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   みことば黙想

〈14〉互いに戒め合うこと

聖書

 
「さて、私の兄弟達よ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互いに訓戒し合う力があることを、私は堅く信じている」。ローマ15:14
 
★「人を戒める者は舌をもってへつらう者よりも、大いなる感謝を受ける」 箴言28:23
 ★「あざける者を戒める者は、自ら恥を得、悪しき者を責める者は自ら傷を受ける。あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。知恵ある者に教訓を授けよ。彼はますます知恵を得る。正しい者を教えよ、彼は学に進む。主を畏(おそ)れることは知恵の元である。聖なる者を知ることは、悟りである」。 箴言9:7〜10
 ★「教訓を守る者は命の道にあり、懲らしめを捨てる者は道を踏み迷う」。 箴言10:17
 ★「戒めを愛する人は知識を愛する、懲らしめを憎む者は愚かである」。 
箴言12:1


1.最近の出来事
 ★ドメインの取得に伴って、筆者のメールアドレスも自動的の公開されているために、最近、海外からの迷惑メールが増えました。それらの海外からの単なる迷惑メールよりはるかに迷惑な国内からのメールが先日届きました。それは、当方のメールアドレスを無断で勝手に使ってメールマガジンの受信登録を済ませて置いて、「メールマガジンの配信を始めました。テストケースとして勝手ながら貴メールアドレスで購読登録完了しました。つきましては、購読を希望されない場合は登録取り消しのためにここをクリックしてください」と言う内容の一方的メールでした。
 ★余りにも無礼千万なメールなので抗議メールを発信しましたところ、一応は陳謝する旨のメールが返って来ましたが、しかし、その内容は誠実さに欠ける腹立たしい文面のものでした。
 ★もう一つはあるホームページを見ていたら、リンクのミスが見つかりました。そのホームページの内容が良かったので、リンクミスの部分を読みたいと思いつつも放っておきました。そして半年ほどたってもまだ直されてないので、親切心も手伝って、リンクミスを知らせるメールを送りました。すると直ちに「有難うございます。早速直します」と返信が来ましたが、数時間の後に「調べて見ましたが、異常ありませんでした。当方のHPの問題ではなく、お宅のPCに問題があると思われます」というメールが届きました。
 ★当方のPCの故障や性能の悪さで他者のHPのリンクミスが起きる訳がありませんが、相手を納得させるため東京の身内の者にそのHPの検証をしてもらったところ、やはり当方がクリックした箇所で同様のリンクミスが起きることが立証されました。
 ★相手HPの管理人は考え難いことですが、当方の指摘に応じてウェブ上で自分のHPにアクセスして調べることを怠り、自分のパソコン内のドキュメント・ファイルを検証しただけで問題なしと早合点して「問題はあなたのパソコンにある」と断定してきたのでした。その背景には、自分のHPを見ている人が半年もリンクミスを知りながら知らせてくれなかったなんてありえない、という自分のHPと閲覧者に対する過信があったわけです。
 ★以上の二つのインターネット上の出来事に共通する点は、当方の助言に対する対応に誠実さが欠けていたことです。


2.ダビデ王と他のイスラエルの王達
 
★聖書の中の人物でダビデ王ほど人の助言・忠告に誠実に耳を傾けた人はまれです。彼は主を信じる信仰者でありながら、姦淫と殺人を犯した大罪人でしたが、預言者ナタンの譴責の預言の言葉に素直に聞き従って罪を告白して悔い改め、主に罪を赦されました。かくして、彼は信仰者でも罪を犯すことがあり、悔い改めれば赦されることの証人の一人となりました(ローマ4:5〜8)。このダビデは、旧約時代のイスラエルの王たちが預言者らの助言・忠告を無視するばかりか、自分の罪を断罪する預言者たちを投獄したり、処刑したりしていた時代には、ひときわ異彩を放つ存在だったのです。
 ★上記の聖書の中の出来事に比べて、先のインターネット上の二つの出来事は取るに足りない些細な出来事ですが、人間にとって人の忠告や助言に素直に、かつ誠実に対応することが決してやさしいことではないのだという例証ではあります。


