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   みことば黙想

〈15〉 神の御声を聞くこと 御心を知ること

聖書

 
★「神は、昔は預言者たちにより、色々な時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、私達に語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」 ヘブル1:1,2

 
★「彼がこう言っている間に、雲が沸き起こって彼らをおおい始めた。そして、その雲に囲まれた時、彼らは恐れた。すると雲の中から声があった、『これは私の子、私の選んだ者である。この者に聞け』」 ルカ9:34,35

 ★「神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ。人々が熟睡する時、または床でまどろむ時、夢あるいは夜の幻の中で、彼は人々の耳を開き、警告をもって彼らを恐れさせ、こうして人にその悪しきわざを離れさせ、高ぶりを人から除き、その魂を守って、墓に至らせず、その命を守って、剣に滅びないようにされる」 
ヨブ33:14〜18

 ★「兄弟達よ。そういうわけで、神の憐れみによってあなた方に勧める。あなた方の身体を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それが、あなた方の為すべき霊的な礼拝である。あなた方は、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにする事によって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全き事であるかを、わきまえ知るべきである」 
ロマ12:1,2

はじめに

 ★キリスト教会史の中で有名な教父アウグスチヌス
(AD354-430)は33歳の頃、異教のマニ教から回心してキリスト者になりました。彼が回心したきっかけは近くで遊んでいた子供らが「取りて、読め。取りて、読め。」と童歌を歌っているのを聞いて、手元にあった聖書を手に取って、読んだことによるものでした。彼が読んだ聖書の箇所は、

 
「夜はふけ、日が近づいている。それだから、私たちは、闇のわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」(ローマ13:12,13)

でした。クリスチャンであった母モニカの永年にわたる執り成しの祈りが実を結んだ瞬間でした。
 ★この教父アウグスチウスの場合のように、神は今、いろいろな方法で、人々に語りかけておられます。神が今、私達に語りかける方法について、聖書から学びます。

T.今は、神は御子キリストによって語る

 
a.神は御子キリストによって語る
 ★神の言葉
(ヘブル1:1,2;ルカ9:34,35)が語るように、今の時代には神は御子イエス・キリストを通して私達に語りかけておられます。「聖書はキリストについて書いてある」書(ヨハネ5:39)ですから、キリストを通して語る神の声を聞くためには、聖書を読まなければなりません。そして、キリストご自身が神のことばであり(ヨハネ1:1〜14)、人類へのメッセージそのものでもあります。
 ★ヨハネによる福音書によると、「この言葉(御子キリスト)は、初めに神と共にあった。すべてのものはこれによって出来た。出来たものの中で、一つとしてこれによらないものはなかった」
(ヨハネ1:2.3)。すなわち、万物の土台(規範)がキリストであると言っています(ヨハネ1:3)

 b.万物は神とキリストを証ししている。
 ★聖書は神の存在を証明する努力はしていません。神がキリストを土台にして創造された万物は、創造主である神の知恵と力と存在を無言の中に語りかけています。

 
「もろもろの天は神の栄光を表し、大空は御手のわざを示す。この日は言葉をかの日に伝え、この夜は知識をかの夜に告げる。話すことも無く、語ることも無く、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」(詩篇19:1〜4)

 ★しかし、人は生来、罪の性質のため、霊的に死んでいるために(エペソ2:1,5)、被造世界に刻まれている神のしるしを見て、神の存在を哲学者が推論するように理性的に認識することができても、この神を崇め礼拝したり、感謝することをせず
(ローマ1:19,20)、進化論や偶像礼拝に走ります。
 ★ですから、私たちはイエス・キリストなしには唯一の神のみもとに到達することは出来ないのです。

 
「イエスは言われた、『私は道であり、真理であり、いのちである。誰でも私によらなくては、父のみもとに行くことは出来ない』」(ヨハネ14:6)

U.御心知るための条件
 ★神を知り、その御心を知るためには、心の一新によって自分を変えなければなりません
ロマ12:1,2)。クリスチャンでない人は、自分の罪を悔い改めて、主イエス・キリストを自分の救い主と信じて新しく生まれなければなりません。すでにクリスチャンである人は御心を更に良く知るために、主の血潮と御霊とみことばによって日々きよめられる必要があります。

