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   みことば黙想

〈30〉人の子が御国の力をもって来るまでは、死を味わわない者

〈29〉主が言われる「復讐は私のすることである」

聖書

 
「愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐は私のすることである。私自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、渇くなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃え盛る炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」。ローマ12:19〜21

T.ダビデとナバルの話

 ★
ダビデはナバルの羊と財産を護衛してやった事の当然の報酬を要求しましたが、ナバルは『ダビデとは誰だ。近頃は主人を捨てて逃げるしもべが多い』と言ってダビデを侮辱しました。
 ★若かったダビデが怒りに燃えて復讐しようとした時に、ナバルの賢妻アビガイルが間に入ってダビデをなだめたために、ダビデは復讐を思いとどまりました。
 ★翌日、妻アビガイルが夫ナバルにこの話をすると、ナバルはショックのあまり死人のようになり、10日後、死にました。
 ★ダビデに代わって、主がナバルの悪に報いられたのでした
(Tサムエル25:1〜42)

U.ダビデとシメイの話
 ★ダビデ王が息子のアブサロムに追われて城を出る時、シメイが王を呪いました。王の家来が、「あの者の首をはねさせて下さい」と言った時、王は「主が彼に『ダビデをのろえ』と言われたのだ。誰が彼を阻止出来ようか」と言って、シメイののろいの言葉を甘んじて受け、耐え忍びました
(Uサムエル16:5〜14)
 ★ナバルの時、ダビデは血気にはやる青年でしたが、今や円熟した大人として「すべては主のみこころによって起きるのだ」と知っていましたので、じっと耐え忍ぶ道を選び取りました。
 ★しかし、晩年息子ソロモンに王位を継がせた時、ソロモンに「シメイの白髪頭を血に染めて黄泉に下らせよ」と命じ、ソロモン王に知恵を用いて、シメイを処刑するように命じました
(T列王記2:8,9)
 ★この話を読むと、ダビデが死ぬ日まで、シメイの呪いの事件を忘れられなかったこと、すなわち、シメイの無礼な行為をダビデは完全には赦し切れていなかったことを見ます。
 ★これは、ダビデが神のように完全な人ではなく、私たちと同じ弱さを持った人であったことを表しています。

V.ヨセフとその兄弟たちの話
 ★話はさかのぼって、エジプトの宰相になったヨセフが、穀物を買いに来た兄弟たちを見た時、「お前たちはスパイだ」と言って、そうでないなら「末の弟ベニヤミンを連れて来い」と命じました
(創世記42:1〜9)
 ★ヨセフはその時、故郷にいた少年の頃に見た夢を思い出して、その夢の実現を自分の目で確かめたいという思いが働いていたことは間違いないでしょう。しかし、それだけでなく、同時に自分をイシマエルの隊商に売り飛ばした兄弟たちを少々こらしめてやれ、という気が全然なかったとは思えません。
 ★彼ら兄弟たちの父ヤコブが死んだ後、ヨセフの復讐を恐れた兄弟たちは、ヨセフにこう言いました。「父は死ぬ前、私たちにこう言っていました、『ヨセフに言いなさい。父がこう言っていた。ヨセフよ。兄たちを赦してやってくれ』」と
(創世記50:15〜21)
 ★この言葉の真実性を裏付ける聖句はありません。従って、これは兄弟たちの作り話だったと思われます。しかし、兄弟が互いに赦し合って仲良く過ごしてくれることは、親なら誰もが願うことであって、たとえ作り話でもその言葉は真実を伝えていたと思います。
 ★この言葉を聞いて、「ヨセフは泣いた」とあります。彼は、この時つらい昔のことを思い起こすと共に、父の愛情に心を打たれたのだと思います。
 ★ヨセフは数奇な自分の半生を振り返って、自分がエジプトに身売りされたのも、この7年の大飢饉の時に父の家族を救うための神の摂理であったと悟っていました。辛い苦しい体験を通して、ヨセフはそれを学んでいました。
 ★結局、ヨセフは兄弟たちのした悪に対して、彼らに善をもって報いることが出来ました。

W.裏切った弟子たちに対する主イエスの態度
 ★ご自身を裏切ったイスカリオテのユダに「友よ」と呼びかけて、最後まで見捨てず、悔い改めを促しておられました
(マタイ26:50)
 ★敵の手に捕らえられた主イエスを見捨てて、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった弟子たちの前に、復活後最初に姿を現わされた時、彼らに掛けられた言葉が「平安あれ」(今の日本語の挨拶で言えば「今日は。元気ですか」と言ったところ)でした。
 ★私たちでしたら、弟子たちに「何で恩をあだで返すように、あっさり私を見捨てたのか」と一言苦言を呈したくなるところを、すっかり赦して、主は何のこだわりもなく、いつものように「平安あれ」と挨拶されたのでした。
 ★3度も「彼のことは知らない」と主イエスを公然と否定したペテロ
(ルカ22:59〜62)に対しても、3度の否定の罪をきよめるかのように、3度「私を愛するか」と尋ね、「それなら、私の羊を飼いなさい」とキリスト教会の牧者の重任を委ねられました(ヨハネ21:15〜19)
 ★私たちもこの主に習って、人のした悪に対して善をもって報いる者でありたいと切に願うものです。