3.相手の立場に立って考える
 ★
ダビデ王が預言者ナタンの預言の言葉によって自分の罪を悟ったのは、ナタンの話したたとえ話によって自分の犯した罪を客観視することが出来、被害者ウリヤの立場に自分を置いて出来事を見つめることができたためでした。
 ★預言者ナタンのたとえ話はこうでした(
Uサムエル12:1〜6)、「ある町に貧しい人と金持ちが居ました。金持ちの家に旅人が来た時、その金持ちは自分の家畜の中から取って料理するのを惜しんで貧しい人が家族の一員のように可愛がっていた、たった一匹の子羊を取り上げてこれを屠って客人の料理を造りました」。このたとえ話を聞いたダビデ王はその金持ちに激怒して「そんなことをした金持ちは死刑だ」と言いましたが、ナタンも言いました。「その金持ちとはあなたのことです」。ここで初めてダビデは自分の罪に気付いたのです。
 ★ダビデに限らず、人はみな自分の背中を見ることが出来ません。自分の目に梁(丸たん棒)のように大きな欠陥があっても気付かず、人の目のチリにはよく気付くのです
(マタイ7:1〜5)
 ★ですから、私達は自分を客観視して、相手の立場に立って考える訓練を積まないと人に思いやりのある応対のできる人になれないということなのです。
 ★ある教育者が、「今の学校教育では相手の立場に立って考えるという意味での想像力を養う面が欠けている」と指摘していましたが、全くその通りだと思います。また、更に私たちは、主なる神の立場から自分を眺めることも重要だと思います。最愛の一人子を与えるほど私たちを愛して居られる主の視点から自分を見つめ、神の愛の深さ、広さ、大きさに思いを寄せる訓練も必要なのです。人の子の普通の親であれば、他者への愛のために自分の最愛の子を捧げるなどということは想像を絶することであっても、それを実行された神の愛がいかに絶大なものであるか、その一端位は理解できるでしょう。

4.先生と呼ばれる人々の落とし穴
 
★筆者の体験では、人は他者から受ける忠告や助言を軽視する傾向にあります。中には忠告に腹を立てて、逆恨みする人もいます。特に、上に立つ人、一般に先生と呼ばれる人々の中にそういう類の人が多いようです。先生と呼ばれる人々は学校の先生ばかりでなく、医者、弁護士、更には牧師もその中に入ります。人から「先生、先生」と呼ばれているうちに優越感に浸り、生来の人の心に潜む傲慢な心がいやが上にも強化されるのです。残念ながら、牧師の中にも、イエスマンに囲まれて、人の忠告に耳を傾けようとしない傲慢な人も少数ながらいます。

5.人のふり見てわがふり直す
 
★筆者は自分の目にある梁を顧みず、人の目にあるチリを取りたがる自らの性質を自覚し、自戒しつつもやむなく何度か人に対して忠告を試みても、返って人の恨みを買う経験を何度か積んできました。人の影で笑っている人は多く居ても、面と向かって忠告してくれる人は少ないのが世の中の常です。貴重な他者からの忠告に腹を立てるのは、箴言も言うように愚か者のすることであって、賢い人は感謝して受け、その忠告を生かしてそれで自分を磨くのです。上記ローマ15:14のみ言葉によって私たちキリスト者は互いに忠告し合うことが勧められているのですから、祈りつつ、主に罪赦された者であるとの自覚をもちつつ、互いに戒め合う努力をしたいものです。
 ★そのまれで貴重な忠告を受けたなら、逆恨みなどせず、感謝して自らの軌道修正の参考にするべきです。誰も注意してくれない時は、日常見聞きする他人の振りを見て自分の振りを直して行くしかないでしょう。
 ★その際、聖書がキリストのありのままの姿と同時に、自分のありのままの姿を映し出す鏡であることも忘れてはなりません。



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キリスト紀元2005年 10月 10日公開


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