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   みことば黙想


〈28〉キリスト者に内住する二人の人

聖書

 
14私は、律法は霊的なものであると知っている。しかし、私は肉につける者であって、罪のもとに売られているのである。15私は自分のしている事が、分からない。なぜなら、私は自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

 
16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、私は律法が良いものであることを承認していることになる。17そこで、この事をしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。18私の内に、すなわち、私の肉の内には、善なるものが宿っていないことを、私は知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。19すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。20もし、欲していない事をしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。

 21そこで、善をしようと欲している私に、悪が入り込んでいるという法則があるのを見る。22すなわち、私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、23私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。24私は、何というみじめな人間なのだろう。誰が、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか。

 25私たちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、私自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
 ローマ人への手紙7:14〜25


T.パウロはここでクリスチャンになる前の自分のことを語っているとする解釈

 ★メソジスト派のジョン・ウェスレイらの解釈です。14節後半の「しかし、私は肉につける者であって、罪のもとに売られているのである。」という表現は、確かにキリスト者である現在のパウロには当てはまらないように見えます。

U.パウロが語っているのはクリスチャンになってからの自分自身の心の中の戦いの現状を語っているとする解釈
 ★この解釈は教父アウグスチヌスや長老派マシュー・ヘンリーらに支持されています。この解釈によれば、ローマ書7章はクリスチャンの内面の罪との戦いの姿を描いているものであって、この中の「私」は回心後の現在のキリスト者パウロ自身のことになります。
 ★その理由は、16節と22節で「私は律法を良いものと認め、律法を喜んでいる」と言っています。非キリスト者は律法を憎んでおり、お世辞にも「喜んでいる」と言えない心の状態だからです。
 ★すなわち、非キリスト者は「神を愛し、隣人を自分と同様に愛しなさい」という律法を忠実に実践したいとは思っていません。それを願うのはキリスト者です。
 ★従って、ロマ7章の「私」はキリスト信仰以前のパウロのことではなく、晩年のアウグスチヌスM.ヘンリーの解釈するようにキリストのしもべとしての信仰者パウロのことであると理解する方が妥当です。

V.キリスト者に内住する二人の人
 ★新約聖書が描く地上生活をするクリスチャンは、完全に罪のない正しい人々ではなく、ペテロのように、主に褒められる模範的な答えをしたかと思うと次の瞬間、「引き下がれ、サタン」とこっぴどく叱られるような間違いを仕出かす人々として描かれています
(マタイ16:13〜23)
 ★旧約聖書の信仰の偉人ダビデも姦淫と殺人の二重の重大犯罪を犯しながらも、彼の悔い改めと主の憐れみとの故に、その罪が赦されています
(Uサムエル11:1〜12:13:ローマ4:6〜8)
 ★私たちキリスト者は、この世に生きている限り、霊と肉、信仰と不信仰の戦いを避けることは出来ません。

 「私は命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互いに相逆らい、その結果、あなた方は自分でしようと思うことを、することが出来ないようになる」ガラテヤ5:16、17

 
★私たちキリスト者は信仰によって義とされ罪と滅びから救われました(ローマ6:23)。これは神のみ前での法的出来事であり、揺るぎのない事実です。しかし、現実の日々の日常生活においては、私たちは日々罪と肉とこの世の誘惑と戦って、神のみ前で獲得した救いの事実をみことばと御霊と祈りによって体現し、実現して行かねばなりません。ここに、私たちの信仰の戦いがあるのです。
 
★主イエスの十字架によって頭を砕かれたはずのサタン(ヘブル2:14)が、現実に完全に敗北するのは世の終わりの日まで、延期されています。また、私たちキリスト者の敵の一つである「古き人・肉」はキリスト者となった時点で、滅びが決定しましたが、私たちが世に居る間、半殺しの状態で私たちの中に生き残っているのです。ですから、私たちは自分の肉との戦いを避けることができないのです。
 ★太平洋戦争敗戦直後の食糧難の時期を小学生として過ごした筆者はドングリの実を粉にして作ったパンや雑草のアカザのお浸し、さつまいものつる草を加工ものを食べたりしました。中でも印象に残っているのは、蛇の青大将を父が捕まえて来て、かば焼きにして食べさせてくれた体験です。そのへびは出刃包丁で首を落とされても、ニョロニョロと激しく動き回っていました。
 ★この首を落とされた蛇のように、サタンは滅びる定めにありながら、今もってこの世で悪さをしています。
 ★また、家内の友人で子供の頃、食用に供するために首を落とされたにわとりが庭を走り回っているのを見て以来、鶏肉がのどを通らなくなった人がいます。
 ★この首のないにわとりが動き回っていたように、私たちの古い人・生来の人間性(肉)は主にあって、キリストの十字架とともに死んでいるのですが、私たちの内にあって、私たちに罪を犯させるのです。