V.人生の道に迷った時、どのようにして御心を知るか

 
a.聖書
 ★心の一新によって心を新たにし、聖書を「我が道の光、足のともし火」
(詩篇119:105)として日々愛読し、これに親しんでいるクリスチャンであれば、右か左かの人生の岐路に立った時、御心にかなった道をみことばによって知ることが出来ます。適切なみことばが思い出せない時、祈ることによって御霊がそれを思い起こさせてくださいます(ヨハネ14:26)
 ★聖書というメガネを通して世の中を見、被造世界を眺める時、このメガネなしには見えなかったものが、見えてきます。最も身近な自分自身のことも、聖書なしには人は何も分かってないのです。
 ★今の時代、聖書の福音を忠実に正確に語る教会は少数派ですが、熱心に求めれば探し出すことが出来ます。そのような聖書的に健全な教会の礼拝の説教の中で、神のみ声を聞くことが出来ます。
 ★週一回の礼拝説教だけで満足せず、聖書を祈りをもって毎日忠実に計画的に全巻を読み通し続ける人には、神は御心を余すところ無く十分に知らせてくださいます。
 ★聖書のみことばによってあらゆる人生の難問は解決できると信じますが、その聖書の知識と理解の不足によって、解答を見出せない時には、どうしたらいいでしょうか。

 b.祈り
 その場合に、クリスチャンが第一に為すべき事は、祈ることです。祈ることで、ほとんどの問題は解決すると言っても過言ではないでしょう。祈ることによって道は開けるのです。
 
「私の名(イエス・キリスト)によって願うことは、何でもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである」(ヨハネ14:13)

 c.人の助言に耳を傾ける
 ★人の語る助言に耳を傾けると言っても、ユダ王国のレハベアム王のように、賢明な長老の助言を退け、自分と同年代の若者達の愚かな助言を軽率に受け入れたのでは、道を誤ってしまいます
(T列王12:1〜15)。人の意見を聞く時も、祈りとみ言葉によって最終判断を神に求める謙虚な姿勢が要求されます。
 ★以下の全ての手段・方法においても、この場合と同様、祈りとみ言葉によってそれぞれの情報を吟味して、最終判断を神に求める慎重な姿勢が要求されます。

 d.夢や幻によって御心を知る

 夢

 ★旧約聖書を読むと、異教国の王達が夢で神の御心を知らされる事例が多く出て来ます。
 ★アブラハムが異国ゲラルで保身のため、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言いました
(創世記20:1〜7;妻は異母姉妹であったので半分真実でした/創世記20:12)。そこで、ゲラルの王アビメレクは彼女を王宮に召し入れました。
 ★すると神が夜の夢の中で「あなたは、あの女のことで死ななければならない。彼女は夫のある身だから」と言われました。王が、「あなたは正しい者をも殺されるのですか。彼が、『この女は私の妹です』と言ったから、私は彼女を召し入れたのです」。神は言われました、「私はあなたが清い心でこのことを行った事を知っている。今、彼に妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、あなたは助かるでしょう」。アビメレク王は目覚めるとすぐに、神の命令を実行して、サラをアブラハムのもとに返しました。
 ★聖書の登場人物たちが夢の解き明かしを聞いて、神の御心を知る場合もあります。エジプト王パロが見た夢を、その時無実の罪で牢獄にいたヨセフが呼び出されて解き明かすことにより、ヨセフは一躍、囚人の身分からエジプトの宰相の地位に抜擢されました
(創世記41章)

 ★聖書には他人の見た夢とその解き明かしを聞いて、神の御心を確信した人のことが書かれています。
 ★士師ギデオンの時代、イスラエルの民は悪を行ったので、ミデアン人の圧制下で苦しむことになり、民が主に叫び求めると、主はギデオンという救国の士を起こされました。
 ★主がギデオンに300人の精鋭軍を選ばせ、「この300人で敵ミデアンをあなたの手に渡す」と言われました。しかし、何万という敵軍に300人の小軍を従えて立ち向かうことを恐れていたギデオンに主は「しもべを連れて敵陣に偵察に行き、そこで彼らが話していることを聞け」と言われました。ギデオンと家来が密かに敵陣に下って行って、兵士達が話し合っているのを聞きました。一人が「私は夢を見た。大きなパンが転がって来て、ミデアンの陣営の天幕を倒したのだ」と言うと、もう一人が「そのパンはイスラエルのギデオンのことに違いない。神はミデアンの全軍をギデオンに渡されるのだ」と言いました。これを聞いて、ギデオンは主を礼拝し強くされ、その300人の小隊でミデアンの大軍勢に勝利を収めたのでした
(士師記7章)

