ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net
みことば黙想
〈34〉自分の弱さを誇る
聖書
「1私は誇らざるを得ないので、無益であろうが、主の幻と啓示とについて語ろう。
2私はキリストにあるひとりの人を知っている。この人は14年前に第三の天にまで引き上げられた―それが、体のままであったか、体をはなれてであったか、それも知らない。神がご存じである。3この人が―それが、体のままであったか、体を離れてであったか、私は知らない。神がご存じである―4パラダイスに引き上げられ、そして口に言いあらせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを私は知っている。5私はこういう人について誇ろう。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。6もっとも、私が誇ろうとすれば、本当のことを言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それは差し控えよう。私がすぐれた啓示を受けているので、私について見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
7そこで、高慢にならないように、私の肉体に一つのとげがあたえられた。それは、高慢にならないように、私を打つサタンの使いなのである。8このことについて、私は彼を離れさせてくださるようにと、3度も主に祈った。9ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。
それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10だから、私はキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからである」。Uコリント12:1〜10
はじめに
★使徒パウロは、ピリピ3:7〜9で次のように述べています。
「しかし、私にとって益であったこれらのものを、キリストの故に損と思うようになった。私は、更に進んで、私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故に、一切のものを損と思っている。キリストの故に、私はすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、私がキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見出すようになるためである」。ピリピ3:7〜9
★キリスト教会の迫害者であったパウロの心に、上記のような変革をもたらした最初の出来事はダマスコ途上での復活の主イエスとの出会いであり(使徒9:1〜19)、キリストを信じる信仰による救いであったことは、言うまでもないことです。
★このパウロを更に霊的に強化し、キリストの使徒として受ける壮絶な迫害を耐え忍ぶ信仰を養成するために第三の天に上げられる体験を許されたものと思われます。
T.パウロの肉体に与えられたとげとは何か
★パウロは14年前に自分が味わった第三の天に上げられるという特別な体験の故に、高慢にならないように、肉体にとげが与えられたと言っています。
★その第三の天とは多くの注解者が解釈している通り4節に出てくるパラダイス「天国」のことでありましょう。パウロは地上に生きながらにして天国を垣間見るばかりでなく、天国の命を体験したものと思われます。
★その体験が余りにも優れたものであるために、人々からほめそやされたり、自分自身がうぬぼれたりすることがないように、そのブレーキの働きをする肉体のとげが与えられたのです。
★その「とげ」と訳されているギリシャ語スコロプスはもともとはテントを張る時に使われる杭を表すことばでしたが、聖書の時代にはとげ、破片の意味で用いられていると辞書にはあります。
★筆者は最近腰椎を痛めて、一晩中安眠できない激痛を味わいましたが、パウロの肉体にささったとげは、あの時の筆者の体験した痛みのような激痛をパウロに与える肉体にささった杭のようなものであったかも知れません。
★その肉体のとげが何であったかについては、パウロ自身が明らかにしていないので、我々には分かりませんが、それが何であるかはっきり分からない事は私たちにとって幸いなことです。なぜなら、パウロのとげの体験は、パウロだけの体験に留まらず私たちすべてのキリスト者にとっての共通の教訓となるために書かれていると理解できるからです。
「これまでに書かれた事柄は、すべて私たちの教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めによって、望みをいだかせるためである」。ローマ15:4
★この「とげ」なるものが何であったか、特定できなくても、上記10節のことばから、このとげが私たちに弱さを自覚させ、謙遜と忍耐へと導くすべての体験と自分に突き付けられた各種の困難な現実と言っていいでしょう。
U.「わたしの力は弱いところに完全にあらわされる」という御言葉の意味
★主イエスはヨハネの福音書15章5節で次のように言われました。
「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。私から離れては、あなた方は何一つできないからである」。ヨハネ15:5
★主は、上記のみことばの中で「私から離れては、あなた方は何一つできない」と言われました。神の御心にかなうキリスト者としての善い行いを何も出来ないということです。
★しかし、私たちには、それがなかなか理解できないのです。キリストとの関係なしに、結構いろいろ満足の行くことを自力で出来ると思い込んでいるのです。
★そこで、パウロのように肉体のとげを与えられて、自分の弱さ、無力さを自覚させられ、自分自身に絶望し、ひたすら主により頼む者とされた者は幸いなのです。主イエスの十字架という弱さの極みから神のみ力の100%の現れである復活が出現したように、私たちも自分の弱さを認めて、全面降伏して主にすがる時、主は私たちの弱さを通してみ業をなすことがお出来になるのです。
★旧約聖書の人物でイスラエルの士師(裁き司、指導者)サムソンは、新約のヘブル書の中でダビデやサムエルと並んで信仰の勇者の一人に数えられています(ヘブル11:32)。彼は神の敵ペリシテ人を倒す目的で神に立てられ用いられた人物です。このサムソンは自らの失敗によって天から授けられた怪力を失い敵のぺリシテ人に捕えられ、両目をえぐられましたが、自分の弱さを自覚して神に祈ったところ、彼が生きている時に、倒した敵の数より多くの敵を彼は死ぬ時に打倒したと聖書は語っています(士師記16:28〜30)。
★それゆえに、キリスト者である私たち一人一人に授けられた何らかの欠陥、弱さ、弱点は、パウロと共に主にあって誇るべきことではあっても、決して悲しんだり、悔んだりする必要のないことなのだと私たちは知るべきなのです。
結び
★私たちキリスト者は、生けるぶどうの幹である主イエス・キリストに信仰と祈りと御霊とみことばによってつながっていないと何にも出来ない者であることに気づき、キリストに接ぎ木された枝であるとの自覚に立って日々へりくだって主により頼んで歩まない限り、実のあるクリスチャン生活は送れないのです。
★しかし、自分の力に絶望し、キリストなる幹に連なる枝であるとの自覚に立ち、信仰と祈りと御霊とみ言葉によって生きる時、パウロと共に弱さを誇る者となりうるのです。
URL http://31church.net
キリスト紀元2009年 11月 25日公開