W.罪のレベル
 ★十戒の第6戒の「殺してはならない」の場合、世間の人々は現実に殺人事件を起こさなければ、この戒めを犯したことにならないと思っています。
 ★しかし、聖書の教えでは、兄弟を心で憎むこと自体がすでに殺人に当たるのです
(Tヨハネ3:15)。主イエスは兄弟に向って「馬鹿!間抜け!」と言う者は、地獄の火に落とされなければならないと言っておられます(マタイ5:22)
 ★第十戒「むさぼってはならない」は、次のみ言葉の示す生き方に逆らう生き方であり、心の状態です。

 「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。私たちは、何一つ持たないでこの世に来た。また、何一つ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。

 富む事を願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛する事は、すべての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛を持って自分自身を刺し通した」(Tテモテ6:6〜10)


 ★キリスト者であっても、衣食があれば、それでよしとする満ち足りた心をもって、日々感謝の生活を送れないなら、この第十戒を犯しているのであり、第十戒の違反、すなわち「貪欲こそ偶像礼拝である」
(コロサイ3:5)と聖書は言っていますから、そのキリスト者は神のみ前では偶像礼拝の罪を犯していると判定されるのです。
 ★上記ローマ7:14でパウロは「私は律法は霊的な者であると知っている」と言っています。つまり、ユダヤ人が理解しているように、「律法は人の外面的な行いを定め規定するもの」ではないのです。
 ★律法は人の心の奥底を探る神のことばです。この神の言葉なる律法を人がどう理解するかによって、その人の考える罪のレベルが決まります。パウロの律法解釈が深いので彼の考える罪のレベルは深いところにあるのです。
 ★ジョン・ウェスレーの流れをくむ完全聖化主義者が「キリスト者は地上で完全にきよめられた人になれる」と信じているなら、それは律法理解が浅いために、自分はすでに完全に到達したと勘違いしているだけです。

X.死の身体からの救い

 ★私たちが、この死の体(罪の肉・古い人・生来の自分)から解放されるのは、古代の暴君によって死体をくくり付けられた囚人のように、私たちが世を去る時、すなわち私たちが死ぬ時以外にありません。
 ★私たちキリスト者は神のみ前で信仰によって、法的に義とされ(つまり、聖められ、罪を赦され)ていますが、地上に生きている限り、完全に聖(きよ)められ、罪のない状態にはなれません。

 
「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理は私たちの中にない」(Tヨハネ1:8)。

 ★使徒パウロでさえ、

 
「自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、他の人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかもしれない」(Tコリント9:27)。

 と自分を戒め、主イエスの言われた、

 
「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、私に従って来なさい」(ルカ9:23)

 という御言葉に従って、み言葉と御霊と祈りによって、日々自分の肉(古い人)を自分の十字架にかけ、殺して
(ローマ8:13)、主に従っていたのです。
 ★そのパウロの生き方に習って、私たちも日々十字架の主と共に古い人(死のからだ)に死に、主の復活に合体して生きる時、私たちは日々サタンと罪とに勝利する新しい人として成長する事が出来るのです。

Y.私たちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな
 ★私たちキリスト者が、聖書時代のパリサイ人のように、自力で救いを達成することを求められるなら、パウロと共に「私はみじめな人間です。誰がこの死の体から私を救ってくれるだろうか」と慨嘆せざるを得ません。
 ★しかし、救い主イエス・キリストのあがないの故に、私たちはキリストにあって神に感謝しているのです。
 ★こう言う訳で、私たちキリスト者の地上生活は

 「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物をもっている」(Uコリント6:10)

 キリストにある生活とは、このような生活なのです。

 ★私たちは、主イエスが次のように言われるとき、全くその通り「アーメンです」と告白し、ブドウの幹・主イエスの枝とされたことを喜ぶのです。

 「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。私から離れては、あなた方は何一つ出来ないからである」(ヨハネ15:5)

 ★親に連れられて、幼子たちが主イエスのもとに来た時、弟子たちは彼らを去らせようとしましたが、主イエスは

 
「幼子らを私のところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。誰でも幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない」(ルカ18:16,17)。

 と言われました。
 ★幼子は、自分からは何も出来ず、ただ親を全面的に信頼し、親に頼って生きています。この幼子が親に頼り切っているように、主イエスに全面的に信頼し、失敗を恐れず、つまずきながらも主のみ心を実践しようと主にあって努力を怠らないなら、主は私たちに良い実を結ばせ、神の御国の子らとして受け入れてくださるのです。



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キリスト紀元2007年 9月 27日更新


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