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   みことば黙想

〈20〉「死者のためのバプテスマ

聖書

 
20「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。・・・・・

 
29そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、何故それをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が(ギリシャ語/なぜ彼らは)死者のためにバプテスマを受けるのか。
 30また、何のために、私たちはいつも危険を冒しているのか。31兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストにあって、私があなたがたにつき持っている誇りにかけて言うが、私は日々死んでいるのである。32もし、私が人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それは何の役に立つのか。
 もし死人がよみがえらないのなら、『私たちは飲み食いしようではないか。明日も分からぬ命なのだ』。33間違ってはいけない。『悪い交わりは、良い習わしを損なう』。34目覚めて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。
 あなた方のうちには、神について無知な人々がいる。あなた方をはずかしめる為に、私はこう言うのだ」。
Tコリント15:20、29〜34


 T.29節の「死者のためのバプテスマ」の解釈が無数にあること
 ★この29節の「死者のためのバプテスマ」の解釈は千差万別の解釈があり、どれも決め手に欠けています。聖書自身が認めているように、聖書の中には、解釈が困難な箇所が少数ながらあります。聖書が言うように、理解困難な箇所は、無理な解釈をしないことが大事です。

 
「彼(パウロ)は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、分かりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡をまねいている」。(Uペテロ3:16)

 
U、異端のモルモン教の教え
 ★上記のみ言葉が言う無理な解釈を施して自分の滅亡を招いているのが、異端のモルモン教会です。彼らは、このTコリント15:29の「死者のためのバプテスマ」の言及を根拠に彼らの信仰を持たずに死んだ人々の代わりに生きている信者がバプテスマを受ける「代理洗礼」によって死んだ人を救いに導くことができるとしています。

 
V.代理洗礼は聖書の教理か?
 ★この「代理洗礼」の教理は、洗礼そのものに人を救う力があるとする考えから来ています。主が信仰者に洗礼を受けるように命じられたみ言葉
(マタイ28:19; マルコ16:16; 使徒2:38)への従順の第一歩として、また信仰告白のしるしとしてキリスト者は洗礼を受けます(使徒8:12)が、しかし、人を救うのは信仰であって、洗礼という礼典が人を救うわけではありません。
 ★極端な事例を挙げるなら、主イエスと一緒に十字架にかかって主を信じてパラダイスに移された強盗がいます。彼は洗礼を受けることなしに、天国に移され(救われ)ました。
 ★パウロもこのコリント人への手紙〈T〉の中で、

 
「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためである」(1:17)。そして、「神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」(1:21)

 と説いて、洗礼そのものではなくキリスト信仰が人を救うのであると諭しています。

 
W.単純な解釈
 ★ここで29節の解釈に移りますが、筆者が神学校に入る前、一信徒としてこの箇所を読んだ時、文脈の中での議論に従って、「死者がよみがえらない」と仮定した場合、「キリストのためのバプテスマ」は「死者のためのバプテスマ」になってしまう、と言う意味だろうと考えていました。
 ★しかし、この「死者のため(ヒュペル トーン ネクローン)のバプテスマ」の「死者」はギリシャ語では複数形になっているので、その解釈は成立せず没とならざるを得ません。

 
X.筆者が妥当とする解釈
 ★数ある解釈の中で筆者が妥当と見る2つの解釈を紹介します。一つは、コリント教会の中にいた「復活はない」と主張していた異端分子
(Tコリント15:12)が、現代のモルモン教徒のような「死者のためのバプテスマ」を実施していたと見る解釈です。

 「さて、キリストは死人の中からよみがえったと宣べ伝えられているのに、あなた方のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか」Tコリント15:12

 ★上記テキストにカッコで付記したように29節後半は、「なぜ彼らは死者のためのバプテスマを受けるのか」と訳せます。死者の復活を否定する彼らがなぜ「死人の復活」を前提とする「死者のためのバプテスマ」を受けて自己矛盾に陥っているのか。口で否定する復活を彼らは行いで肯定しているではないか。とパウロは言おうとしているのでしょう。もちろん、パウロは彼らの「死者のためのバプテスマ」を是認して言及しているのでなく、「死者の復活を信じない彼らがなぜ復活を前提とするバプテスマを死者のために用いるのか」と言っているに過ぎません。

 ★もう一つの解釈は、「死者のためのバプテスマ」を「死者と一体になるためのバプテスマ」とする解釈です。主イエスは、ご自分が私たちのために受けられた十字架の苦難と死とを「バプテスマ」と呼んでおられます。

「私には受けねばならないバプテスマがある」。ルカ12:50

 聖書は私たちキリスト者が受けるバプテスマ(洗礼)はキリストの死と復活に与るバプテスマであると言っています。

 
「それとも、あなた方は知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死に与るバプテスマを受けたのである。すなわち、私たちは、その死に与るバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、私たちも新しい命に生きるためである。もし私たちが、彼の死に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるであろう」。 ローマ6:3〜5