 ★昔の人々が、驚くべきものを発明したり、新発見をしたりしたのは、夢で示された場合が多かったと思います。

 

 ★新約聖書の中では、ヨッパという地で、使徒ペテロが昼食前のまどろみの中で幻を見ました。それは天から吊るされた風呂敷のようなものが下りてきて、その中にユダヤ人にとって汚れたとされる動物達が入っていました。天から「これを屠って食べよ」と言う声を聞きました。「私は汚れた物を食べません」とペテロが言うと、「主がきよめた物を清くないと言ってはならない」と答えが返って来ました。この押し問答が3回続く幻でした。
 ★この同時刻にカイザリヤではローマ軍の百卒長コルネリオにみ使いが現れて、「ヨッパに人をやって皮なめしのシモンの家に行ってそこに泊まっている使徒ペテロを訪ね、こちらに招きなさい」と言いました。このようにして、使徒ペテロは初めて異邦人にキリストの福音を語り、コルネリオとその一族を救いに導きました
(使徒10章)

 ★新約聖書はこう言っています。
 
「神がこう仰せになる。
終わりの時(キリストの十字架から再臨までの時代、すなわち今と言う時のことを指す)には、
わたしの霊をすべての(信じる)人に注ごう。
そして、あなた方の息子・娘は預言をし、
若者達は幻を見、老人達は夢を見るであろう」
(使徒2:17)

 ★従って、今のキリスト者も聖書時代の聖徒と共に、聖書と並んで夢や幻によって御心を知ることが出来るのです。

 e.自分が出会う病気や災難によって御心を知る
 ★旧約聖書に書かれているイスラエル民族の歴史を見ると、順境の時うぬぼれて主を忘れ、偶像礼拝に傾き、それを懲らしめるために、主が彼らを災難に会わせる。そこで、彼らは自分らの間違いに気付いて、主に悔い改める。すると、主は彼らに救いの手を差し伸べる、といったパターンが繰り返されています。そして、この事について聖書はこう言っています。
 
「これらの事が彼らに起こったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちに対する訓戒のためである」(Tコリント10:11)

 ★主にあっては、偶然の出来事と言うものはないのですから、自分が出会うすべての出来事から神のみ声を聞き取る耳と御心を読み取る眼を養う必要があります。聖書を毎日熱心に読んでいるクリスチャンはその霊の耳と霊の眼が開かれて、様々な試練を通して神のメッセージを見分け聞き分けることが出来るようになります。

 f.自分の日常生活や職場での体験から知る

新約聖書から

 ★主イエスを感心させた二人の異邦人の話が福音書に出て来ます。主イエスを感動させたのは、二人がそれぞれの生活や職場での人生体験から神の御心を学んでいたことでした。
 ★その一人は、カナン人の女性(マルコ福音書ではギリシャ人でツロ・フェニキア出身の女性)で、「悪霊につかれて苦しんでいる娘を哀れんでください」と必死に哀願したが、主イエスは「私はイスラエルの失われた羊以外の者には遣わされていない。子供達のパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と答えられました。すると、この女性は「小犬も、主人の食卓から落ちるパンくずは頂きます」と答えました。その意味は、「私たち小犬のような異邦人も、選民イスラエルが神から受ける天の恵みのパンのおこぼれぐらいは頂けるはずです」と言うことです
(マタイ15:21〜28;マルコ7:24〜30)
 ★これを聞かれた主イエスは、彼女の信仰に痛く心を動かされ、「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。あなたの願い通りになるように」と言われました。そして、その瞬間、その人の娘は癒されたのでした。

