ★他方、長血を患っていた女性は、華やかな女性の花の時代を婦人病に苦しめられ、治療のために全財産を費やしながら、何の成果も無く、ますます病状が悪化する絶望的状況の中で、人目を避けつつ、神に救いを祈り求めて日々を必死に生きていました。


テキスト聖書の概要
 
★一人の会堂司が来て「娘が死に掛けているので来て直してください」と頼まれ、主イエスは彼の家に向かう。途中で群集にまぎれて12年間長血をわずらう婦人が主の衣のすそに触れる。すると、婦人は直ちに癒されたことを知る。主はご自分から力が出て行ったことに気付いて、振り向いて「私に触ったのは誰か」と呼びかける。女性が名乗りでると、主は彼女の信仰が彼女を救ったことを宣言なさる。
 ★少女の死が伝えられても、主は会堂司の家へ行き、少女を死から呼び起こし、両親に「彼女に食事を与えるように」と命じられる。


T.長血の婦人の癒し
A. 長血の女性の気の毒だった状態
 
★この病気の人は人を汚す者として人との接触を控えなければ
なりませんでした(レビ15:1〜12)。更に、病気の治療のために全財産を医者につぎ込みながら、良くなるどころか悪くなる一方でした(26節)
 ★彼女は主イエスのうわさを耳にして、「この方の衣に触りさえすれば癒される」と心の中で固く信じていました
(28節)。主イエスも聖書もこの女性の信仰を迷信としてさげすんでいません。使徒行伝は、次のような奇跡を書き記しています。

 「神はパウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。たとえば、人々が、彼の身に着けている手ぬぐいや前掛けを取って病人に当てると、その病気は除かれ、悪霊が出て行くのであった」
(使徒9:11,12)

 
★このみ言葉は使徒パウロの身に着けていた物を通して人々が受けた癒しを、パウロの手による神のみ業と呼んでいます。
 ★変貌山では主のお体だけでなくそのみ衣も光のように輝いた」と聖書は言っています
(マタイ17:2;マルコ9:3;ルカ9:29)。主の衣は主の栄光と力を受けて光り輝いたのです。ですから、この女性の信仰によってみ衣は事実主の癒しの御力の媒介物となったのです。
 ★聖餐式においても、司式者の祝祷によって、パンとぶどう酒は主イエスのきよめと癒しの御力を信じる者に今日も伝達するのです。


B. この女性の信仰
 
★この時、群集が主イエス一行に「押し迫りながらついて歩いていた」(24節)のに主が「私に触れた者は誰か」と呼びかけられるのを聞いて、人々は不思議に思いました。「先生、群集があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」とペテロは言いました(ルカ8:45)。多くの人々が主の衣どころか御体にも触れていたのです。
 ★しかし、主の御力を受け取ったのは、この信仰深い女性だけでした。


C. 主イエスの癒しときよめの力と優しさ
 
★律法が人を汚す者と定めた(レビ15章)長血をわずらっていたこの女性の手は、主の御衣も主イエスをも汚すことはなく、反対にきよめ、癒す主の御力を受け取る電気コードの差込と化して、彼女の全身が癒されきよめられたのでした。
 ★この婦人は自分の病気の性質上、これを隠し続け、この時も、群集にまぎれてこっそりと御衣に触れ、癒しを受けた後、主にも誰にも知られないまま、直ぐに帰ろうと密かに考えていました。
 ★しかし、どのような行動も、主の目から隠れることは出来ませんでした。主が「わたしに触ったのは誰か」と辺りを見回された時、もう隠し切れないと観念し、自分の行為のために叱られるのではと思いつつ、震えながら主の御前に名乗り出ました。その時の様子を、ルカ福音書はこう書いています。


 「女は隠し切れないのを知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、イエスに触った訳と、さわるとたちまち直ったこととを、みんなの前で話した」
(ルカ8:47)

 
★さぞかし恥ずかしい思いで、この女性は告白したことと思われますが、しかし、このことがこの女性にとって霊・心・からだの全身全霊の全き癒しと清めと救いの時となりました。病いと汚れからの決定的な決別の時となったのです。
 ★主から「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかり直って、達者でいなさい」と公に癒しを宣言されて、自らが体験した癒しが単なる一時的、気分的なものでなく、主の保障してくださる絶対的なものであることを深く確信したのでした。


