ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net
 ★兼好法師の徒然草第41段に次のような話が載っています。
 兼好法師が上加茂神社の馬場で行われていた競馬を見物に出かけた折の話です。木に登って木の股に座り枝につかまって競馬見物をしていた人が居眠りを始めました。人々が見ていると、その人は眠り込んであわやおちそうになると目を覚ますということを何度も繰り返していました。下にいた見物人たちはそれを見て「何という大バカ者か。よくもあんな高い、危険なところで居眠りをしていられるものだ」と、口々にののしっていました。
 ★ちょうどそこに居合わせた兼好法師はとっさに思い浮かんだことをそこの見物人たちに言いました。「私たちに死のやってくることは、この今の瞬間かも知れない。それを忘れて競馬見物で日を過ごしている事のほうが、木の上で舟をこいでいるあの人よりよっぽど愚かではなかろうか」
 ★キリスト教の法師である筆者がこの兼好法師の話を引用した意図を読者の皆さんはすでにお分かりであって、改めて言うまでもないことではありますが、しかし
「分かっていると言いながらそれを実行しないなら、それはその人の罪である」(ヤコブ4:17)と聖書が言っていますので、その罪から逃れる道をお話します。

 ★9.11のニューヨーク世界貿易センタービルのテロや阪神淡路大震災に突然襲われて多くの人々が死亡した出来事などの直後なら、人は誰でもいつどこで何によって命を奪われるか分からないはかない存在であることを誰もが自覚させられます。
 ★しかし、それはほんのつかの間で、テレビや新聞が話題として取り上げなくなるはるか前に、以前の通り「人が死んでも私は死なない」という心境に戻っています。
 ★人は死ぬべき者であることを痛感させる事件の数々に接しながら、相変わらず死後の生活の備えをしようとしない人間は、兼好法師が言うように、まったくの愚か者と言わざるを得ません。
 ★このような生まれながらの人間の性質を聖書は、
「人は霊的に死んでいる」(エペソ2:1,5と言っています。
 ★この霊的死から命に移るためには、人は十字架の死と復活を遂げられた主イエス・キリストを見上げるしかありません。

 
「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、誰も天に上った者はいない。そして、ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。ヨハネ3:13〜15

 ★モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエル民族は荒野での過酷な生活に嫌気が差し、神と指導者モーセにぶつぶつ文句を言いました。すると、神は毒蛇を人々の所に送ったので、人々はばたばた倒れ、死者も多く出ました。民が悔い改め、モーセが執り成しの祈りを捧げると、主はモーセに「青銅の蛇を造ってさおの上に取り付けて、民の前に掲げよ。民が、それを見上げるなら、生きる」と言われました。モーセがそれを造って民に示すと、信じて見上げた者たちはみな癒され救われました
(民数記1:4〜9)
 ★十字架の主イエスを信じて見上げる人は、今も罪の毒から救われ生きるのです。

 ★さて、兼好法師の話には続きがありまして、兼好法師の思いつきの話に人々は感じ入って、「本当にその通りだ。私たちこそ大ばか者だ」と言って、みな後ろを振り返って、「どうぞ、ここへお入りください」と言って、場所を空けて私を呼び入れてくれたので、楽しく競馬見物が出来た、という話です。
 ★結局、人々に反省を促した本人が無反省な人々の仲間入りをした、という訳で後世の徒然草研究者たちの批判を呼んでいますが、筆者はむしろ兼好法師の自分を飾らない素直さに好感を持ちました。
 ★筆者が読んだ(と言ってもまだ全部読んではいません)角川書店版「徒然草全注釈」安良岡康作著によると、この出来事はどうやら兼好法師が13歳の少年の頃の話であった可能性が高いとのことです。
 ★兼好法師はここに書かれているように車(牛車)に乗って競馬見物に来るような身分の高い家の人であり、人々が13歳の少年兼好の即席説法に耳を傾けたとしても不自然ではありません。
 ★13歳の少年なら、人々の厚意によって提供された見物席に喜んで座った事も批判の対象とはなりません。彼が、この時、見物席を空けてくれた人々について、「人は木石ではないので、時宜を得た時には人の話に感じ入ってくれることもあるのだなあ」とその時の感想を述べていますが、競馬見物が出来たことを喜ぶ少年の心境と見ればうなずけます。

 ★徒然草の最後の第243段に8歳の時の兼好が父に仏について尋ね、父親が答えに窮してしまい、「こどもに問い詰められて、答えられなくなってしまったわい」と周囲の人々に笑いながら息子自慢をしていた逸話が出ています。
 ★その仏についての親子問答は次のようなものでした。
 子「仏とは何ですか」
父「仏とは、人がなるのじゃ」
 子「人はどのようにして、仏になれるのですか」
父「仏の教えによってなるのじゃ」
 子「仏の教えを教えたその仏は誰に教えられたのですか」
父「それも前の仏の教えによって仏になったのじゃ」
 子「その教え始めた最初の仏はどんな仏でしたか」
父「天から降ってきたのじゃろか、それとも地から湧いて来たのじゃろか」と言って笑った。
 ★この8歳の時の兼好と父の問答を見れば、13歳の兼好が競馬場の大人たちを感心させ、感動させたのもうなずけます。

 ★さて、偶像を拝んでいる多くのわが国同胞の皆さんに兼好親子のこの仏問答から、学んで頂きたいと思います。
 ★「父母を敬え」と十戒の第五戒にありますから、先祖を敬うことは正しいことですが、「敬うこと」と「礼拝すること」とは別です。
 ★先祖の先祖であり、最初の先祖である世界最初の人間を拝むのではなく、最初の人間をお造りになった天地の創造主なる唯一のまことの神さまこそ拝むべきではないでしょうか。
 ★世界の人々が拝んでいる神々・仏と呼ばれるものの上に立つ唯一のまことの神こそ拝むべきお方ではないでしょうか。

聖書
 「さて、偶像への供え物を食べることについては、私たちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神々、多くの主があるようではあるが、私たちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、私たちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、私たちもこの主によっている」Tコリント8:4〜6




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キリスト紀元2006年 11月 10日公開


〈16〉徒然草から拾った話
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