 ★私たちキリスト者はバプテスマ(洗礼)を受けることによってキリストと共にこの世に対して死んだのです。つまり、キリストのために殉教の死を遂げた人々の仲間になるためにバプテスマを受けたのです。
 ★それは、キリストと共に、今この世で新しい命によみがえり(新生し)、キリスト再臨の日に、天の御国の市民として殉教者たちと共にキリストと同じ栄光の体によみがえるためです。
 ★ですから、「死者のためのバプテスマ」とは来るべき栄光の復活に与るために、御名のために命を捨てた殉教者の仲間としてこの世を生きる決意をすることです。

 
Y.重要なのは復活が真実であること
 ★上記の解釈も決定的とは言えません。とはいえ、この「死者のためのバプテスマ」の真の解釈が何であろうと、Tコリント15章のパウロの論説には何の影響もありません。
 ★パウロが15章で力説していることは死者の復活とキリストの復活の真実性・事実性であって、「死者のためのバプテスマ」の話題も死人の復活の真実を傍証する事例の一つとして取り上げた話題に過ぎません。

 
Z.キリストの復活を信じないキリスト教会
 ★キリストの身体の復活を信じないキリスト教会が世間に存在していることを明言しておく必要があります。日本で最大のプロテスタント・キリスト教団はいろいろな信条・信仰告白をもった教会の集まりです。そこには健全な聖書信仰に立つ教会もあれば、キリストの復活を信じていない教会もあります。
 ★そのような教会の牧師・信徒はパウロの言葉を借りるなら、この世で最も「哀れな存在」であると言わなければなりません
(19節)。なぜなら、彼らは道徳的・倫理的には聖書の教理に従いながら、その信仰の故に、死後、世の不信仰者と一緒に滅びるからです。

 
17もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなた方の信仰は空虚なものとなり、あなた方は、今なお罪の中にいることになろう。18そうだとすると、キリストに在って眠った者たちは、滅んでしまったのである。19もし私たちが、この世の中の生活でキリストにあって単なる望みを抱いているだけだとすれば、私たちは、すべての人々の中で最も哀れむべき存在となる」。 (Tコリント15:17〜19)

 
[.70〜80年の人生を犠牲にする者VS永遠の命を犠牲にする者
 ★Tコリント15章に何度も出てくる(13,16,29節)「もし、死人がよみがえらないのなら」の仮定に立って考えて見ましょう。その場合、キリストの復活に人生をかけたキリスト者は極端な言い方をすれば自分の70〜80年の短い人生を無駄にしたことになります。他方、自分の好きなように生きた不信仰者は世的判定に従えば短い人生を得したことになります。
 ★逆に、「もし、キリストの復活が事実であるなら」(私たちキリスト者はその信仰に固く立っていますが、あくまでも、世の一般人の考え方に立って言っています)、私たちキリスト者は永遠の命(時間と言っても良いでしょう)を獲得し、非キリスト者は永遠の命(時間)を失うことになります。
 ★従って、キリストの復活信仰はキリスト者がこの世の短い人生を犠牲にすることで終わるのか、あるいは不信仰者が永遠の時間(命)を大損する結果を招くのかの二つに一つを決定付ける試金石であるということになります。

 \.復活信仰に立つキリスト者の祝福
 ★科学的かつ論理的な論証をいくら積み上げても、人をキリストの復活信仰に導くことは出来ません。私たちキリスト者がキリストの復活信仰に立つことが出来るのは、神のみことば(聖書)とみことばと共に心に働く神の御霊(聖霊)の説得の御業によるのです。
 ★死ですべてが終わりでなく、死が神と共なる永遠至福の新生活の出発点であるとの確信に立ち、日々神に出会う備えをすることが出来る幸いを筆者はいつも主に感謝しています。
 ★老若男女の誰もが何時死んで神の法廷に呼び出されても良い心の備えをしなくてはなりません。
 ★若い人は学校でも家でも教えてもらえない、天国への狭い門と細い道を知るために聖書を読みなさい。

 
「狭い門からはいれ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない」マタイ7:13,14

 ★働き盛りの人々は、稼ぐことで夢中になっているうちに、なくならない食物のために働く道のあることを知らずに滅びの道を転げ落ちないようにしてください。

 
「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くが良い。これは人の子(キリスト)があなた方に与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。ヨハネ6:27

 ★高齢者は今からでも遅くありません。死後に神の裁きがあることを知って唯一の救い主キリストの下に来てください。

 
「人は一度死ぬことと、死後神の裁きを受けることが定まっている」ヘブル9:27
 「主イエスを信じる者は裁かれることなく、永遠の命をもつ」
ヨハネ3:16、18,36


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キリスト紀元2006年 8月 30日公開


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