U.12歳少女のよみがえり
A. 少女の父親にとって長血女性は邪魔者ではなく、信仰による救いの証人だった
 
会堂司の家から人々が来て「あなたの娘は亡くなりました。」と言う言葉を主が「聞き流して」36節に訳されている語(パラクーオー)は新改訳のように「(その話の言葉を)そばで聞いて」という意味もあり、この36節は新改訳の方が適訳だと思われます。
 ★主は父親の会堂司に「恐れる事は無い。ただ信じなさい」と言われました。この主の励ましの御言葉は、信仰によって長血を即座に癒された婦人の証しを目撃して信仰を鼓舞されたばかりの会堂司には、大いに効き目のある激励の言葉でした。


B. 主イエスの人の死についての見方
 ★会堂司の家に着くと、主イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをご覧になり、内にはいって、彼らに言われた、「何故泣き騒いでいるのか。子供は死んだので無い。眠っているだけである」と言われました(38,39節)
 ★人の死は主が言われるように一時的な「眠り」でしかありません。すべての死人が墓から呼び起こされる時が来るのです。それは、主イエスの再臨の日です。
 ★その日には、主イエスを信じて死んだ死人は復活の主と同じ栄光のからだによみがえり、主を無視して死んだ人々は永遠の裁きを受けるために、醜い恥のからだによみがえり
(ダニエル12:2;マルコ9:47,48)、硫黄の燃える池の中で永遠に苦しむために(黙示21:8)否も応もなく、よみがえらされるのです(使徒4:15)

C. 信仰が無くては主を喜ばすことは出来ない
 
★40節「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいるところにはいって行かれた」
 ★信仰を持たず、あざ笑う人々を外に出して、主は父母と弟子達を連れて子供の寝かされている部屋に入って行かれました。
 ★「信仰が無くては主を喜ばすことはできない」
(ヘブル11:6)とあります。主は信仰を持つ人々の信仰を更に成長させるため、また主のみ業の目撃者とし証人とするために、彼らだけを連れて、部屋に入られました。

D. 主が「少女のよみがえりを誰にも言うな」と言われた理由
 
★第一には、死人のよみがえりの奇跡のうわさを聞き付けて、ますます人々が押し寄せ、主イエス本来の御国の福音の説教の務めが妨げられることを避けるためです。
 ★第二には、主イエスの「ご自身の時」、つまり十字架に掛かるタイミングをコントロールするためです。主イエスの死は早まっても遅すぎてもいけない、御父が定められた最適の時を選ばなくてはなりませんでした。
 ★ですから、今は敵対するユダヤ人を刺激しないように、少女のよみがえりは、密かに行われなければなりませんでした。
 ★ご自身以外の主が行われた死人のよみがえりの三件の中の一つが、この少女のよみがえりで密かに行われましたが、もう一つのナインのやもめのよみがえりは屋外で葬儀の参加者が見守る中で公然と行われました。三つ目のラザロのよみがえりは主を石打にしようと身構えるユダヤ人たちの面前で行われました
(ヨハネ11:8,38〜53)
 ★主イエスは私たちの救いのために十字架にかかり、死からよみがえるという御父から授けられた使命を果たすために、御父の導きの下に思慮深く行動しておられたのです。

 
E. この少女のよみがえりは全き健康へのよみがえりでした。死の直前の病身への蘇生でなく、完全な健康体へのよみがえりでした
 ★42節「少女は直ぐに起き上がって、歩き出した。」とあるところの、「歩き出した」は「歩く、歩き回る」と言う意味の「ペリパテオー」の未完了過去形ですから、「歩き回り続けた」とも訳せます。死ぬ前、床に伏していたこの少女は、完全な普通の健康体によみがえって元気に歩き回り続けたのでした。

結び
 ★この12歳で死を体験した少女と両親、並びに12年の永きにわたる悲惨な病の女性は、それぞれの苦悩を通して主に出会い、信仰によって主の癒しと救いに預かる幸いを得ました。
 ★悩むことの無い人生、苦悩することを知らない人生、人もうらやむ幸せ一杯の人生を送る人々があったとしても、その人々がその幸せ故に、救い主イエス・キリストを知らずに生涯を閉じるなら、その人生は、神の御前に、何と哀れな人生でしょうか。世の終わりの日に神の裁きを受ける時、その人を弁護してくださる救い主がいないからです。
 ★それに反して、地上の生活がこの2例の人々のように苦悩に見舞われるものであっても、その苦しみゆえに主イエスに出会い、その救いに与った人々は何と幸いなことでよう。


 ★「あなた方今泣いている人達は、幸いだ。笑うようになるからである」
(ルカ6:21)




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キリスト紀元2006年 4月 30日公開


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