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   みことば黙想

〈8〉ジャン・カルヴァンと異言

 ★「私は実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望む」
(1コリント14:5)。

 ★メッセージ〈3〉異言についてのところで引用したように、宗教改革者カルヴァンが上記のみことばの注解の中で「異言を悪く言ったり、反対論を放つ大神学者が後を絶たない」ことを述べた後で、「聖霊はこの聖句によって異言を不朽の賞賛をもって飾ろうとされたのである」と語っています。そう言う訳で、カルヴァンは「異言は廃れた」とは言っていません。しかし、1コリント12〜14章の彼の注解を読む限り、彼自身は異言を語る人ではなく、異言についての理解も十分ではなかったようです。
 ★その理由は、同14:14の「もし私が異言をもって祈るなら、私の霊は祈るが、知性は実を結ばないからである」の注解の中で次のように語って異言の祈りを否定していること、「神の御霊が一人のローマ人の舌に働きかけて、彼にとって全く未知のギリシャ語を語るようにされたなどと言うばかげたことがあり得るだろうか」。また、同14:5の注解などの中で、「パウロは福音をすべての国民に広めるための道具としてのみ異言を認めているのだ」と解釈しているからです。そして、その異言は「苦労や勉学の末に身につけたものでなく、聖霊の驚くべき啓示によって授かった賜物である」と言っています
(同12:10のカルヴァンの注解)
 ★宗教改革に対抗してカトリック内に対抗改革運動を起こしたイエズス会の会士フランシスコ・ザビエル
(1506〜52)がインドや日本で伝道した時に異言の賜物を用いて伝道したと言われています。異言を語る某教会の人望がある長老夫人は韓国で開かれた修養会で同室になったアフリカ人女性と異言の賜物を用いて意思の疎通を図ることができたと礼拝の証の時に語っております。そのアフリカ女性の苦悩する様子を見て深い同情心から祈ったところ、腹から湧き出るように異言が出てきて、その時点ではお互いに意味を理解し合ったとのことです。その結果、その会話によってそのアフリカ女性は喜びに輝き、踊りださんばかりに変貌したそうです。その長老婦人はそのアフリカ女性と別れた途端にその言語を話せなくなり、その言語が何語であったか全く知らないということです。従って、ザビエルが異言で伝道した時、自分が語る異言の意味を理解して語っていたと思われます。そして、そういう形での異言のみをカルヴァンは認めるという訳です。
 ★しかし、上記のような異言の使われ方は特殊なケースです。普通の異言は語っている本人も理解できないことばでなされます
「知性が実を結ばない」(1コリント14:14)とはそういう意味です。パウロが「霊で祈ると共に、知性でも祈ろう」(1コリント14:15)という時の「霊での祈り」が知性が実を結ばない異言の祈りであることは文脈から自明のことです。上記の長老夫人がアフリカ女性と異言で意思の疎通ができたのも、日常のデヴォーションでパウロほどでないにしても異言の祈りの修行を積んでいたからであって、カルヴァンのように頭だけでそのような奇跡を容認する信仰では決してその奇跡の体験をすることはできません。
 ★カルヴァンは「知性の関与しない霊による異言の祈り」をそれが自分の理性にとって「ばかげたこと」だという理由で認めようとしません。異言のように神に属する超自然的事柄を人間の理性で批判しようとするカルヴァンに見られるような、人間の思い上がりによって信仰がゆがめられ毒されないためにこそ、理性の上に立つ霊の祈りとしての異言の祈りが必要不可欠なのです。パウロが1コリント2:4,5で「私の言葉も私の宣教も、巧みな知恵によらないで、霊と力の証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」と言っているのは、そういう事をも指して言っているのです。
 ★異言の祈りにどんな意味があるか、数多くの実例の一つを挙げておきます。ある主婦が台所で食器を洗っていた時のことです。彼女の内に執り成しの祈りの願いが強く起きてきました。それで、手を拭いてすぐに、どこの誰かも分からない人のために異言で祈り始めました。やがて開放感が訪れ、聖霊に導かれたその祈りに、神が答えられたと感じたのです。その後、一人の帰省中の友人である宣教師から、ちょうど同じ日の同じ時刻に、非常な困難に直面し、主に助けを求めて祈っていたということを知らされたのです
(ロバート・フロスト「聖霊の現れ」生ける水の川発行 1972年 p65)
 ★このような証は異言の祈りの体験談としてよく聞く話しです。


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キリスト紀元2003年 6月 1日公開


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