 ★もう一人はローマ軍の百卒長(新改訳は百人隊長)です。彼のしもべが病気で死に掛かっていたので、ユダヤ人の長老を主イエスのもとに遣わして、しもべを癒して下さるよう頼んだ。主イエスが彼の家に向かうと、百卒長は更に友人を送って、こう言いました。「私の屋根の下にあなた様をお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、しもべは直ります。私も権威の下にいる者ですが、私の下にも兵卒がいまして、私のことばに絶対服従しますから」
(ルカ7:1〜10)
 ★主イエスはこれを聞いて非常に感心され、人々に「これほどの信仰はイスラエルの中でも見たことがない」と言われました。百卒長のしもべはその時、癒されました。

 ★この二人は自分の人生体験から、身の回りで起きていることを通して、神の真理・御心を学んでいました。世界は御子キリストを基盤として造られていますから、世界を注意深く観察することによってキリストの真理・神の知恵・神の御心を発見できるのです。神の造られた世界は、神の福音の真理を物語るたとえ話であふれています。

旧約聖書から
 ★預言者エレミヤは「陶器師の家へ行きなさい。そこで私のことばを聞かせよう」と言う主のことばを聞いて、陶器師の家に行った。陶器師はろくろで仕事をしていたが、その人は手の中で仕損じた時、その粘土を使って意のままに他の器を造った。エレミヤがこれを見ていた時、主のことばが彼に臨んだ、
 「イスラエルの家よ。この陶器師がしたように、私もあなた方に対して出来ないだろうか。陶器師の手に粘土があるように、イスラエルよ、あなた方は私の手の中にある。私が民を滅ぼすことがあるが、その国民が悪を離れるならば、私はこれに災いを下そうとしたことを思い返す」(エレミヤ18:1〜11)
 ★エレミヤが陶器師の仕事を観察している時に、主のみ声を聞いたように、私たちも日常生活の中で眼にするあらゆる事象を通して神の細い小さなみ声(T列王19:12,13)を聞くことが出来ます。

 
g.心の思いや印象によって
 ★
「放蕩息子のたとえ」の中のその放蕩息子が、父からもらった財産を全部使い果たし、どん底に落ち込んだ時、本心に立ち返り、ふと「父の家に戻ろう」と言う思いをもったように、神の救いへの呼び声を罪人が聞く時があるのです。
 ★また、羊が羊飼いと羊泥棒の声を聞き分けるように、神の民はキリストとニセ預言者や反キリストの声や話を聞き分ける霊的判別力を聖霊によって与えられています
(ヨハネ10:1〜5)
 ★自分の名前を呼ぶ声を聞いて、はっとして注意を喚起させられ、大災難から救われたという体験談を聞くことがありますが、神が今の時代、耳で聞こえる声で人に語り掛けられることは、全く無いとは言いませんが、滅多にありません。

 
h.たまたま耳にした道行く人の会話やラジオ・テレビ放送によって
 ★ある人は今の仕事を辞めようかと悩んでいた時、道行く人が会話の中で語った「継続は力である」と言うことばを小耳にはさんで励まされ、仕事を続けることが出来、祝福されたということです。
 ★たまたま聞いたラジオの語ることばが、自分の抱えていた問題解決のヒントになったと言う証しも聞きます。

結び
 ★人類に対する神の啓示は旧新約両聖書66巻によって完結していますので、これに書き加えることも、これから削除することも許されていません
(黙示録22:18,19;マタイ5:18,19)。私達に対する神の必要かつ十分な御心がここに示されています。

 
「隠れたことは我々の神・主に属するものである。しかし、表されたことは長く我々と我々の子孫に属し、我々にこの律法の全てのことばを行わせるためである」(申命記29:29)

 ★しかし、この聖書のことばを、日常生活・社会生活に具体的に適用するに際して、聖霊は私たちの祈りを通して、いろいろな方法で私たちに語りかけ、助け、導いてくださるのです。
 ★心が感受する静かな(新改訳/かすかな)、細い神の御声
(T列王19:12,13)を判別し、サタンとこの世の声から聞き分けるためには、普段からみ言葉と祈りと御霊の導きに従って、霊的感度を磨いて行くことが一番です。


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キリスト紀元2006年 2月 28日公開


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