キリスト紀元2007年 10月 10日公開


〈30〉人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者

聖書
 
24それからイエスは弟子たちに言われた、『誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従って来なさい。25自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。26たとい人が全世界を儲けても、自分の命を損したら、何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことが出来ようか。27人の子は父の栄光のうちに、み使いたちを従えて来るが、その時には、実際の行いに応じて、それぞれに報いるであろう。28よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる』」。 マタイ16:24〜28

 ★上記テキスト28節の「人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」というみ言葉を考えて見たいと思います。
 ★他の共観福音書のマルコやルカにおけるこの28節の並行聖句では、それぞれ次のようになっています。

 「また、彼らに言われた、『よく聞いておくがよい。神の国が力を持って来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる』」。 マルコ9:1

 「よく聞いておくがよい。神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。ルカ9:27


 ★マタイ16:28が人の子の到来、すなわちキリストの再臨を指しているのに対して、上記マルコとルカの聖句は「神の国の力による到来」を指しています。
 ★その「神の国の力による到来」とはキリストの十字架の後50日目に起きた聖霊の降臨によって、地上の神の国(キリスト教会)が聖霊の力を得て、爆発的に進展して行く様子を描写する言葉です。
 ★12使徒の中のひとり、ヨハネは長生きして教会の発展して行く有様を自分の目で目撃しています。

 ★しかし、マタイ16:28では、「人の子、すなわちイエス・キリストが御国の力をもって来る、すなわち再臨なさるのを見るまで、死なない者がここにいる」、と主は言っておられます。
 ★「死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と訳されている原語ギリシャ語テキストは「ここに立っている者達のうちのある者達は死を味わわない」となっています。
 ★口語訳が「者」と単数形で訳出している語を新改訳は「立っている人々」「死を味わわない人々」と複数形で正確に訳しています。
 ★「キリスト再臨の日まで死なない人々がいる」と主が言われるその意味はどういう意味でしょうか。この主の発言の時点から約2千年を経過した現在、主の再臨はまだ実現していません。そして、このみ言葉が語られた時、主の前に立っていた人々はみな地上に現在、当然ながら生存していません。
 ★では、ここで主イエスが「死を味わわない」、すなわち「死なない」と言っておられる言葉の意味をどう理解するべきでしょうか。
 ★ヨハネ11:25、26で主はこう言っておられます。

 
「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」 ヨハネ11:25,26

 ★上記の聖句と共に、下記の聖句もキリスト者の命は迫害者によっても奪い去られることはない、すなわち、キリスト者は殺されても死なない、「死んでも生きている」と主は言明しておられます。

 
「また、からだを殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい」。マタイ10:28

 ★この不死の永遠の命は、キリストのため、福音のため、自分を捨て、自分の十字架を背負って主に従うすべてのキリスト者に与えられ、特に、最後まで耐え忍ぶ人々に与えられる命です
(マタイ24:13)
 ★人々の前で主イエスを恥としないすべてのキリスト者はキリスト再臨の日まで、死んでも生きるのであり、殺されても死なないのです。
 ★今、天に居られる主イエスは私たちの永遠の住まいの用意が出来て
(ヨハネ14:1〜3)、世界の人々への福音宣教が完了したと主によって認められ次第(マタイ24:14)、天に昇った時と同じ御姿で再臨されます(使徒1:11)
 ★その時はキリストの敵たちの滅びの時であり、従順なキリスト者たちの救いの完成の時、新天新地の再創造の時です。
 ★地上の宝を天に持って行くことは出来ませんが、主のみ言葉に従って行った良い行いはその人の天の宝となって、その人と共に天にまでついて行きます。

 
「また私は、天からの声がこう言うのを聞いた、『書き記せ、「今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである」』。御霊も言う、『しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについて行く』」。黙示録14:13

 ★キリスト再臨の日は、私たちキリスト者の地上のからだが復活のキリストの栄光の体と同じ、新天新地用の死なないからだに一瞬にして変えられる日です。

 
「しかし、私たちの国籍は天にある。そこから、救い主、主イエス・キリストの来られるのを、私たちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。 ピリピ3:21



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キリスト紀元2007年 10月 30日公開


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